殷仲堪1 謝玄の副官

殷仲堪いんちゅうかん陳郡ちんぐんの人だ。祖父は、殷融いんゆう太常たいじょう吏部尚書りぶしょうしょ。父は殷師いんし驃騎諮議參軍ひょうきしぎさんぐん晉陵太守しんりょうだん沙陽男さようだん。殷仲堪は清談を得意としており、文章を編むことにも長けていた。つねづねこのようなことを言っている。

「三日も老子ろうしを読まずにいると、舌と脳みそとの連結がこわばってしまうのだ」


その清談スキルは桓温かんおんの下で文名を博した韓伯かんはくにも並び、人士らはみな殷仲堪を愛し慕った。やがて補佐著作郎ほさちょさくろうに抜擢されるも、謝玄しゃげん冠軍将軍かんぐんしょうぐんとして京口けいこう入りすると、直々の要請により參軍さんぐんとして迎え入れられた。朝廷は尚書郎しょうしょろうの官位でもって殷仲堪を引き留めようとしたが、従わない。やってきた殷仲堪を謝玄は長史ちょうし、すなわち事務官としてのナンバー2の座につけ、厚く信任した。


殷仲堪は謝玄にこんな手紙を送っている。

前秦ぜんしん崩壊後、中原の子女のうち江東に流れ、日々の暮らしにもあえいでいるものは数え切れませぬ。親や夫とは遥か彼方、星星のごとく離れ離れとなり、日々途切れること無く恨みつらみを募らせております。まこと痛ましきこの有様は戦乱の世の常であるとは申せ、我らの力不足を責めるには充分であると申せましょう。やはり王の恩澤が広く染み渡らねば、民を慈しみ育むことなど叶わぬ証にございます。

 いま、謝玄様は民草の苦しみを嘆かれ、その大いなる計略にて彼らを救い出さんと志されてこられました。にもかかわらず、不幸にも病を得られ、さりとて故郷に戻ることも許されず、京口に押し込まれておられる。斯様な状況、この殷仲堪、嘆息を禁じ得ませぬ!」




殷仲堪,陳郡人也。祖融,太常、吏部尚書。父師,驃騎諮議參軍、晉陵太守、沙陽男。仲堪能清言,善屬文,每雲三日不讀『道德論』,便覺舌本間強。其談理與韓康伯齊名,士咸愛慕之。調補佐著作郎。冠軍謝玄鎮京口,請為參軍。除尚書郎,不拜。玄以為長史,厚任遇之。仲堪致書于玄曰:

胡亡之後,中原子女鬻于江東者不可勝數,骨肉星離,荼毒終年,怨苦之氣,感傷和理,誠喪亂之常,足以懲戒,復非王澤廣潤,愛育蒼生之意也。當世大人既慨然經略,將以救其塗炭,而使理至於此,良可歎息!


(晋書84-17)




謝玄って淝水に臨むときに冠軍将軍になってるんですけど、その後どこを見ても将軍号が載らないんですよね。都督とは言われるし、なんか冠軍将軍の桓石虔かんせきけんを使役したりはあるんですけど。


謝玄の京口赴任と言えば病死間際。それとも淝水に先立って京口に鎮守してたり? 殷仲堪からの手紙も、この先武将というより統治者に向けて送ってる感じのやつだから、淝水あとの話だとは思うんですが。どうなんでしょね。



小川茂樹様よりの官位推移推定を頂戴しました!


淝水の戦い(拠点は廣陵):冠軍将軍・徐兗二州刺史/前鋒都督

謝玄の北伐(拠点は彭城?):冠軍将軍(※前将軍相当)・徐兗二州刺史/都督徐兗青司冀幽并七州軍事

北伐撤退後(拠点は淮陰?):解任を要求するも許されず

病気により京口で療養?

散騎常侍・左将軍・會稽内史に転任


……と言う流れなので、前将軍扱いの冠軍将軍として京口に赴任した頃なのではないか、と言うお話を頂戴しました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る