劉敬宣  宋書と違う

劉敬宣りゅうけいせん劉牢之りゅううろうしの長子である。智略こそ父には及ばなかったものの、様々な武芸では上回っていた。孫恩そんおんの亂では父に従い征討に従事、各所で功績を挙げた。司馬元顯しばげんけん從事中郎じゅうじちゅうろうになり、また桓玄かんげん諮議參軍しぎさんぐんともなった。劉牢之が傘下となった貴顕のもとに人質っぽく身柄を預けられた印象である。


劉牢之が自死すると廣陵こうりょうにわたり、そこで高雅之こうがしと合流、南燕なんえん慕容超ぼようちょうのもとに亡命した。ある夜、丸く固めた土を丸飲みする夢を見る。目が覚めると劉敬宣は喜んで言う。

ガンカンに通じる。これを丸呑みしたということは、まもなく東晋に戻れるということだ」

それから10日ほどして桓玄の敗北を聞き、司馬休之しばきゅうしとともに建康けんこうに帰還。輔國將軍ほこくしょうぐん(※ちょっと高すぎるので、おそらくこれは司馬休之の官位なのではないかと思う)、晉陵太守しんりょうたいしゅとなった。


劉裕りゅうゆう軍に合流後、諸葛長民しょかつちょうみんとともに桓歆かんいん芍陂しゃくはで破り、建威將軍けんいしょうぐん江州刺史こうしゅうししとなり、尋陽じんようを守った。また桓亮かんりょう苻宏ふこう湘中しょうちゅうで攻撃、功績を挙げた。


安帝あんていが建康に復帰すると、冠軍將軍かんぐんしょうぐん宣城內史せんじょうないしに任じられ、襄城太守じょうじょうたいしゅを兼務した。


譙縱しょうじゅうが反旗を翻すと、劉敬宣を督征蜀軍事とくせいしょくぐんじ假節かせつとし、臧熹ぞうきとともに鎮圧に向かわせた。劉敬宣は白帝はくていを発すると各地で敵を撃破こそするものの、黃虎こうこに到着すると敵將の譙道福しょうどうふくに六十日あまりの足止めを喰らい、そうこうする内に軍内で疫病が蔓延、また兵糧も尽きてしまったため撤退した。有司ゆうしよりの弾劾を受け、免官となった。なおこの遠征失敗を受け劉裕もまた車騎将軍しゃきしょうぐんから中軍将軍ちゅうぐんしょうぐんに降格となっている。


と言うわけで、免官となった劉敬宣は中軍諮議ちゅうぐんしぎ、つまり劉裕りゅうゆう劉裕の預りとなり、やがて冠軍將軍かんぐんしょうぐんとなり、更に鎮蠻護軍ちんばんごぐん安豐太守あんほうたいしゅ梁國內史りょうこくないしと転じた。盧循ろじゅんが謀反を興すと、冠軍將軍として掃討軍に従軍。平定後に左衛將軍さえいしょうぐん散騎常侍さんきじょうじとなり、更には征虜將軍せいりょしょうぐん青州刺史せいしゅうししに転じた。


間もなくして冀州刺史きしゅうししとなったが、參軍さんぐんであった司馬道賜しばどうしによって殺された。




敬宣,牢之長子也。智略不及父,而技藝過之。孫恩之亂,隨父征討,所向有功。為元顯從事中郎,又為桓玄諮議參軍。牢之敗,與廣陵相高雅之俱奔慕容超,夢丸土而服之,既覺,喜曰:「丸者桓也,丸既吞矣,我當復土也。」旬日而玄敗,遂與司馬休之還京師。拜輔國將軍、晉陵太守。與諸葛長民破桓歆於芍陂,遷建威將軍、江州刺史,鎮尋陽。又擊桓亮、苻宏於湘中,所在有功。安帝反政,徵拜冠軍將軍、宣城內史,領襄城太守。譙縱反,以敬宣督征蜀軍事、假節,與甯朔將軍臧喜西伐。敬宣人自白帝,所攻皆克。軍次黃獸,與偽將譙道福相持六十餘日,遇癘疫,又以食盡,班師,為有司所劾,免官。頃之,為中軍諮議,加冠軍將軍,尋遷鎮蠻護軍、安豐太守、梁國內史。會盧循反,以冠軍將軍從大軍南討。循平,遷左衛將軍、散騎常侍,又遷征虜將軍、青州刺史。尋改鎮冀州,為其參軍司馬道賜所害。


(晋書84-16)




劉敬宣は、「劉裕の恩人の子」枠として宋書に結構ぶ厚い伝があります。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054891500185/episodes/1177354054891873014

あっちだと割と冷遇受けてる印象でしたが、こちらの書かれ方だとなかなかの名将という感じですね。いちいち「功」と微妙にぼやかされててどこまで高い武勲を挙げられたのかはやや怪しいところですが。

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