王雅1 孝武よりの寵遇
王雅は好んで下位の者と接していた。一方で敬意と慎みを持って職務にも従事していた。孝武帝もまた王雅に対しては深い禮遇持って接し、出向ごとがあったとしてもしばしば引見に呼ばれることがあった。朝廷においても多くの謀議に参与している。孝武帝が酒宴を開催したときも、王雅が到着するまでは乾杯の音頭も取らなかったほどであった。ただ、与えられた任務や寵遇が明らかに王雅の才覚では持て余すものであったため、周辺からはしばしば佞臣的な目で見られていた。孝武帝が
王雅が正式に拝命せんと宮廷に参内しようとしたとき、たまたま王珣と一緒になった。と、そこに突然の雨。雨傘を持ち合わせていなかった王雅は、準備のあった王珣に入れて欲しいと願い出る。しかし、王珣はシカトした。こうして王雅は雨に濡れた状態で拝命することとなった。
こうして貴顕となった王雅の権威は凄まじいものであり、門下には車や騎馬が常に数百あった。とは言え王雅はそうしてやってきた者たちの応接に心を砕き、誰に対しても礼をもって接した。
王雅,字茂達,東海郯人,魏衛將軍肅之曾孫也。祖隆,後將軍。父景,大鴻臚。雅少知名,州檄主簿,舉秀才,除郎中,出補永興令,以幹理著稱。累遷尚書左右丞,歷廷尉、侍中、左衛將軍、丹陽尹,領太子左衛率。雅性好接下,敬慎奉公,孝武帝深加禮遇,雖在外職,侍見甚數,朝廷大事多參謀議。帝每置酒宴集,雅未至,不先舉觴,其見重如此。然任遇有過其才,時人被以佞幸之目。帝起清暑殿于後宮,開北上閣,出華林園,與美人張氏同遊止,惟雅與焉。
會稽王道子領太子太傅,以雅為太子少傅。時王珣兒婚,賓客車騎甚衆,會聞雅拜少傅,回詣雅者過半。時風俗頹弊,無復廉恥。然少傅之任,朝望屬珣,珣亦頗以自幸。及中詔用雅,衆遂赴雅焉。將拜,遇雨,請以傘入。王珣不許之,因冒雨而拜。雅既貴幸,威權甚震,門下車騎常數百,而善應接,傾心禮之。
(晋書83-6)
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