毛徳祖 隠れた名将
415 年、
劉裕が劉穆之の死を受け
毛德祖の弟の
德祖、璩宗人也。父祖並沒于賊中。德祖兄弟五人、相攜南渡、皆有武幹。荊州刺史劉道規以德祖為建武將軍・始平太守、又徙涪陵太守。盧循之役、道規又以為參軍、伐徐道覆於始興。尋遭母憂。
劉裕伐司馬休之、版補太尉參軍・義陽太守、賜爵遷陵縣侯、轉南陽太守。從劉裕伐姚泓、頻攻滎陽・扶風・南安・馮翊數郡、所在克捷。裕嘉之、以為龍驤將軍・秦州刺史。裕留第二子義真為安西將軍・雍州刺史。以德祖為中兵參軍、領天水太守、從義真還。裕以德祖督河東平陽二郡軍事・輔國將軍・河東太守、代劉遵考守蒲坂。及河北覆敗、德祖全軍而歸。裕方欲蕩平關洛、先以德祖督九郡軍事・冠軍將軍・滎陽京兆太守、以前後功、賜爵灌陽縣男、尋遷督司雍并三州諸軍事・冠軍將軍・司州刺史、戍武牢、為魏所沒。
德祖次弟嶷、嶷弟辯、並有志節。嶷死於盧循之難、辯沒於魯宗之役、並奮不顧命、為世所歎。
(晋書81-11)
宋書に立伝されず、索虜伝にこっそり立伝される名将、毛徳祖。
https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054895306127/episodes/16816452219045404532
で、宋書における毛徳祖の姿が見えます。毛徳祖は明らかに同族の毛修之より際立った武勲をあげているにも関わらず、宋書の劈頭を飾る武辺者列伝に姿を表しません(
なにせこの時代、武力を振るう大義名分は、原則として「皇帝が認めたもの」しか許されません。にもかかわらず劉裕、皇帝なんかいっさい関係無しで蜂起、途中で
いやほんと、毛修之ってあんな宋書の目立つところに立伝してもらえるほど重要な武勲挙げられたようには思えないんですよね。自分たちの掲げる名分論のためなら武将の功績なんぞ二の次三の次みたいなクソみてーなスタンスを貫くチーム宋書はマジでクソですし、一方で人間臭さを感じざるを得なかったりもしています。
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