毛泰   並為玄所殺

毛宝もうほうの下の子、毛安之もうあんし。字は仲祖ちゅうそ。やはり武に優れていた。將作大匠しょうさくだいしょうの任官中に死亡した。光祿勳こうろくくんが追贈された。

子は四人。毛潭もうたん毛泰もうたい毛邃もうすい毛遁もうとんである。


毛潭が爵位を継ぎ、江夏相こうかしょうにまで至った。毛泰は太傅從事中郎たいふじゅうじちゅうろう後軍諮議參軍こうぐんしぎさんぐんに。毛泰と毛邃はともに司馬道子しばどうし司馬元顕しばげんけん親子と昵懇の仲であった。あるとき父の毛安之が盧悚ろりつを討伐した功績を検討すべく頼み込み、結果平都子へいとしが追贈されることとなり、その爵位を毛潭が継ぐこととなった。


司馬元顯がかつて毛泰の家における酒宴に参加した。宴が進むうち、司馬元顕は帰りたく思っていたのだが、毛泰がしきりに司馬元顕に留まるように進め、言う。

「公がもし去ろうとなさるのならば、そのおみ足ふん捕まえてでもお留め申し上げますぞ」

司馬元顯は激怒し、袖を払い、退出した。これ以降司馬元顯との関係が悪化した。


司馬元顯が敗れたとき、毛泰は冠軍將軍かんぐんしょうぐん堂邑どうゆう太山たいざん二郡太守にぐんたいしゅとなっていた。毛邃は游擊將軍ゆうげきしょうぐん、毛遁は太傅主簿たいふしゅぼであった。桓玄かんげんが朝廷の大権を握ると、毛泰に司馬元顯を連行するよう命じた。新亭しんていまで運んだところで、毛泰はかねてより抱えていた恨み辛みから、自身の拳で司馬元顕を殴りつけた。


毛泰らは、間もなくして桓玄により殺された。ただし毛遁だけは廣州こうしゅうへの流刑という形が取られた。

劉裕らが桓玄を破り、安帝が反正すると、流刑が解除され、宜都太守ぎとたいしゅに任じられた。




安之字仲祖、亦有武幹。領將作大匠。卒官。追贈光祿勳。

四子、潭・泰・邃・遁。潭嗣爵、官至江夏相。泰歷太傅從事中郎・後軍諮議參軍、與邃俱為會稽王父子所昵、乃追論安之討盧悚勳、賜爵平都子、命潭襲爵。元顯嘗宴泰家、既而欲去、泰苦留之曰、「公若遂去、當取公腳」。元顯大怒、奮衣而出、遂與元顯有隙。及元顯敗、泰時為冠軍將軍・堂邑太山二郡太守。邃為游擊將軍、遁為太傅主簿。桓玄得志、使泰收元顯、送于新亭、泰因宿恨、手加毆辱。俄並為玄所殺、惟遁被徙廣州。義熙初、得還、至宜都太守。


(晋書81-10)




……なんかぜんぜん情報足りんくない? なんかエピソードが飛び飛びすぎて意味がわかんない。司馬元顕との関係もわからなければどんな恨み辛みを抱えてたのかもわからず、さらに桓玄に兄弟もろとも殺されたのもわからない。いや、こっちはいとこの毛璩が桓玄に対して中指立ててきたから、その報復ってことで筋が通るか。

それにしても毛氏は東晋末の政変で一歩二歩と後塵を拝しまくった感じですね。毛修之も北魏でなかったら飼い殺しみたいな感じになってただろうしなあ。


次話、毛徳祖。劉裕軍のめっちゃ要将なのにもかかわらず立伝されず、索虜伝の中になぜか伝が差し込まれていた、あの人です。宋書における記述と比較はしておいたほうが良さそうですね。

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