毛璩3  譙縱決起

桓振かんしんが討ち取られ、安帝あんていが帝位に復帰。ここで毛璩もうきょの功績を称える詔勅が下される。


「誇り高く立つ松は寒き折にこそその誇りを際立たせ、忠臣の美しき志は國危うき折にこそまばゆく輝くものである。益州刺史えきしゅうししの毛璩がその弘正なるを体現し、義旗の軍らと手を携え、命を受け地方軍を編み、朕の幽閉された地にまで軍を進め来、朕の復位に大いに資したること、まこと朕の心を打った。ここに征西將軍せいせいしょうぐん加散騎常侍かさんきじょうじ都督ととく益梁秦涼寧えきりょうしんりょうねい五州軍事ごしゅうぐんじとしする。また今回宜都ぎと寧蜀ねいしょく二郡の統制に大いに資した文處茂ぶんしょもが崩れかけたかの地を支えきったことを称えるべく、輔國將軍ほこくしょうぐん西夷校尉せいいこうい巴西はさい梓潼しどう二郡太守にぐんたいしゅに任ずるものとする」


更に詔勅が下る。

西夷校尉せいいこうい毛瑾もうきん持節じせつかん梁秦りょうしん二州軍事にしゅうぐんじ征虜將軍せいりょしょうぐん梁秦りょうしん二州刺史にしゅうしし略陽りゃくよう武都ぶと太守たいしゅ。とする。毛瑾の弟である蜀郡しょくぐん太守たいしゅ毛瑗もうえん輔國將軍ほこくしょうぐん寧州刺史ねいしゅうししとする」


ところで、毛璩は桓振が江陵こうりょうを落としたと聞くと、兵を率い江陵に駆けつけるべく軍を編み、毛瑾や毛瑗には外江がいこうを下って進み、參軍さんぐん譙縱しょうじゅうには巴西・梓潼の二郡の軍を任せ、涪水ふすいをくだり、毛璩らの軍と巴郡はぐんで合流するよう命じた。しかしこの頃蜀人はこの遠征を快く思っていなかった。譙縱はこうした人々の気持ちに乗じ、五城水口ごじょうすいこうにて反旗をひるがえし、涪に急行して、毛瑾を殺害した。その知らせを受けた成都せいとにて待機していた毛瑾の長史ちょうしである鄭純之ていじゅんしはすぐに毛璩に知らせを飛ばす。このとき毛璩は略城りゃくじょう、成都より四百里離れた地にいた。、そこで參軍の王瓊おうけいに反乱軍を討つべく廣漢こうかんに駐屯するようめいじる。しかし僰道令きょくどうれい何林かりんらが仲間を集めて譙縱に援助。さらに毛璩の使用人が譙縱よりの勧誘により寝返っていた。こうしたことから、ついに毛璩も毛瑗、さらには子姪のうち蜀に来ていたものはことごとくが殺された。爵位は子の毛弘之もうこうしが継承した。



振死、安帝反正、詔曰、「夫貞松標於歲寒、忠臣亮於國危。益州刺史璩體識弘正、誠契義旗、受命偏師、次于近畿、匡翼之勳、實感朕心。可進征西將軍、加散騎常侍、都督益梁秦涼寧五州軍事、行宜都・寧蜀太守。文處茂宣讚蕃牧、蒙險夷難、可輔國將軍・西夷校尉・巴西梓潼二郡太守」。又詔西夷校尉瑾為持節・監梁秦二州軍事・征虜將軍・梁秦二州刺史・略陽武都太守。瑾弟蜀郡太守瑗為輔國將軍・寧州刺史。 初、璩聞振陷江陵、率眾赴難、使瑾・瑗順外江而下、使參軍譙縱領巴西・梓潼二郡軍下涪水、當與璩軍會於巴郡。蜀人不樂東征、縱因人情思歸、於五城水口反、還襲涪、害瑾、瑾留府長史鄭純之自成都馳使告璩。璩時在略城、去成都四百里、遣參軍王瓊討反者、相距於廣漢。僰道令何林聚黨助縱、而璩下人受縱誘說、遂共害璩及瑗、并子姪之在蜀者、一時殄沒。璩子弘之嗣。


(晋書81-8)




わワグネルだー!


※当項作成の前日 2023.6.24、ウクライナを攻めていたロシア軍属の傭兵団ワグネルが反旗を翻し、あわやモスクワ接近という事態になった。

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