范寧7  王凝之キレる

前話までの上奏は范寧はんねいが地方に出されて以降のものであったわけだが、そもそも范寧の地方出向は王国宝おうこくほうらのはかりごとによるものであり、孝武帝こうぶていの意に沿うものではなかった。このため范寧の上奏については多くが孝武帝の意向に合致していた。


范寧は任地の豫章よしょうにて大いに学校を設立し、また交州こうしゅうに人をやって磬石けいせき、楽器として用いられる石を採掘させ、礼楽教育のために用いさせた。過去に定められていた諸制度を見直すときには常識に囚われなかった。遠近より千人あまりのものを学ばせるため招集し、彼らが生活するための費用は、全て自身が授かっていた資産より捻出した。豫章郡でも特に著名な四姓の子弟を選び出して学問に従事させ、五經購読を課した。また學台を立てた。これは豫章郡の学問の総本山的な存在だろうか。ともあれこうした措置により、豫章郡の学問の地位が大いに高まった。


この事態を見とがめたのが、豫章が所属している江州こうしゅうの総督、すなわち刺史しし王凝之おうぎょうし王羲之おうぎしの次男である。王凝之が孝武帝に上申する。


「豫章郡には江州の人間のうち、約半数が居を構えております。太守の范寧は元々朝廷にて枢要に関わっておりましたが、いざ重要な外地を治めるにあたり、いよいよその濁りきった志をむき出し、狼藉を働かん、と目論みはじめたようにございます。豫章にはもともと六つの門がございましたが、范寧はそれらをことごとく重樓型の門に増築致しました。さらに二門を開け、合計八の門を設けております。さらに郡内には私的に七箇所の庁舎を構えました。

臣の伏して宗廟の設置についてのありようを訊ねまするに、臣下にはそれぞれの品官秩禄がございますに、寧は自ら家廟を置いてございます。又治下にある十五県にも、みな左に宗廟を置かせ、右に社稷を置かせるという、太廟に準じた形式をとらせております。みな他者の家屋や万余もの労役力を奪っての設置にございます。范寧にもし古制を尊ぶ気持ちがあるのならば、当然社稷を上位に置きましょう。しかし、いまの振る舞いはそうではない。あまりにも好き勝手な振る舞いである、と申すより他ございません。州にてそのことを聞き及ぶにあたり、改めるよう申し伝えましたが、改めようとする気配もございませぬ。それどころか、范寧は県下に対して指令をより厳しく出し、すみやかに廟を完成させよとせき立てております。陛下におかれては、どうか臣の提出した上表を太常たいじょうに附し、范寧の振るまいが禮典に沿っておるかどうかを諮って頂きたく存じます」


孝武帝は詔勅にて答える。

かん宣帝せんていはこう仰っておる。余とともに天下を治めるに足るのは良き二千石級の地方官である、と。もし范寧に王凝之のものした表通りの意図があれば、どうしてこれ以上郡を任しておれようか!」

こうして范寧の振るまいが罪に問われることとなった。


この頃、子の范泰はんたい天門太守てんもんたいしゅとなっていたが、自ら官位をなげうつことにより父の無実を主張しようとした。孝武帝としても、范寧の目指すところがあくまで学問の拡充にあると感じていたため、この件に関する判決を長らく保留としていた。やがて罪は解かれたが、豫章太守の任務からも免じられた。




初,寧之出,非帝本意,故所啟多合旨。寧在郡又大設庠序,遣人往交州采磬石,以供學用,改革舊制,不拘常憲。遠近至者千餘人,資給眾費,一出私祿。並取郡四姓子弟,皆充學生,課續五經。又起學台,功用彌廣,江州刺史王凝之上言曰:「豫章郡居此州之半。太守臣寧入參機省,出宰名郡,而肆其奢濁,所為狼籍。郡城先有六門,寧悉改作重樓,復更開二門,合前為八。私立下舍七所。臣伏尋宗廟之設,各有品秩,而寧自置家廟。又下十五縣,皆使左宗廟,右社稷,准之太廟,皆資人力,又奪人居宅,工夫萬計。寧若以古制宜崇,自當列上,而敢專輒,惟在任心。州既聞知,既符從事,制不復聽。而寧嚴威屬縣,惟令速立。願出臣表下太常,議之禮典。」詔曰:「漢宣云:可與共治天下者,良二千石也!若范寧果如凝之所表者,豈可復宰郡乎!」以此抵罪。子泰時為天門太守,棄官稱訴。帝以寧所務惟學,事久不判。會赦免。


(晋書75-18)




■斠注


『輿地紀勝』二十六章・公弻學記には「范甯之於豫章,有功於學校,自漢至晉,曠數百年閒,獨得一范甯而已。」と語られているそうです。

范甯が豫章において學校を設立して回った功績は、漢がら晉に至る数百年の期間にわたって、ただひとり范甯のみが為し得たことなのだ、と語られているそうで。


この話で面白いのは、司馬元顕しばげんけんを倒した桓玄かんげんが求めたのが豫章郡公よしょうぐんこうであり、またその桓玄を倒し劉裕りゅうゆうが得たのがやはり同じ豫章郡公だった、と言うことなんですよね。豫章郡公というのは桓玄より前には見えなかったものであり、つまり、桓玄の直前に郡としての格が跳ね上がっています。では、この格上げに寄与したものがなんなのか? と聞かれると、范寧のこの学問拡充は大きな変数なのではないか、と感じられてなりません。輿地紀勝の書きぶりからしても、范寧の豫章発展の功績が大いに讃えられている感じですし。これ、范氏と桓玄との接点をどう掘り出せるかなあ。世説新語では確かあんまり桓温と関係良くなかったとは思うんですが、さて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る