王綏   名流の裔

王愉おうゆの息子、王綏おうすい。字王愉は彥猷げんゆう。幼い頃より美名をほしいままとしており、才能を鼻にかけていたが、実際の振る舞いはカスであった。


父親が殷仲堪いんちゅうかん桓玄かんげんにとらわれ、その生死が不明となった。王綏は建康にて憂いの念を隠さず、飲食も常に質素なものとした。人々は「いざというときのことを思い、振る舞う孝子である」と称えた。


桓玄が司馬道子しばどうしらを倒し、太尉となる。王愉が桓玄の妹を娶っていたことから、王綏は外甥として寵遇を受けており、太尉たいい右長史うちょうしに任じられた。桓玄が簒奪をなすと、中書令ちゅうしょれいとなった。劉裕りゅうゆうが決起した時には冠軍將軍かんぐんしょうぐんに任じられた。


ある夜、家の梁の上に何者とも知れぬ生首があり、それがぼとりと床に落ちると、血溜まりを作った。間もなくして荊州刺史けいしゅうしし假節かせつとなるも、父の王愉おうゆの謀反計画に連座となり、弟の王納おうとうとともに処刑された。


さて、王綏といえば琅琊ろうや王謐おうひつ桓沖かんちゅうの孫の桓胤かんいんとその盛名を等しくしており、後進の秀として知られていた。王謐は人心の極み、三公にまで駆け上がり、その身を全うして死んだ。桓胤ものちに殷仲文いんちゅうぶんらに担がれたかどで処刑こそされたものの、その名声は高いままであった。ただひとり、王綏はその名声を損ねていた。他者に対応するに当たり、徳少なく自儘だったためである。


この一族はかん雁門太守かんもんたいしゅであった王澤おうたくより名が知られ、その息子王昶おうちょう以下はすでに書いたように名門としての名声を捕縛していた。王坦之おうたんしの息子世代では王忱おうしんが秀出とされ、孫世代ではこの王綏。澤昶湛承述坦忱綏と、実に八世代に渡って名士として讃えられる人間を輩出し続けるのは他にも類を見ないことであった。




綏字彥猷。少有美稱,厚自矜邁,實鄙而無行。愉為殷、桓所捕,綏未測存亡,在都有憂色,居處飲食,每事貶降,時人每謂為「試守孝子」。桓玄之為太尉,綏以桓氏甥甚見寵待,為太尉右長史。及玄篡,遷中書令。劉裕建義,以為冠軍將軍。其家夜中梁上無故有人頭墮於床,而流血滂沲。俄拜荊州刺史、假節。坐父愉之謀,與弟納並被誅。

初,綏與王謐、桓胤齊名,為後進之秀。謐位官既極,保身而終。胤以從坐誅,聲稱猶全。綏身死,名論殆盡,亦以薄行矜峭而尚人故也。自昶父漢雁門太守澤已有名稱,忱又秀出,綏亦著稱,八葉繼軌,軒冕莫與為比焉。


(晋書75-8)



■斠注


王愉が捕まった話については、世説新語にも乗っています。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054889116736


世説新語の注に引かれる『中興書ちゅうこうしょ』では「王渾おうこん(王湛の兄、晋の天下統一に寄与した名将)」から始まる六世代の名士たちがすごい、と語られています。つまり名士と呼ぶべき人物を入れ替えたり、更にその世代数も水増しされているわけですね。これは家伝だと記述がパワーアップされており、かつ王湛系の人間内場系の人間な以上別にあえて王渾でなくともよかろ、という感じだったんでしょうかね。大勢に影響のある記述ではありませんが、ちょっと面白かったです。

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