王忱2  酔死

太元たいげん年間、荊州刺史けいしゅうしし都督ととく荊益寧けいえきねい三州さんしゅう軍事ぐんじ建武將軍けんぶしょうぐん假節かせつ。となった。すなわち西府軍の長である。


王忱おうしんは元々自らの才気を自負しており、かつ酒の酔いにあかせた放埒な振る舞いを好み、西晋せいしん末の名士である王澄おうちょうの人となりを慕っていた。また地方総督としてはあまりに若かったため、人々はこの就任に危惧を抱いていた。

しかしいざ荊州に赴任してみれば、その統治は威風肅然。みごとにバランスの取れた政治を行った。


この頃桓玄かんげん江陵こうりょうにおり、その町を根拠地としていた。そこには同じ桓氏の係累や桓彝かんい桓温かんおん以来の故吏なども多く、皇帝をもしのがんと言うほどの勢いを示し始めていた。しかし、そうした動きはことごとく王忱によって抑え込まれた。


かつて、桓玄が王忱の元を訪問したときのことである。通常であれば門の軒先から案内人に引き連れられて主人の下に向かうわけだが、桓玄、輿から降りようともせず、そのままずかずかと敷地内に侵入。それを見た王忱、桓玄の正面に立ち、ムチにて門の柱をしたたかに打ち据える。このリアクションに桓玄は怒り、引き返した。王忱もまたそれを引き留めようともしなかった。


また月初の挨拶の場において、桓玄がやって来ると、そこにはずらりと衛兵が並べられていた。そこで桓玄は王忱に対し「猟をしたいので数百人ほどの人手を貸して欲しい」と言い出す。下手に渡せば、いきなり桓玄から襲われてもおかしくはない局面である。しかし王忱、平然と要求通りの人手を桓玄に与えてしまう。このことから桓玄は王忱を憚るも、一方で感服もするのだった。


王忱は細かいことにはこだわらないたちでこそあったが、晩年ともなると酒の量が増え、ひとたび飲み始めたら一ヶ月ほど酔いが醒めないというありさまであった。あるときなど裸でふらふらと外に出たりもした。三日も酒を飲めないような状態でいると、それだけで露骨に不機嫌そうな表情になった。


あるとき、妻の父親が死亡した。このときも王忱は酔っ払っていたが、しゅうとの元で慟哭し、また同席していた参列客十人ばかりと手を繋ぎ、髪を振り乱し、裸となり、みなで故人を囲んでそのまわりをぐるぐる巡り、そして立ち去った。この手のエピソードはほかにもたくさんある。


数年後に官職にあったまま死亡。右將軍うしょうぐんが追贈され、ぼくと諡された。




太元中,出為荊州刺史、都督荊益寧三州軍事、建武將軍、假節。忱自恃才氣,放酒誕節,慕王澄之為人,又年少居方伯之任,談者憂之。及鎮荊州,威風肅然,殊得物和。桓玄時在江陵,既其本國。且奕葉故義,常以才雄駕物。忱每裁抑之。玄嘗詣忱,通人未出,乘轝直進。忱對玄鞭門幹,玄怒,去之,忱亦不留。嘗朔日見客,仗衛甚盛,玄言欲獵,借數百人,忱悉給之。玄憚而服焉。

性任達不拘,末年尤嗜酒,一飲連月不醒,或裸體而遊,每歡三日不歎,便覺形神不相親。婦父嘗有慘,忱乘醉吊之,婦父慟哭,忱與賓客十許人,連臂被髮裸身而入,繞之三幣百而出。其所行多此類。數年卒官,追贈右將軍,諡曰穆。


(晋書75-7)




えっなにこの人。ていうかなんで王澄? と思ったんですが、王澄、確かに名声高く、しかも荊州刺史になっていました。まぁ王敦に殺されるんですが。いいのか……殺されるやつで……



■斠注


宋明帝そうめいてい文章志ぶんしょうし

忱嗜酒,醉輒經日,自號上頓。世喭以大飮爲上頓,起自忱也。

王忱は自分が酔っ払った状態でいることを「上頓じょうとん(=より高き境地に留まっている、的なニュアンス)」と称していて、以降の流行り言葉になったそうな。


北堂書鈔ほくどうしょしょう一百四十八:

祖台之與王荊州忱書云:君須復飮不?廢止之際,將不獲已耶?通人識士,累於此物。

ここまでにもちらりと顔を出してきていた、同時代人にして祖逖の係累人、祖台之が王忱にお手紙を書きました。いわく「お前このまま飲み続けたらやっべーぞ、わかってんの? 識者もみんなお前の行く末憂えてるよ?」。なお。

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