八王裔2 司馬冏

八王の乱の根源にいると言ってもいい存在、それが司馬炎しばえんの弟、斉王せいおう司馬攸しばゆう。その息子司馬冏しばけいが八王の乱でおいたをしたため雑な扱いとなっているが、実は司馬冏の息子司馬超しばちょうが斉王位を継承している。


永嘉えいか年間、懷帝かいていは司馬冏の振る舞いがポスト八王の時代をもたらした元勳であると認定。大司馬、加侍中、假節を追贈、武閔王ぶびんおうと諡した。

やがて洛陽らくようが陥落すると、司馬超およびその兄弟はみな劉聰りゅうそうのもとに連れ去られた。このため斉王家はいちど途絶えた。


太元たいげん年間、孝武帝こうぶていは詔を下し、司馬亮しばりょうの孫(司馬宗しばそうの子)司馬柔之しばじゅうしに齊王を継承させ、司馬攸、司馬冏を祀らせた。散騎常侍を歴任した。


桓玄かんげんが朝廷で実権を握ると、司馬道子しばどうしが桓玄打倒を目論み、司馬柔之を兼侍中とし、晋の正規軍であることを示す騶虞幡すうぐはんを持たせ、桓玄打倒を江、荊二州に高らかに宣言させる。しかし姑孰こじゅくに至ったところで桓玄軍の前鋒により殺害される。光祿勳が追贈され、子の司馬建之しばけんしが斉王に立てられた。晋が滅ぶと、斉王家も廃された。




冏子超嗣爵。永嘉中,懷帝下詔,重述冏唱義元勳,還贈大司馬,加侍中、假節,追諡。及洛陽傾覆,超兄弟皆沒于劉聰,冏遂無後。太元中,詔以故南頓王宗子柔之襲封齊王,紹攸、冏之祀,曆散騎常侍。元興初,會稽王道子將討桓玄,詔柔之兼侍中,以騶虞幡宣告江、荊二州,至姑孰,為玄前鋒所害。贈光祿勳。子建之立。宋受禪,國除。


(晋書59-2)




晋の時代の封爵は、国を立てたものの宗族と、国を立てることに絶大な功績をあげたもの、がまず選ばれるんですね。基本的にはそこまでだけど、その後国体の維持にずば抜けた功績を立てたりだとか、あるいは国の再興に功績をあげたものが追加で封爵される感じでしょうか。ただここで言う王公侯伯子男と、皇帝の即位とかで言われることの多い「進爵」は、やや別物な気もしないでもなく。うーん、この辺どう扱ったもんか。


ともあれ斉王位の系譜とか、普通真っ先に再建させられるべきでしょうにね。重要な土地に重要な王を封じないとあかんでしょ。ただ、考えてみれば東晋ってひと文字郡の王ってあんまり目立たないですね。中国語ウィキとかに東西晋封爵一覧とかあるかなー。気になります。

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