晋書巻38 司馬懿の息子の子孫

宣帝裔1 琅邪王

司馬道子しばどうし恭帝きょうてい司馬徳文しばとくぶんが封じられていた、東晋とうしん朝において「副皇帝」ぐらいの立ち位置にあった、琅邪ろうや王の系譜だ。


はじめに封じられたのが司馬懿しばいの息子、司馬伷しばちゅう。次いで子の司馬覲しばきんが就く。更にその子の司馬睿しばえいが就くわけだが、この名に見覚えはないだろうか。


そう、のちの東晋開祖、元帝げんていである。


この流れから、琅邪王は非常に重い王位とされたようだ。元帝は明帝めいていの同母弟に当たる司馬裒しばぼうを琅邪王に封じ、琅邪王家の祭祀を継承させた。つまり元帝及び明帝はあくまで晋の祭祀を継承するため、空いてしまった琅邪王位をあてがったわけである。


ただ、司馬裒は夭折。このため簡文帝かんぶんていの同母兄である司馬煥しばかんに継承された――のだが、司馬煥も、封じたその日に死亡。このため簡文帝が琅邪王に封じられた。


明帝が死亡し、息子の成帝せいていが即位。ともなれば簡文帝は皇位よりやや遠い存在である。そこで成帝は弟の康帝せいていを琅邪王とし、簡文帝については会稽王かいけいおうに転封させた。


康帝が即位すると成帝の長子である哀帝あいていが琅邪王に。その哀帝が即位すると、やはり弟の廃帝はいてい海西公かいせいこうが琅邪王とされた。


廃帝が廃されてしばらくは簡文帝が會稽王の祭祀を維持しつつ琅邪王の祭祀も執り行ったが、翌年には即位。これにより琅邪王、会稽王のどちらにも後継者がいなくなる。間もなくして簡文帝が死亡、孝武帝こうぶていが即位すると、末っ子の司馬道子しばどうしが琅邪王に封じられた。安帝あんていが即位すると司馬道子は會稽王に改められ、恭帝が琅邪王に封じられた。恭帝が即位したところで、琅邪國は廃された。




琅邪武王伷太康四年薨,時年五十七。子恭王覲立。覲字思祖,拜冗從僕射。太熙元年薨,時年三十五。子睿立,是為元帝。中興初,以皇子裒為琅邪王,奉恭王祀。裒早薨,更以皇子煥為琅邪王。其日薨,復以皇子昱為琅邪王。咸和之初,既徙封會稽,成帝又以康帝為琅邪王,康帝即位,封成帝長子哀帝為琅邪王。哀帝即位,以廢帝為琅邪王。廢帝即位,以會稽王攝行琅邪國祀。簡文帝登阼,琅邪王無嗣。及帝臨崩,封少子道子為琅邪王。道子後為會稽王,更以恭帝為琅邪王。帝既即位,琅邪國除。


(晋書37-1)




うーんこの明帝系帝位継承がわからないといまいち把握しきれないこの最悪な書き方☆


ともあれ、東晋末において何故か異常な存在感を示す琅邪王という肩書の意味をよくよく理解させられる内容でした。ここで踏まえておくと美味しいのは、東海とうかい郡より琅邪郡のほうが北にあること。つまり東海王司馬越しばえつが八王の乱を制したあたりで琅邪王司馬睿が江南に落ち延びているのはだいぶおかしいですし、しかもその側近に琅邪郡を本貫としている王導おうどう王敦おうとんがいるのとか、ほんとどういうことだよお前状態なのです。


琅邪王位が東晋において重大な位置を占め、かつ東晋及び劉宋創成期において琅邪王氏がただならぬ貢献をなしていることを思えば、もう東晋〜劉宋における琅邪王氏のただならぬ暗躍ぶりを裏打ちしていると思うのですよね。ほんにやべぇ……


だからこそ、同じ王字を冠する別系の貴族にヘイトを募らせまくったとか、考えすぎですかねぇえええぇぇ???

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