司馬允之  兄とともに

司馬允之しばいんし、字は季度きど。叔父の司馬愔しばいん廣晉こうしん伯を継ぎ、輔國將軍となって吳國ごこく宣城せんじょうしょうりょうの內史を歴任する。王恭おうきょう庾楷ゆかい桓玄かんげんらが司馬道子しばどうしの乱政を嫌って討伐に出てきたところ、司馬道子の命で兄や弟らとともに庾楷を迎撃、破った。


桓玄が朝廷での実権を握ると、兄の司馬恢之しばかいしとともに廣州こうしゅう追放となり、その途上で殺された。桓玄が倒されると太常卿を追贈された。いとこの司馬康之しばこうしの子、司馬文恵しばぶんけいが爵を継ぐも、そうが立てられると爵位は廃された。


398 年、司馬恬しばてんの次男である司馬恢之の子、司馬文深しばぶんしんが 311 年に石勒によって攫われてしまった司馬毅しばき高陽こうよう王位を継承することになった。5年後に死亡し、後継者がいなかったため高密こうみつ王の司馬純之しばじゅんしの子、司馬法蓮しばほうれんに継承させた。宋が立つと王位は廃された。




允之字季度,出後叔父愔,襲爵廣晉伯,歷位輔國將軍、吳國宣城譙梁內史。王恭、庾楷、桓玄等內伐也,會稽王道子命允之兄弟距楷,破之。元興初,與兄恢之同徙廣州,於道被害。義軍起,追贈太常卿。從弟康之以子文惠襲爵。宋受禪,國除。

隆安元年,詔以譙敬王恬次子恢之子文深繼毅後。立五年,薨,無嗣,復以高密王純之子法蓮繼之。宋受禪,國除。


(晋書37-10)




文とか法が司馬氏一門の結束を固めるために同世代の宗族の子たちに共通で含まれてるんですね。東晋末にもなると司馬氏もだいぶ肩身狭かったろうしなあ。


劉裕りゅうゆうの弟が道を共通させていて、劉裕と劉道憐りゅうどうれんの子が義を共通させているのもこれでしょう。このうち劉道憐次男の劉義慶りゅうぎけいが 403 年生まれ。つまり劉裕が立身するより前にこの通字はすでに劉裕兄弟にとっての了解事項だった。このへんも掘り下げられると面白そうです。

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