韓延之 亡命者
晋書。
韓延之、字は
以降、魏書。
417 年、亡命の道中で司馬休之の死亡を見届けた韓延之、
韓延之は虎牢に赴任するに際し、
「
韓延之が死亡すると、子はその言葉に従い、魯宗之の墓のそばに韓延之を葬った。そして韓延之が死んで五十年あまりののち、
なお韓延之は
韓延之,字顯宗,南陽赭陽人,魏司徒暨之後也。少以分義稱。安帝時為建威將軍、荊州治中,轉平西府錄事參軍。以劉裕父名翹字顯宗,延之遂字顯宗,名兒為翹,以示不臣劉氏。與休之俱奔姚興。劉裕入關,又奔于魏。
韓延之,字顯宗,南陽赭陽人,魏司徒暨之後也。司馬德宗平西府錄事參軍。後奔姚興。泰常二年,與司馬文思來入國,以延之為虎牢鎮將,爵魯陽侯。初延之曾來往栢谷塢,省魯宗之墓,有終焉之志。因謂子孫云:「河洛三代所都,必有治於此者。我死不勞向北代葬也,即可就此。」及卒,子從其言,遂葬於宗之墓次。延之死後五十餘年而高祖徙都,其孫即居於墓北栢谷塢。
延之前妻羅氏生子措,措隨父入國。又以淮南王女妻延之,生道仁。措推道仁為嫡,襲父爵,位至殿中尚書。進爵西平公。
(魏書38-1)
うーん、韓延之、だいぶ重んぜられていますね。まぁ、もともと北魏としては司馬休之を傀儡政権の皇帝に据えようとしていたんでしょうから、その幹部たる韓延之については、やはり重く扱われたのでしょう。ともなれば微妙に韓措の美談っぽく書かれているこの辺の話、当然のように無言の圧力がかかっていたのでしょう。「お前が北魏の大幹部たる韓氏の跡を継げると思ってんのか、ん?」みたいな。妄想楽しいー☆
ところで、記録に残る北魏淮南王の初代は
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