司馬休之4 司馬文思

劉裕りゅうゆう後秦こうしんを滅ぼすと、司馬休之しばきゅうし司馬文思しばぶんし司馬道賜しばどうし溫楷おんかい魯軌ろき韓延之かんえんし殷約いんやく桓謐かんひつ桓璲かんすい、そして桓溫かんおんの孫である桓道度かんどうどおよび桓道子かんどうし刁雍ちょうよう袁式えんしょくら数百人は、みな妻子を伴い長孫嵩ちょうそんすう軍に投降した。それから一月あまりし、司馬休之は陣中で死んだ。その死に対し、拓跋嗣たくばつしは詔勅を下している。


「司馬休之殿は道義を同じくする者たちを伴い、万里を超え我がもとに誠意を示された。しかし我が国においてその忠誠を果たされる機会を得ること叶わず、道中にて身罷られたこと、朕はまこと傷ましく感じている。ここに征西大將軍、右光祿大夫を追贈し、始平しへい聲公と諡する」


息子の司馬文思は無事北魏に到着したが、司馬國璠や司馬道賜しばどうしの振る舞いに危うさを感じ、あえて親睦を深めるふりをして酒宴を開くこととした。司馬國璠は悪い意味で率直な性格であり、酒が入ると、たちまち司馬文思に語る。


「おれは溫楷や三城さんじょう胡の酋長である王珍おうちん曹栗そうりつらとともに謀反を起こそうと思い、いま平城へいじょうに住まう豪族を説得している。その同志もすでに数十人に及んでいるのだ」


司馬文思はこの企みを速やかに報告。司馬國璠以下はみな処刑された。この功績から司馬文思は廷尉卿に任ぜられ、また鬱林うつりん公に封ぜられた。職務をよく全うし、訴訟や刑罰にまつわる聴取において、人々が隠し事や偽証を働くこともなかった。


劉義隆りゅうぎりゅう裴方明はいほうめい後仇池こうきゅうち楊難當ようなんとうを攻撃させたとき、拓跋燾たくばつとうは司馬文思を総大将に任じ、更にはしょう王に進爵させるも救援には失敗、敗走する楊難當を回収し、平城へいじょうに帰還した。その後懷朔鎮かいさくちんの將に任じられ、453 年に死亡した。




裕滅姚泓,休之與文思及德宗河間王子道賜,輔國將軍溫楷,竟陵內史魯軌,荊州治中韓延之、殷約,平西參軍桓謐、桓璲及桓溫孫道度、道子,勃海刁雍,陳郡袁式等數百人,皆將妻子詣嵩降。月餘,休之卒于嵩軍。詔曰:「司馬休之率其同義,萬里歸誠,雅操不遂,中年殞喪,朕甚愍焉。其追贈征西大將軍、右光祿大夫,諡始平聲公。」

文思與淮南公國璠、池陽子道賜不平,而偽親之,引與飲宴。國璠性疏直,因酒醉,遂語文思,言己將與溫楷及三城胡酋王珍、曹栗等外叛,因說京師豪強可與為謀數十人。文思告之,皆坐誅。以文思為廷尉卿,賜爵鬱林公。善於其職,聽訟斷獄,百姓不復匿其情。劉義隆遣將裴方明擊楊難當於仇池,世祖以文思為假節、征南大將軍,進爵譙王,督洛豫諸軍南趣襄陽,邀其歸路。還京,為懷朔鎮將。興安初薨。

(魏書37-2)




司馬休之の家系は、記録に残る限りだと次司馬文思の息子、司馬弥陀しばみだの代で取り潰しになっているようです。切ないね。より傍流である司馬楚之しばそしの系統を残す方が害が少ないって感じだったんでしょうかね。のちに劉宋から亡命した劉義隆の五男、劉昶りゅうちょうの家系も二代のちには取り潰しになってますし。まぁ、ただの偶然ってこともあるでしょうし、あまり深く考えても仕方ないですね。

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