司馬休之3 魏書休之伝

司馬休之しばきゅうし、字は季豫きよ。もとは河內かだい郡溫おん県の人で、司馬懿しばいの末の弟、司馬遜しばそんの子孫だ。司馬叡しばえいが江南で皇位を僭称した時、司馬遜の子孫にもまた王位が継承された。司馬休之の父である司馬恬しばてん司馬曜しばようの時代に北府の長に任じられている。


402 年、司馬休之は西府の長に任じられたのだが、桓玄かんげんよりの攻撃を受け南燕なんえん慕容徳ぼようとくのもとに亡命した。劉裕りゅうゆうが桓玄を打倒すると建康に復帰、改めて西府の長に任ぜられる。


荊州にあり、司馬休之は漢水長江流域の人心をよく集めた。このため劉裕は謀反を疑うようになった。この頃司馬休之の子である司馬文思しばぶんし司馬尚之しばしょうしの就いていたしょう王位を継承、劉裕の暗殺を目論んだため、劉裕は司馬文思を捕え、司馬休之のもとに送り、然るべき処罰を下すよう求める。司馬休之は息子から譙王位を剥奪の上合わせて書面にて劉裕に陳謝した。


しかし劉裕は 415 年今度は司馬休之の息子の司馬文宝しばぶんぽうと甥の司馬文祖しばぶんそをともに捕縛、処刑した。さらに司馬休之討伐の軍を立ち上げる。追い詰められた司馬休之は司馬徳宗しばとくそうに上表、魯宗之ろそうしとその子の魯軌ろきらとともに劉裕討伐の軍を立ち上げた。しかし到底敵う相手ではなく、魯軌らとともに襄陽じょうように逃げ延びた。劉裕は更に追撃をかける。

このとき拓跋嗣たくばつし長孫嵩ちょうそんすうを派遣、河東かとうにまで軍を進め、司馬休之を支援せんと動いていた。

このとき後秦こうしん将の姚成王ようせいおう司馬国璠しばこくはんもまた救援に動いていたのだが、どちらも間に合わなかったため帰還した。司馬休之と司馬文思、魯宗之らは、ついに姚興ようこうのもとに逃げ延びた。




司馬休之,字季豫,本河內溫人,晉宣帝季弟譙王遜之後也。司馬叡僭立江南,又以遜子孫襲封。至休之父恬,為司馬昌明鎮北將軍、青兗二州刺史。

天興五年,休之為司馬德宗平西將軍、荊州刺史。為桓玄逼逐,遂奔慕容德。劉裕誅玄後,還建鄴,裕復以休之為荊州刺史。休之頗得江漢人心,劉裕疑其有異志。而休之子文思繼休之兄尚之為譙王,謀圖裕,裕執送休之,令自為其所。休之表廢文思,并與裕書陳謝。神瑞中,裕收休之子文寶、兄子文祖,並殺之,乃率眾討休之。休之上表自陳於德宗,與德宗鎮北將軍魯宗之、宗之子竟陵太守軌等起兵討裕。裕軍至江陵,休之不能敵,遂與軌奔襄陽。裕復進軍討之。太宗遣長孫嵩屯河東,將為之援。時姚興征虜將軍姚成王、冠軍將軍司馬國璠亦將兵救之,不及而還。休之遂與子文思及宗之等奔於姚興。


(魏書37-1)




文脈としては「我が国の国賓たる司馬休之を追い詰めた悪逆非道の劉裕の悪行」という感じになるのかなーと思ったら、なんか司馬文思が暗殺を目論んだとか謎の新情報が入手されて目が点。これは司馬文思から直接聞いたとか、そんな感じ? だとしたらたぶん司馬文思、自分をかっこよく見せかけるために盛ったんじゃないかなぁ。


北魏及び後秦が救援に動いたのは、まさしく 416 年の北伐を防ぎたかったから、なのでしょうね。劉裕に国内を統一されてしまったら、次の標的は間違いなく後秦北魏になる。ということは、たぶんここで両者の介入が成功したら、司馬休之は両国のバックアップのもと、軽く一世紀早い西梁の現出を見たのではないかしら。すると北伐は二、三年遅れるし、下手したら劉裕も死んでいた。だいぶカオスな未来絵図が描けそうです。


まぁ「司馬休之を劉裕が撃退する」なんてかなり筋悪のイフが成り立ったらの話だけどな!

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