司馬休之1 亡命者

司馬尚之しばしょうしの弟にして、東晋とうしん最後の有力宗族となる司馬休之しばきゅうし、字季預きよ。若い頃より清官を歴任し、王恭おうきょう庾楷ゆかいを平定した功績から龍驤將軍、襄城じょうじょう太守に任じられ、曆陽れきようを守ることとなった。桓玄が曆陽を攻めてきたとき、司馬休之は城を堅守。司馬尚之が敗れると五百人を率い打って出るも、勝てない。そこで城内に戻ると妻子を引き連れ南燕なんえん慕容超ぼようちょうのもとに脱出した。桓玄打倒の軍が立ったと聞くと、建康に帰還した。


安帝あんていが帰還するまでの皇帝代理、司馬遵しばじゅんは司馬休之に命じている。

「司馬休之の才覚、貞心、功績はすでに明らかである。曆陽における戰では見事城を守り抜いてみせるも、司馬尚之敗亡がために出奔を免れきれず、しかしなおも険しき北地にて義徒を束ねた。ここに貴公が人々より推挙されたことに応じ、周の時代における洛陽、すなわち西府を貴公に任せたく思う」


こうして荊州けいしゅう江陵こうりょうに赴任した司馬休之であったが、間もなく桓玄のいとこの子、桓振かんしんに襲われ、敗れた。襄陽じょうように逃亡。しかしここで張暢之ちょうちゅうし劉懷肅りゅうかいしゅくといった救援軍が漢水かんすいほうめんから桓振を攻撃、敗走させる。司馬休之は江陵に復帰するも王楨之おうていしより江陵失陥の咎を責められ免官となった。朝廷は魏詠之ぎえいしを大任として派遣、司馬休之は建康に戻された後、今度は後將軍として會稽かいけい內史に任じられた。


この頃会稽では地元の名士である虞嘯父ぐしょうふが戒厳体勢下における宴会、遊戯などが禁じられているにも関わらず司馬休之を招き、宴に興じた。このことを阮歆之げんいんしによって糾弾され降格となったが、間もなくもとの官位に戻された。




休之字季預。少仕清塗,以平王恭、庾楷功,拜龍驤將軍、襄城太守,鎮曆陽。桓玄攻曆陽,休之嬰城固守。及尚之戰敗,休之以五百人出城力戰,不捷,乃還城,攜子侄奔于慕容超。聞義軍起,復還京師。大將軍武陵王令曰:「前龍驤將軍休之,才幹貞審,功業既成。曆陽之戰,事在機捷。及至勢乖力屈,奉身出奔,猶鳩集義徒,崎嶇險阻。既應親賢之舉,宜委分陝之重。可監荊益梁甯秦雍六州軍事、領護南蠻校尉、荊州刺史、假節。」到鎮無幾,桓振復襲江陵,休之戰敗,出奔襄陽。甯朔將軍張暢之、高平相劉懷肅自沔攻振,走之。休之還鎮,御史中丞王楨之奏休之失戍,免官。朝廷以豫州刺史魏詠之代之,征休之還京師,拜後將軍、會稽內史。御史中丞阮歆之奏休之與尚書虞嘯父犯禁嬉戲,降號征虜將軍,尋復為後將軍。


(晋書37-7)




司馬休之の存在感って、割と陸機に近そうな気はしてるんですよね。名望はめっちゃ高いけど、と言って指揮力はあんまり、みたいな。だから政情の安定してない荊州を統率はしきれない。また会稽の虞嘯父はどうも京口武士軍団に席巻された中央をあまり快く思っていなかったフシがあったから(後に処断されている)、わざとそういった辺りと結ぶよう仕向けて、発言力を削ぎにかかっているようにも見える。


まぁ、大体においてただの偶然と見るべきなんでしょうけど、その気になればいくらでも劉裕りゅうゆうにはめられたよう描くことができるよなあ、って思うのです。というか晋書さんが狙いたいところはたぶんそこだよね。

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