司馬尚之3 死と継承者と弟
桓玄が長江沿いの城塞
司馬尚之は十日あまりの逃亡生活の末、
その後桓玄は
このとき弟の
ただし、司馬文思。かなり凶暴にして放埒であり、多くの罪なき民を殺して回っていた。政務祭祀よりも狩りに出ることが多く、その度に他者の墓を荒らして回る。このため有司よりしばしば糾弾を受け、遂には小者どもとつるみ謀反を企み始めた。
これを聞いた
及元顯稱詔西伐,命尚之為前鋒,尚之子文仲為甯遠將軍、宣城內史。桓玄至姑熟,遣馮該等攻曆陽,斷洞浦,焚尚之舟艦。尚之率步卒九千陣於浦上,先遣武都太守楊秋屯橫江。秋奔于玄軍,尚之眾潰,逃于塗中十餘日。譙國人韓連、丁元等以告玄,玄害之于建康市。玄上疏以閔王不宜絕嗣,乃更封尚之從弟康之為譙縣王。安帝反正,追贈尚之衛將軍,以休之長子文思為尚之嗣,襲封譙郡王。
文思性凶暴,每違軌度,多殺弗辜。好田獵,燒人墳墓,數為有司所糾,遂與群小謀逆。劉裕聞之,誅其黨與,送文思付父休之,令自訓厲。後與休之同怨望稱兵,為裕所敗而死,國除。
恢之字季明,曆官驃騎司馬、丹楊尹。尚之為桓玄所害,徙恢之等於廣州,而於道中害之。安帝反正,追贈撫軍將軍。
(晋書37-5)
司馬尚之の命運はともかく、司馬文思が気になります。司馬休之の上奏によれば、司馬文思の罪は「王位を返上するには値するが、殺すほどではない」ものであった、とするのですよね。晋書のこの記述を鵜呑みにすれば、罪なきものを殺し、他者の墓を暴くような無体は「そういうもの」となります。いくらなんでも無茶な。いや官位が高いと罪に対する罰が軽減されてたって論文も見たことがありますし、そんなもんなのかもしれないですけど。
ただ、どちらかって言うとこれは、劉裕の即位に当たって司馬文思の罪の実情が盛られたと思うのが妥当な気もするんですよね。「史書を編纂するに当たってリーチが掛けられる公文書」にそう載ってたんなら、そのように書くしかない。まぁ実態は闇の中。
司馬休之の言い分がどこまで信じるに値するものかもわかりませんし、この辺りは自分の描きたいブックに応じて好き勝手にいじってしまえば良さそうです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます