司馬尚之3 死と継承者と弟

司馬元顯しばげんけん桓玄かんげん討伐を宣言、軍を起こすと、司馬尚之しばしょうしを前鋒に任じ、また息子の司馬文仲しばぶんちゅうをその指揮下に加えさせた。


桓玄が長江沿いの城塞姑熟こじゅくに到達すると、馮該ふうがいらに対岸の曆陽れきようを攻撃させ、渡河地点である洞浦どうほを封鎖、司馬尚之のために用意されていた軍艦を焼き払う。このため司馬尚之の率いる步卒九千は陸戦を強いられ、川港に陣を置く。その上で楊秋ようしゅうを先触れとして遣わせたのだが、その楊秋が桓玄に投降。これにより司馬尚之軍は崩壊した。


司馬尚之は十日あまりの逃亡生活の末、韓連かんれん丁元ていげんらによる通報で遂に捕らわれる。引っ立てられた司馬尚之を、桓玄は建康市中にて公開処刑とした。


その後桓玄はしょう王の位を空白にするわけにはゆかないと上疏、司馬尚之のいとこにして、おそらくは桓玄シンパであった司馬康之に譙王位を継承させた。


このとき弟の司馬恢之しばかいし、字季明きめいは驃騎司馬をへて丹楊たんよう尹となっていたが、廣州こうしゅうへ追放されることとなり、道中で殺されている。

安帝あんていが復帰すると、司馬尚之には衛將軍が追贈され、弟の司馬休之しばきゅうしの長男である司馬文思しばぶんしに譙王位が譲り渡された。



ただし、司馬文思。かなり凶暴にして放埒であり、多くの罪なき民を殺して回っていた。政務祭祀よりも狩りに出ることが多く、その度に他者の墓を荒らして回る。このため有司よりしばしば糾弾を受け、遂には小者どもとつるみ謀反を企み始めた。

これを聞いた劉裕りゅうゆうは取り巻きどもを誅殺したうえ、その身柄を拘束、父である司馬休之のもとに送り届け、しかるべき処分を下すよう命じる。これにより司馬休之は劉裕に反旗を掲げ、劉裕への恨みを同じくするものとともに決起するも、敗北。そして死んだ。譙王家は取り潰しとなった。




及元顯稱詔西伐,命尚之為前鋒,尚之子文仲為甯遠將軍、宣城內史。桓玄至姑熟,遣馮該等攻曆陽,斷洞浦,焚尚之舟艦。尚之率步卒九千陣於浦上,先遣武都太守楊秋屯橫江。秋奔于玄軍,尚之眾潰,逃于塗中十餘日。譙國人韓連、丁元等以告玄,玄害之于建康市。玄上疏以閔王不宜絕嗣,乃更封尚之從弟康之為譙縣王。安帝反正,追贈尚之衛將軍,以休之長子文思為尚之嗣,襲封譙郡王。

文思性凶暴,每違軌度,多殺弗辜。好田獵,燒人墳墓,數為有司所糾,遂與群小謀逆。劉裕聞之,誅其黨與,送文思付父休之,令自訓厲。後與休之同怨望稱兵,為裕所敗而死,國除。

恢之字季明,曆官驃騎司馬、丹楊尹。尚之為桓玄所害,徙恢之等於廣州,而於道中害之。安帝反正,追贈撫軍將軍。


(晋書37-5)




司馬尚之の命運はともかく、司馬文思が気になります。司馬休之の上奏によれば、司馬文思の罪は「王位を返上するには値するが、殺すほどではない」ものであった、とするのですよね。晋書のこの記述を鵜呑みにすれば、罪なきものを殺し、他者の墓を暴くような無体は「そういうもの」となります。いくらなんでも無茶な。いや官位が高いと罪に対する罰が軽減されてたって論文も見たことがありますし、そんなもんなのかもしれないですけど。


ただ、どちらかって言うとこれは、劉裕の即位に当たって司馬文思の罪の実情が盛られたと思うのが妥当な気もするんですよね。「史書を編纂するに当たってリーチが掛けられる公文書」にそう載ってたんなら、そのように書くしかない。まぁ実態は闇の中。


司馬休之の言い分がどこまで信じるに値するものかもわかりませんし、この辺りは自分の描きたいブックに応じて好き勝手にいじってしまえば良さそうです。

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