司馬恬  大司馬を弾ず

しょう王、司馬恬しばてん。字は元愉げんゆ司馬懿しばいの弟、司馬進しばしんの玄孫である。祖父の司馬承しばしょうが譙王に封じられると、父の司馬無忌しばむきを経て譙王に封じられた。


若くして散騎侍郎に任じられ、更には散騎常侍、黃門郎、御史中丞に累進。司馬奕しばえきが皇位から廃されて海西かいせい公に落とされ、簡文帝かんぶんていが即位すると、司馬恬は武装した上、中堂に兵を率い居並ぶ桓溫かんおんに向け警角を吹き、皇帝前に武装も解かないでいる桓温の不敬を正面切って弾劾した。これを聞き、桓温は感嘆する。


「あのこわっぱめ、このわしに向け堂々としたものよ。畏るべき後進とは、やつのことを言うのだな」


司馬恬の忠義心に満ち、職務を徹底すること、朝廷内の誰もが恐れ憚った。やがて右衛將軍、司雍秦梁しようしんりょう四州大中正に転じ、尚書となり、侍中に昇進。左衛將軍を兼務し、臨時で吳國ごこく內史を兼務し、更には太子詹事をも兼務した。


司馬恬は宗室として功績も人望も厚く、また才気もあったため、孝武帝こうぶていよりも大いに頼られた。都督えんせいゆうへい揚州ようしゅうのうち晉陵しんりょう郡、徐州じょしゅうのうち南北なんほく郡軍事に任じられ、鎮北將軍、兗青二州刺史、假節をも拝領した。つまりは北府軍の長である。395 年に死亡。車騎將軍が追贈された。


子は四人。司馬尚之しばしょうし司馬恢之しばかいし司馬允之しばいんし司馬休之しばきゅうしである。譙王位は司馬尚之が継承した。




敬王恬,字元愉,少拜散騎侍郎,累遷散騎常侍、黃門郎、御史中丞。值海西廢,簡文帝登阼,未解嚴,大司馬桓溫屯中堂,吹警角,恬奏劾溫大不敬,請科罪。溫視奏歎曰:「此兒乃敢彈我,真可畏也。」恬忠正有幹局,在朝憚之。遷右衛將軍、司雍秦梁四州大中正,拜尚書,轉侍中,領左衛將軍,補吳國內史,又領太子詹事。恬既宗室勳望,有才用,孝武帝時深杖之,以為都督兗、青、冀、幽并揚州之晉陵、徐州之南北郡軍事,領鎮北將軍、兗青二州刺史、假節。太元十五年薨,追贈車騎將軍。四子:尚之、恢之、允之、休之。尚之立。


(晋書37-3)



司馬恬の北府軍長就任、けっこう異様なことです。というのも、歴代の北府軍の長を見てみましょう。

郗鑒ちかん蔡謨さいも褚裒ちょぼう荀羨じゅんせん郗曇ちどん范汪はんおう庾希ゆき郗愔ちいん桓溫かんおん桓沖かんちゅう刁彝ちょうい王坦之おうたんし謝安しゃあん謝玄しゃげん朱序しゅじょ

司馬恬。

王恭おうきょう劉牢之りゅうろうし桓修かんしゅう劉裕りゅうゆう

唯一なんです。司馬氏宗室が北府軍の軍権握るの。これは孝武帝が皇帝権の拡大、一発逆転を狙ったことにつなげるといいんでしょうかね。しかしそいつが司馬恬の死亡で頓挫した。

このラインナップの中に宗室をねじ込めてしまうとか、なかなかにただ事ではないことだと思うのですよね。ここをどう占えるかって、ポスト淝水期の宮廷内政争を占うキーポイントになりそうですし、またその後の司馬休之の声望にも繋がってきそうです。


っが、そのためにも、まずは兄たちの動きを見ておきたいところ。


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