晋書巻37 宗室伝

宗室伝  宗廟継承

宗室伝に列伝されている諸司馬しば氏についてだ。


章武しょうぶ王。

司馬懿しばいの弟である司馬孚しばふの孫、司馬洪しばこうが 266 年に河間かかん王に封じられた。

277 年に死亡、息子の司馬威しばいが継ぐも 278 年に章武しょうぶ王に転封。

司馬威は 288 年に死亡、弟の司馬混しばこんが継ぐ。311 年に司馬混は石勒せきろくらに殺された。

空位だった章武王位は 314 年に司馬混の遺児、司馬滔しばとうが継承。

どこかのタイミングで司馬滔の息子司馬休しばきゅうに継承されたが、その司馬休は 328 年の蘇峻そしゅんの乱で死亡した。

蘇峻の乱が落ち着いたのちの 331 年に司馬休の弟である司馬珍しばちんが継承。362 年に死亡すると、しばらくの間章武王位は空位となった。

376 年、河間王司馬欽しばきんの息子、司馬範之しばはんしが章武王位を継承した。

391 年に司馬範之が死亡、息子の司馬秀しばしゅうが継承。404 年に桂陽けいよう太守となる。しかし司馬秀の妻が桓振かんしんの妹であり、その桓振が劉裕りゅうゆうらに楯突いていたことから、司馬秀も身を危ぶみ謀反を起こすも、間もなく平定、誅殺された。章武王家は廃された。


彭城ほうじょう王。

司馬懿の弟、司馬旭きょくの息子である司馬権しばけんが 265 年に封じられた。

276 年に息子の司馬植しばしょくが、301 年に孫の司馬釋しばしゃくが、310 年に曾孫の司馬雄しばゆうが継ぐも、司馬雄は蘇峻に従って謀反を起こし、328 年に誅殺された。

329 年に司馬雄の弟である司馬紘しばこうが継承。343 年にその息子の司馬玄しばげんが、368 年に孫の司馬弘之しばこうしが、390 年に曾孫の司馬邵之しばしょうしが継承した。

以降の年代は不明だが司馬邵之の子の司馬崇之しばすうし、孫の司馬緝之しばしゅうしと継承された段階でしんが滅亡、彭城王家が除かれた。


高密こうみつ王。

彭城王司馬権の弟である司馬泰しばたいが 265 年に隴西ろうさい王となり、296 年に高密王に転封となった。

300 年に子の司馬略しばりゃくが、310 年に孫の司馬據しばきょが継承したが、継承者なく死亡。そのため 317 年に彭城王司馬釋の息子である司馬紘が継承した。しかし兄が蘇峻の乱で謀反を起こし誅殺されたため司馬紘は 329 年に彭城王位を継承、代わりの高密王は司馬紘の子、司馬俊しばしゅんが継承した。

372 年、司馬俊の子の司馬純之しばじゅんしが、413 年に孫の司馬恢之しばかいしが継承。司馬恢之の代で晋が滅亡、高密王家が除かれた。




河間王欽以子範之繼,位至遊擊將軍。薨,子秀嗣。義熙元年,為桂陽太守。秀妻桓振之妹,振作逆,秀不自安,謀反,伏誅,國除。

彭城王邵之立。薨,子崇之立。薨,子緝之立。宋受禪,國除。

高密恭王俊字道度,出嗣高密王略,官至散騎常侍。薨,子敬王純之立,曆臨川內史、司農少府卿、太宰右長史。薨,子恢之立。義熙末,以給事中兼太尉,修謁洛陽園陵。宋受禪,國除。


(晋書37-1)




ここまでの宗室伝は実にあっさりしたものでした。しかしこのあとに出てくる宗室は、司馬休之の系列。そこで一気に文字数が増えるのです。


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