第5話 魔女
全てのトイレが消えてしまった国で、僕の便器生活は始まったばかりだ。
しかし、手付きコウモリと呼ばれる魔獣に襲われ、先輩便器と一緒に首都の外へ逃げて来た。
シールドを張ったまま、茂みの中に身を潜めている。
「……追って来ないみたいだ。衛兵たちが、魔獣を追い払ってくれたようだね」
小声で、先輩便器が言った。
「よかった……あの、僕は
と、僕は名乗った。
「
渋い声の男性だ。
見た目は僕と同じ、真っ白な洋式便器だ。
「大変な時に召喚されたね。最近、魔獣の動きが激しくなってるんだ。きっと壊されてしまった便器の代わりに、君が召喚されたんだね」
「……壊されると、どうなるんですか」
「さあ。帰れると思いたいけどね。君が新しく召喚されてるって事は、また新しい便器として復活する訳ではないんだろう」
壊されたら、便器のまま死ぬ事になるのだろうか。
「……」
僕は、聞けなかった。
「……ずっと隠れて居たくなります」
「便器の居場所がわかる神官がいるんだ。すぐに衛兵が迎えに来て、便器の必要な地点に連れて行かれる。ずっと便器として働くんだ」
「給料泥棒も出来ないですね」
「給料は出ないよ」
「はは。そうですね」
「そろそろ大丈夫だろう。用が足せない辛さは想像できる」
「確かに。早く戻りましょう」
シールドを消して、僕たちは茂みの外へ出た。
召喚されて、最初に到着した辺りだ。
色とりどりの花の咲く草むらは、ムギと一緒に見た風景より寂しく感じた。
魔獣から逃げる、意志をもつ便器……。
僕は、魔獣から逃げ続ける事ができるだろうか。
僕たち便器に足は無いが、どこからかサクサクと草を踏む足音が聞こえた。
ムギと同じように、首都の外へ用を足しに来た国民だろうか。
「便器様……」
若い女性の声だ。
宙に浮いていた僕は、道へ降り、
「はい。使いますか?」
と、声をかけた。
「――川谷君っ、魔女だ!」
背後で、畑中先輩が叫ぶ。
「えっ?」
その女は黒いボロ布をまとい、街の住人と様子が違う。
体の後ろに隠していた木の杖を振り上げる。
「川谷君っ!」
「――っ!」
僕は、ごろんと草むらに突き飛ばされた。
ビシビシッと、陶器にヒビの入る音が響く。
僕じゃない。
僕を突き飛ばしてくれた畑中先輩に、魔女の杖が降り下ろされたのだ。
「ぎゃあぁっ」
先輩ではなく、僕の方が悲鳴を上げてしまった。
しかし魔女は、僕の引っくり返った悲鳴に満足したらしい。
『あっはっはっは――っ!』
楽しげな笑い声をあげながら、魔女は畑中先輩を割った杖に腰掛けた。
魔女らしく空を飛び、どこへともなく消えてしまった。
フタが外れかけ、座面に無数のヒビが伸びている。
真っ白な畑中先輩の中は空洞だ。
「畑中さん……ど、どこか、治せる人は――」
うろたえる僕に、畑中先輩は苦笑を漏らす。
「……いいんだよ」
「えっ?」
「生きた便器の人生、終わって良いんじゃないかって思ってたからさ」
「終わっても、元の体に戻れるかわからないんじゃ……」
「うん。どうなんだろうね」
畑中先輩が苦笑するたび、パラパラと破片が落ちる。
「そんなに、便器は嫌でしたか。そりゃ、魔獣は怖いけど、僕は――」
「元の人生より、楽しいんだ。そう感じるようになってしまった。この国の人たちに必要とされてる。こんな大惨事が終息して、いつか、元の世界に戻されるより……」
「……畑中さん」
「壊されたら、この世界に生まれ変われるんじゃないかな。例えば、終息後に作られる、本物の便器とかさ」
「……なに言ってんですか」
「あはは。本当だよね――」
ザラザラと、畑中先輩の体が崩れた。
「畑中さんっ!」
大小の陶器の欠片が散らばり、便器の面影も消えてしまった。
草むらを、乾いた風が通り抜けていく。
僕と同じ、便器になっていた畑中さんが消えてしまった。
僕をかばって、魔女の杖で割られてしまったのだ。
……畑中さんは、どこへ行ってしまったのだろう。
また、新しい便器が召喚されるのだろうか。
そして僕も、いつかは……。
畑中さんの渋みのある声が耳に残っている。
呆然としていた僕は、気付かなかったのだ。
先ほどの魔女が、音もなく背後に立っていたことに――。
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