第一章 第三話 ~ 戦場 ~
「……あ」
一斉に降り注いでくる矢がどれほどのものか……ゲームや映画では幾度となく見たその光景は、現実に直下で目の当たりにすると、とてつもない代物だった。
……矢の一つ一つが雨粒のように落ちてくるのだ。
それは、映画みたく『防ぐ』とか『避ける』とかいう選択肢がそもそも浮かばないほど絶望的な数の暴力そのものだった。
しかも、下手に当たると一本で即死……上手く刺さっても怪我は避けられないという、致死性の雨である。
当然のことながら、武術の心得もなく、反射神経も運動神経も人並みしか持ち合わせていない俺にそんな降り注ぐ殺意の雨をやり過ごす術などある筈もなく。
……反応すら出来ないまま、気付けば俺の身体には三本の矢が突き刺さっていた。
「あ、あ、ああ?」
……だけど。
──痛みが、ない?
矢が突き刺さった事実に震える俺の精神とは裏腹に、来るだろうと身構えていた痛みは何故かいつまで経っても襲ってこない。
……ただ、自分の身体に矢が刺さっているだけという予期せぬ光景に俺は完全に思考回路が停止してしまっていた。
「……ぎゃああああああああああああ」
「目が、目がぁっ~~!」
「腕がぁっ、刺さったぁああああああ」
「怯むなっ、たかがこの程度っ!」
後ろの方で矢を喰らったのだろう聞くだけで痛くなるような悲鳴と、軍を立て直そうとする怒号が響いてきて……先ほど雨のように放たれた矢が玩具ではなく実際に人を殺しうる凶器であることを俺に知らせてくれる。
だけど、そんな喧噪の中、俺はただ突き刺さったままの矢を眺め……このあまりにも現実感のない状況に思考を放棄したまま、呆然と突っ立っていることしか出来なかった。
──ああ、そうか。
そして、不意に理解する。
コレは……この錆びてボロボロのラメラーアーマーは、実は物理攻撃100%カットとかの、所謂『魔法の鎧』なのだろう。
邪教徒のような妖しい風体をしていたが、仮にも神官が手渡してくれたのだから、もしかしたら神の恩寵が詰まった『奇跡の鎧』というヤツかもしれない。
錆びかけ朽ちかけたボロボロの鎧を見る限り、とてもそうは見えないが……矢が突き刺さっても痛くないこの状況は、夢以外にはあり得ない。
いや、夢以外にあり得ないこの状況をもし現実と仮定するならば……矢を受けて痛みすらない状況を矛盾なく説明するのには魔法以外の合理的理由が思い浮かばない。
だって、現代日本で平凡に生きていた俺が、いきなりこんなファンタジー世界に喚び出されたくらいである。
……この世界には、奇跡も魔法もあるのだろう。
──だったら。
この重そうな外見の割にやけに軽い戦斧も、軽く持てるような不思議な魔法がかかっているに違いない。
だからこの通り、アルミ製の不審者侵入防止装備……職員室に常備されていた二又のアルミ製の長い槍……のように軽いのだろう。
──そうに違いない。
──いや、それ以外には考えられない。
「……だったらっ!」
「死なずに済むかもしれない」という僅かな期待によって、少しなりとも生きる希望が湧いてきた俺は……生き延びるため意を決して顔を上げる。
「おぉおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
──その瞬間、俺の抱いたばかりの僅かな希望は、木端微塵に打ち砕かれていた。
一斉射が終わりこちらが怯んだところにトドメを刺そうと、鋼鉄の兵士たちが地響きを立てながら走り込んできていたのだ。
凄まじい地鳴り、地響き、殺意混じりの怒号、金属の軋む音。
腹の奥まで響いてくるそれら全ての音が飲み込もうと迫ってくるあの人の津波は、確実な死をこの場所へと運んでくるに違いない。
勘が鋭い訳でも目端が利く訳でもない平凡なこの俺でも……生き物として当然に備わっている生存本能が、その確実に訪れるだろう未来を伝えてくる。
「に、にげっ……」
その確実な死が目前に迫ったところで、現実感を取り戻した俺は慌ててこの場から逃げようとするものの……脳が放った逃亡命令を受けても、俺の身体は動こうとしてくれなかった。
凄まじい勢いで迫り来る死の軍団の迫力は、俺の足どころか身体中を完全に竦ませていたのだ。
「ひっ!」
動かない身体に慌てながら顔を上げてみれば、鋼鉄の剣と盾を手に持った先頭の一名は、もう俺とは数メートルしか距離がなく……そうして慌てふためいた俺がこの状況の解決策を必死に模索している間にも、その男は手に握った剣という人を殺すための凶器を大きく振りかぶろうとしていた。
──アレが当たれば、俺は死ぬ。
飛んでくる矢なんてレベルじゃない。
至近距離から振り下ろされる鋼鉄の殺意は、圧倒的に弱い俺を殺そうとするその優位者の愉悦の笑みは、現実逃避すら許さないほど絶望的で……
──その絶望はほんの一瞬で、俺の理性を完全に叩き壊してしまっていた。
「う、うわあああああああああああああ!」
その瞬間、恐怖で固まっていた筈の俺の身体が動いたのは、はっきり言って『ただのヤケクソ』だった。
ただ恐怖から逃れたい一心で、俺はその手に握っていた重さを感じさせない玩具のような戦斧を、真正面の敵に向けて、渾身の力でただ我武者羅に薙ぎ払っていたのだ。
何も考えずただ力任せに振ったソレは、当然のことながらそれなりに訓練を積んでいたのだろう敵の盾に阻まれてしまう。
「あああああああああああああああああああああっ!」
だけど戦いの心得すらない俺は、あまりの恐怖に悲鳴を上げながらも他の術など知る筈もなく、ただ力任せにそれを全力で振り切る。
次の瞬間、俺が振るった戦斧は、鋼鉄の鎧を着込み鋼鉄の剣と盾を持った人間を盾ごと粉砕し、刃が突き刺さった上半身をまるでバスケットボールか何かのように軽々と吹き飛ばしていた。
血と臓物とをまき散らし、鉄さびと反吐と焼肉のホルモンが混ざったような異様な匂いを周囲にばらまきながら。
しかも吹っ飛んだ先では、血と臓物とをまき散らす上半身がボーリングみたく敵兵士数名を巻き込んで薙ぎ払うという、まるで地獄のような光景が映し出される始末である。
「……へ?」
気付けば、戦場は静まり返っていた。
……俺の一撃は、それほど現実離れしていたのだろう。
全滅を前にしたサーズ族どころか、劣勢の彼らを殲滅しようと勢いづいていたべリア族の兵士たちもが、そのただの一振りに目を奪われていたのだ。
まぁ、武器を振った俺自身すらもがその光景を信じられないくらいだから、周りの兵士たちがこの現実離れした光景を前に自分の目を疑ってしまうのは当然のことなのかもしれない。
──すげぇっ、この武器っ!
未だ人の身体を断ち切った鈍い余韻を手に残しつつ、ようやく我に返った俺の脳裏を過ったのは、そんな純粋な感動、だった。
……この手で人を殺した直後だと言うのに。
……飛び散った内臓や近くに落ちている人間だった下半分の残骸も、周囲に散らばる血と臓物の匂いも、内臓から零れ出た糞尿の匂いも、吐き気を催すほど不快だと言うのに。
俺の心には、よく映画なんかで聞くような「人を殺した嫌悪感」など欠片もなく……
「は、はははっ」
その時の俺は、間違いなく興奮していた。
──圧倒的な死の恐怖から逃れられた安堵。
──人を簡単に殺せる武器を手にしたという万能感。
──そして、今までの……何も出来ない自分ではないという、解放感。
──血の匂いと臓物の匂い、糞尿の匂い、汗の匂い、鉄の匂い。
そういう、周囲に散らばる全てが俺の理性を崩壊させ、調子付かせるのに十分な材料を備えていた。
興奮に突き動かされ、先ほどまで全身に絡みついていた恐怖を何処かへと置き忘れた俺は、顔を上げて真正面の敵軍へと視線を向ける。
千も万も超えそうなほど大勢だった筈の敵の兵士は、恐怖というフィルターを外してみれば、実のところ三百名……俺の通っていた学校の全生徒数くらいしかいやしない。
──だったら。
──この武器と鎧があれば……勝てる!
「うおぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
気付けば、俺は心のままに吠えていた。
身体の奥から湧き上がるような衝動の赴くままに走り、ただ殺意の命じるままに薙ぎ払う。
その一刃一刃ごとに、血が噴き出し、臓腑が零れ、断末魔が響き、死が舞う。
だが、敵もただ殺されるのを待つ家畜なんかじゃない。
手に武器を持ち、殺意を向けてくる戦士なのだ。
「うわああああっ!」
眼前の兵士の一人が、恐怖を叫びで消し飛ばしながら、その手にした槍を俺目がけて突き刺してくる。
「んなものっ、効くかっ!」
けれど、武器と同じくこの錆びかけた鎧にも絶対の自信を持っていた俺は、槍の切っ先を籠手に覆われた左腕であっさりと跳ね除け……そして、右手一本で人の背丈を超える戦斧を軽々と振う。
……ただそれだけで人が死ぬ。
──頭蓋を割られた人間が、脳髄をまき散らしながら死んでいるのに。
──首を刈られた人間が、血を吹き出して痙攣しているのに。
──胸を砕かれた人間が、血を吐きながらのたうち回っているのに。
──腹を潰された人間が、必死に内臓をかき集めているというのに。
そうやって、この手で確実にどうしようもなく残酷に人を殺していると言うのに、俺には何故か罪悪感も何もなかった。
ただ、目の前で赤い水を入れた風船が破裂している程度にしか感じない。
「喰らえっ!」
遠くから敵兵が放った矢が肩に刺さる。
……だが、俺にはこの無敵の鎧があるのだ。
そんなもの、刺さったところで痛くもない。
「はははっ、はははははっ!
はははははははっ!」
腹の奥から湧き上がってくる愉しさに、笑いが溢れて止まらない。
──だって、敵共の恐怖が分かるから。
──だって、自分が無敵だって分かるから。
──さっきまで俺を、俺たちを殺そうと勢いづいていた連中が、どうしようもなく脅えているのが分かるから。
……そう。
弱い者を虐めて悦に入っている馬鹿どもを圧倒的な力で斬って刻んで殺して潰すという、いつも抱いていた妄想が、現実になっているのだから。
「あははははははははははははははははははははははははははは」
そして。
俺は笑いながら目の前のゴミを殲滅していった。
……血の匂いに酔ったまま。
……力におぼれたまま。
冷酷に残酷に確実に、一匹一匹ただ害虫を駆除するかのように。
「……アレは、悪魔だ」
「神、よ」
後ろから、味方の方からそんな声が聞こえた気がしたが。
完全に理性を失っていた俺には、そんなことは一切気にもならず。
そうして「人間という生き物」を「人間だった肉塊」へと変え続けた俺の凶行は、その場からべリア族が完全に撤退するまで続いたのだった。
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