第5話

 次の日、若干の緊張と共に、約束の時間に店に入ったが、そこに横江さんの姿は無く、入り口が見え易い席を陣取ってコーヒー一杯で可能な限り粘ったが、一時間経っても現れず、二杯目を頼んで三〇分経った頃に、悪い予感はよく当たると言うしまさか本当に、と不安に襲われ血の気が引いたが、その引力に導かれるようにガラスドアが開いて深刻そうな顔した横江銃さんがひょっこり姿を見せた。何なんだよ、もう、心配させて! 彼は私の向かいに座ると、いやー悪い悪い、ちょっと野暮用が長引いて、とか言いながら、ウェイトレスさんにジンジャエールとチョコレートパフェを注文し、甘い物に甘い飲み物かよ、と思っていたら、届いたパフェを私の方にすっと寄越した。そして、無言でにやりと頬を吊り上げる。やられた。何かこの人、見かけによらず大人だ。カクテルを飲む時みたいな気取った仕草でジンジャエールをグラスから直接呷って、横江さんは口を開いた。

「昨日、気になってあれから調べてみたんだけど、ここしばらく、うちの親父も山川さん夫妻と連絡つかなくなってるらしい。紫もずっと学校休んでるし、駿さんも……掴まらなかった。もしかしたら、一家総出で大仕事してるのかもしれない」

「だから、その仕事って何なんですか! えーと、虚構代行業、でしたっけ? 意味がわかんないんですけど」

「あー、まあ、仕方ないから説明するけど、代わりに、俺のことを嘘つきだとか妄想狂だとか言わないって約束してくれよ?」

「はい?」

「あと、後悔しても責任はとんないから、そのつもりで」

「良いから早くして下さい!」

 ここまで来て焦らされると、さすがに堪忍袋の緒が切れそうだ。横江さんはパフェ一杯でチャラになったと思っているようだが、一時間半ぽつんと一人きりで待たされたことを私は忘れたわけではないのだ。横江さんは私の剣幕に圧されてたじろぎながら、どこから説明したものか、と思案を巡らせた。

「秋吉さん、漫画好きみたいだけど、漫画のどういうところが面白い?」

「……それ、山川さんの話と関係してくるんですか?」

「勿論。紫が本の虫なのだって伊達や酔狂じゃないんだぜ」

「漫画の面白いところ……。そんなの、一言じゃ言い表せないですよ。ストーリー、構成、台詞回し、コマ割り、絵のタッチ、演出……などなど、その全てのバランスで良し悪しが決まる、言わば総合芸術ですから」

「なるほど、言い得て妙だな。けれども、君が今挙げた中で、一番重点が置かれているのは、ストーリーだと俺は思う」

「ストーリーは破綻しているけれども絵と演出が抜群に上手くて面白い作品ってのもありますけど」

 私は、幾つか該当作のタイトルを挙げた。

「そうだな。けれども、絵や演出、コマ割りに難を感じるけれどもストーリーが抜群に良い作品の方がリーダビリティが高いし、面白いと評価され易いと俺は思う」

 そう言って、横江さんは幾つかの作品名を列挙する。なるほど、独特過ぎる作風で好みの分かれる例の作者の手になる長編冒険活劇とかは確かにその部類だ。古本屋でバイトしているだけあってか、横江さんも漫画に詳しいようだ。

「この傾向は、おそらく一般小説ではさらに顕著だろう。悪文でも、最低限のレベルさえ越えていれば、後はストーリーの良し悪しで面白いか否かが決まる。あまりにも文が酷いと難癖はつくだろうけどな。純文学の評価になると文学的実験による文体の面白さも考慮されたりするから話は変わってくるが、物語性が完全に無視されて語られることは無いだろう」

「要するに、何が言いたいんですか?」

「君は、フィクションとノンフィクションの違いがわかるか?」

「馬鹿にしてるんですか? わかりますよ。フィクションは作り話、ノンフィクションは実際にあったことでしょう? 小説や漫画はフィクション、ドキュメンタリーとかエッセイがノンフィクション」

「そして、小説や漫画において、その面白さの肝を担っているのがストーリー性であるという意見には、ある程度賛同してもらえたわけだよな?」

「はい」

「虚構代行業は、異世界をノンフィクションとしてレポートし、そこで体験したストーリーをフィクションとして作家や漫画家に提供する大切なお仕事だ」

「は?」

 一段一段、しっかりと足場を固めていたはずなのに、最後にいきなりその全てを土台から引っ繰り返すようなとんでもない発言が放たれ、私は面食らって掬ったパフェをテーブルに落としてしまった。勿体無い。

「異世界をノンフィクションとしてレポート?」

「そうだ。君は、もしかしてフィクションというものが、? それはとんでもない誤解だ。虚構というのは、『この世界で創られた全くの嘘物語』ではなく、『異世界で実際にあった物語』だ。だからこそ、真実のように仕組まれて見えるんだ。この世界において本当に起こった出来事ではない、という部分は共通しているが、この二つは全然別の概念だ」

「……あの、SF談義なら遠慮願いたいんですが」

「とんでもない。むしろその逆、実に現実的だ。秋吉さんは考えたことないかい? 例えば、ドラゴンっているだろ? いや、この世界にはいないけど、何となくイメージ出来るだろ? 一言で表せば、ゲームとかでお馴染みの、超巨大な肉食の爬虫類だよ。でも、ふと疑問に思ったことないかい? どうしてそんな、この世界に居もしない動物を絵に描いた奴がいるんだろう、って。だって、? 無いさ。全く無い。一番の合理的解釈は、『確かにこの世界には居ないけど、その動物を実際に見たから描いた』ということじゃないか。この世にいもしない動物をいきなり描きました、ってのより余程説得力あるだろう」

「……妄想狂」

「うん? もう一回言ったら、この場は君の奢りになるぜ」

「中学生にたかる気ですか。大人気ない」

「言いたい放題だな。ともかく、虚構とはこの世界にとっては嘘でも、それらは全てどこか別の所では事実として起こっている事なのだ、という点は納得してくれないと、話が進まないんだが」

「だって、そんなわけないじゃないですか」

「どうして?」

 本人は否定したが、もはやどこからどう見てもSF設定談義みたいになってしまった現状を憂えつつ、しかしその一方で、山川邸が変電所に変わっていたという変事を既に目の当たりにしている私にとって、『それは実はこれこれこういう心理的トリックが使われていたからだ』と説明されるのと『それは実はこれこれこういうSF的なギミックがあるからだ』と説明されるのとで、一体どちらが面白いかと言われれば圧倒的に後者に決まっている。せっかくちょっと不思議な現象に巻き込まれたのだから、ちゃちな勘違いやら巧みな誤誘導やらのせいだった、などと解釈されるより、興を醒まさずに非現実の世界に突っ走ってもらいたいと願うのは、いつでも日常に飽いている凡百の庶民なら当然のことではないか。……尤も、それが妄想狂のたわ言であるのならば当然願い下げだが。

「だって、例えば、ドラゴンの造形にしても、西洋の直立する恐竜みたいな奴から、東洋の龍まで、色んな奴がいるじゃないですか。どこか別の世界……異世界に竜が実在するなら、どうしてそんなにばらつきがあるんですか。矛盾してます」

「平行世界のようなものを考慮すれば良い。要するに、フィクションの数だけ世界があって、それを別々に知覚した人達がそれぞれ異なる物語に仕立て上げるわけだ。世界Aと世界Bでドラゴンの形が違ってもおかしくないだろう」

「あくまで、ありとあらゆる虚構はどこかに実在すると言いたいわけですね?」

「そうだ」

「じゃあ、今から、私が頭の中にぱっと思い浮かべた珍獣メヒョンガをこの紙ナプキンに描き付けたとします。そうしたら、メヒョンガは『この世界で創られた全くの嘘動物』ってことになりませんか?」

「……それはとんでもない誤謬だ」

「ごびゅうって何ですか?」

「間違いってこと。今、君が『思い浮かべた』と言ったメヒョンガだけど、そもそもそれが全くのオリジナルであるという証拠はどこにあるんだい?」

「そんな! 私は何にも参考にしてませんよ。だって、羽の数が左右対称じゃないんですよ? しかも、こんな面白い顔してる生き物なんてあり得るわけないです」

「いや、どんな顔してるか、とか俺は知らないし。漫画好きには辛いかもしれないが、この世にんだ。これは、業界内の人なら誰でも知っていることだ。別に、パクリだとかオマージュだとかが溢れている現状を皮肉って修辞的な意味で言ってるわけじゃない。本当に無いのさ。何故ならば、そもそも『思い付いた』とか『思い浮かべた』とか感じるところの『架空の何か』は全て、異世界で実在するものに過ぎなくて、わかりやすく言えば、俺達人間は、それを生物なんだ」

「……じゃあ、メヒョンガも、どこか別の世界では元気に動き回ってるということですか? 群れで」

「群れてるかどうかは知らないが、そういうことになる。人間には厳密な意味での『発想力』『独創力』は無い。あるのは、この世界にとってのフィクション、つまり、どこかの異世界にとってのノンフィクションを何かのきっかけで嗅ぎ付けて知覚する能力だけだ。これを、専門家は『異覚』と呼んでいる。英語では『hunch』、つまり『直感』だけど、これはあんまり本質を捉えてないな。異覚は要するに、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に続く、六番目の感覚、『第六感』とか騒がれる例のあれだ。考えてみれば自明だろう? 見えもしない、聞けもしない、嗅げもしない、味わえもしない、触れもしないもので、俺達の一番身近にあるのって、何だ? 俺達自身の『思考』じゃないか。秋吉さんも体験したことあるだろう。降って湧いたように突然訪れる閃き、あれが異覚によって拾い上げられた六番目の感覚だよ」

 横江さんの言うことは、物的証拠がない上に常軌を逸しているという致命的な点に目を瞑ればかろうじて納得出来なくはなかったが、何というか、既に哲学の領域に片足を突っ込んでいるような気がしてならない。だからこそ何を聞いても、あーそんな考え方もあるんだね、と感心するくらいのもので、生き方の指針や研究対象にするのでもなければ、日常的には触れ合いたくない代物だった。

 何故ならば、私のメヒョンガはともかく、数々の漫画のキャラクターや物語がどこかの異世界では現実として存在し、緻密に構築された世界設定も要するに異世界の世界情勢の単なる引き写しということになるのだと思うと、創作という分野における無限の可能性が全て幻想だと言われているのとおんなじで、急にやるせない気分になってくるのだ。『発想』というもの自体がまやかしだなんて、酷すぎる。物語のオリジナリティーって、じゃあ結局何なのさ、とか思う。それに私達は、小説(私小説除く)や漫画を架空の話だと知りながらなお、そこにおける人間設定や物語性にある程度のリアリティーを求めて来たけども、フィクションの全てが異世界における真実なんだとしたら、私達の求めてきたものって何? まるで道化の如き振る舞いをしていたことにならないだろうか。

 ……漫画や小説の魅力がこれだけで完全に無くなってしまうというわけではないが、何だか、横江さんの言い分を認め、『架空』あるいは『創作物』という逃げ道を全面的に塞がれると、フィクションの捉え方が根本的に違うものになりそうだった。

「言わんとしていることは、わかりました。でも、何の証拠も提示することは出来ないわけですし、それは結局、詭弁と謗られても仕方のない空疎な論理じゃないですか?」

「君は、誤謬の意味を知らなかった割に、時折ありえないほど難解な物言いをするよね。本当に中学一年生?」

「ええ、もう、肌とかピッチピチです」

「それは何より。……正直、俺もこれを知った時は全然信じられなくて、困惑した。俺達は、物語に触れた時、『よくこんなこと思い付いたなあ』と作者の発想に感心しているケースが一番多いんだけど、それは『よくこんな異世界見つけたなあ』ってことと同義で、それを評価するのは、『異覚』がどれだけ優れているかという生理的資質勝負の話になる。文字通りセンス(感覚)の問題になってくるわけだ」

「じゃあ、漫画家や作家としての本分を問うなら、ストーリーではなく、その演出力や表現力を見るべきだ、ということですか?」

「……それは人に寄る。というか、場合に寄る。ここに深く関わってくるのが、例の虚構代行業だ。彼らの仕事の一つは、作者が思い付いたアイデアの断片から該当するどこかの異世界を見つけ出し、直接体験してレポートを作成することだ。勘違いしないでもらいたいんだが、。仮にその作者が思い付いた断片とやらを元に物語を単独で構築していっても、同じ異界を捉え続けている限り、虚構代行業のレポートと大体同じストーリー展開になる。虚構代行は、要するに時間の短縮目的だと考えてくれて構わない。レポートを元にしていても、どういう構成にするかは作者本人が決めるわけだし、こういうケースで面白い話を書ける作者というのは、類稀な異覚を持っていることも含めて、きちんと評価の対象にしても良いと思う」

「虚構代行を使わない作家はいないんですか?」

「アマチュアにはやはり多くて、そういう奴らは『独創性』を意識しすぎた独りよがりな作品を書きまくる傾向がある。どれだけ奇を衒ったつもりでも、所詮は異世界の釈迦の掌の上で弄ばれているだけだというのに気付かず、粋がっているというわけだ。そういう人ほど、異覚の話を知った時に気落ちし易いらしい。ショックのあまり筆を折る人もいるとかいう話だよ。勿体無いね。プロになると、作家にしろ漫画家にしろ、担当編集者が各出版社で契約している虚構代行を紹介して来る。拒むと干されるという噂もあるし、まず全員使っていると思ってくれて構わないな。何せ、虚構代行があるのと無いのとじゃ、筆の進みが何百倍も違う。出版社の利益を考えると、『作品がある程度売れる多作作家』が一番ありがたいわけだからね。有名な大御所作家、漫画家の中には、虚構代行を頼んでない人もいるらしいけど、それはもう都市伝説に近い。逆に、虚構代行技術者が自ら執筆し、作品を上梓してデビューするケースもあるが、これは虚構代行の業界の方でタブー視されていて、バレると痛い目に合わされるよ」

「……ストーリーを虚構代行業者が素早く仕上げてくれるなら、寡作の漫画家とか作家なんてありえないんじゃないですか?」

「それは違う。ストーリーが決まっても、細部の構成や演出、文章表現にこだわって一作あたりの制作時間が多くかかる人だっているし、そもそも最初のアイデアの断片すらなかなか見いだせない、異覚の鈍い人もいる。ちなみにその関連で、虚構代行業の第二の仕事として、これまで誰も使っていない異世界に自主的に出向いてレポートを作り、アイデアの出ない作者に提供する、というのもある。こっちは、原作を担当する、という言い方に近いな。まあ、決して表に名の出ない原作だけれどもね。小説家の中には、何人もの虚構代行業と契約してこういうことをやっている人もいるようだ。そういうケースの作品を、ストーリーの面から評価するのを俺は控えたいが、非難する必要は全く無いし、構成力や表現など何らかの部分で光るものがあるのは間違いないと思う」

「ストーリーの中で設定に矛盾がある作品とか稀にありますけど、あれはどう説明するんですか? 異世界で辻褄合わないことがあったとでも?」

「それには、何パターンか考えられるね。一つは君の言うように、辻褄の合わない世界が存在するということ。例えば、一巻で死んだとされていたはずの主人公の母親が十巻くらい後に平然と出てきた時、俺達は『うわ、この作者自分で書いた設定忘れてるよ』とか考えるわけだが、実はこれ、死者が甦る世界での出来事を、この世界の事柄のように書いているから現れる矛盾なんだ。読者の指摘で作者が謝ってるのとか見ると、『ああ、この読者に本当のこと教えてやりたい!』って思うね。作者は、虚構代行について秘密にしないといけないから、仕方無しにこうしているだけなんだ。二つ目として、作者が虚構代行のレポートを無視して話を捻じ曲げ、他の異世界の断片を無理矢理結合しちゃった場合。これは、複数の虚構代行を使っている人が陥りがちな過ちだ。三つ目は、文字通り作者が『何も考えずに』書いていた場合。異覚を全く働かせず、無心で書いた作品は、一見すると虚構に見えるが実はその体裁を為していないということがある。小説に見える文字の羅列、イラストに見える曲線の集合、といった具合に。それだと、虚構という概念からして当てはまらないから、内容が矛盾を孕む可能性は否めない」

 何を言ってもその場凌ぎの仮説で対抗されて、異世界の存在という前提部分を覆すことは到底出来そうにないが、詰まるところこの話が本当っていうことなのか、横江さんの詭弁の使い方が巧みなだけなのか、区別に困る。天動説がまかり通っていた時に地動説唱えていた人ってのは、もしかしたら丁度今の横江さんみたいな感じだったのかもしれない。まあ、地動説がまかり通っている時に天動説唱えてる人ってのも全くおんなじように見えるんだろうけど。

「で、ずっと聞こうと思ってたんですが、虚構代行業の人は、具体的にはどういう風に、何をやってるんですか?」

「いい質問だ。それが、俺の話の証明になる」

 横江さんは、ちょっと見てろ、と言ってテーブルの上に右手を乗せ、それを握ったり開いたりしていたが、突然、ぐっと、腕に筋が浮き出るほどに強烈な力を込めた。小刻みにぶるぶる腕を震わせながら、おいおいこの人何やってんだろ、突撃街角握力テストか、と不審を覚える頃にようやく、すっと力が抜け、握っていた拳を指一本ずつ開いて行く。何の異常も起こらない、と思っていたら小指が開き終わる瞬間、まばたきさえしていなかったというのに、横江さんの掌の上に特撮のような唐突さで真っ黒い拳銃が現れた。間違いなく目を真ん丸く見開いていた。うわあ、凶器だ、と何がなんだかわからないながら、咄嗟に周囲の目を窺うが、どうやら誰もこちらには注目していないようで、ありがたいことに通報されたりはしなかった。どこからどう見ても本物だが、どこからどう見ても本物に見えるモデルガンかもしれないので私には何とも言えず、横江さんはそれをテーブルの隅、メニューの立てかけてある横にゴトリと置いた。銃口が鈍くきらーんと光っている。

「ま、今の俺の技術じゃこんなもんだが」

「横江さん、虚構代行業だったんですか!」

「基礎は一通り学んだが、まだ仕事はとってない。大学卒業したら始めるかもしれないが、何とも言えないな。横江グループでも、虚構代行の経営のノウハウは無いから二の足を踏んでいるんだ。山川さんとこと手を組む話があって、まあ、それが俺と紫が許婚だっていう話に繋がるんだが、もしかすると山川の本家に俺が婿入りするという形なのかもしれない。とりあえず、俺が虚構代行の仕事を学ばされたのは、多角経営企業と由緒ある閉鎖的虚構代行業一族の提携への布石だった、というのは間違いない」

「悲劇的ですね」

「うん? まあ、そうとも言い切れないさ。おかげで、普通の人には知り得ない虚構の真相を知れたわけだし。あ、そうだ。この虚構代行関連の話は他の誰にもしないでくれよ。紫の親友の君だから教えたんだ」

「はあ。たぶん誰も信じてくれないでしょうし、説明も面倒なんで、誰にも言いませんよ」

「そう願う」

 私はたった今横江さんが瞬間的に実体化させてみせた拳銃を持ち上げて、ずしりと重いその感触にああやっぱりたぶん本物だと確信し、銃口を他人に向けないようにしながら恐る恐る眺め回した。横江さんは苦笑しながらジンジャエールを一口。

「セーフティがかかっているから、暴発したりしない。安心して調べな」

「これ、どうやって出したんですか? 手品ですか?」

「ここまできてそんなわけないだろ。虚構代行の技術だよ。異覚で捉えた異世界は、そのままだと他の五感では感じられない。それを、絵や文章に起こせばかろうじて視覚化出来るし、映像化すれば視覚、聴覚で感知可能だ。だが勿論、最もわかり易いのは現実化させてしまうこと。これをマテリアライジングという。魔法みたいに見えるかもしれないが、コツさえ掴めれば誰でも出来るようになるらしい。俺は、自分と名前が同じってことで銃を現実化するのが一番楽だ」

「異世界から銃をひょいと拝借してこちらの世界に持って来たってことですか?」

「いや、違う。この銃は元の異世界にもちゃんとある。それを、この世界でも見えて、聞けて、嗅げて、味わえて、触れるように細工してやる感じだ。三次元情報は一致しないから、こっちの世界で位置や向きを変えても異世界では動いていないのと一緒だが、銃の構造自体を弄ると連動する。この世界で引き鉄を引くと、向こうの世界でも銃弾が飛び出すというわけさ」

 マテリアライジング。異世界から物質を持ってくるというより、都合の良い具合に共用物資に変えるという感じなのだろうが、やったことのある人間にしか意味がわからなさそうだ。私には、横江さんが物凄い馬鹿力を込めることで無理矢理こっちの世界に銃を引きずり出してきたようにも見えたし、そもそも異世界にもこっちの世界にも両方存在する、とかいう概念が難解すぎて理解出来ん。

「順を追って説明しようか。虚構代行に必要とされるのは、まずずば抜けた異覚の力だ。これは、視力なんかと同じで、ある程度遺伝的な素養に左右される。だが、物語に触れれば触れるほど鍛えられるから、漫画や本を読みまくることで挽回は可能だ」

 ちょっとドキッとした。漫画を読みまくってきた私は、もしかして虚構代行の素質があるのかもしれないし、そうなるとメヒョンガをマテリアライジングしてペットとして飼ったりすることも出来るかもしれない。いやいや、設定上毎日アリジゴクを百匹ずつ食べるんだけど今日日埼玉にアリジゴクなんていないから食料供給が維持出来ないし、そもそもあんな凶暴な動物飼いたくないっつうの。……そういえば山川さんがやたらと本を読んでいたのは、虚構代行業の修行のためだったのだろうか。

「異覚を研ぎ澄ませて行くと、だんだん、知覚する異世界の断片について、判別が出来るようになってくる。これは若干説明が難しいが、ミネラルウォーターの飲み比べを思い浮かべて欲しい。一見するとどれもただの水だが、利き水が出来る人には、どれがどの銘柄かわかるだろう? あんな感じで、知覚出来た断片――つまり平易な言葉でいうと『思い付いたアイデア』――が、どのような異世界に属するものなのか――つまり、『それを生かして物語を作るとどのような虚構が完成するのか』――が、わかるようになるんだ。これを、ジャッジメント(鑑定)という」

「何か、大変そうですね」

「話が第六感についてだから、漠然として聞こえるだけだ。山川の家系では、小学校に入る前までに鑑定を理解させるらしいよ」

 紫さんは本当に私とは次元の違う所にいたのだなあ。頭の中で好き勝手に羽ばたいて行く想像の翼を幼稚園児の段階で完璧に制御して、どんな物語に収束するかを確認していたというのだから恐れ入る。……いや、相変わらずイメージは上手く掴めないのだけれど。

「で、次はリコンストラクション(再構築)。他の人が知覚した虚構の断片を言葉で伝えてもらって、そこからその人の異覚が捉えた正しい異世界を予測し、認識し直す作業。週間連載漫画でこの先の展開を予想する遊びに似ているな。これは、断片の個数が少なければ複数候補が残るから正解を見つけにくいし、逆に、多過ぎても該当する異世界の検索が面倒で見つけにくい。再構築が熟練してくると、一見無茶な空想の断片を全部きっちり内包した異世界を発見出来るようになるけど、それが読み物として面白いかどうかは別の問題だ。あまりにも断片が多いと、幾つかの異世界の情報を混同していると判断すべき時もある」

「もう全然意味わかりません」

 横江さんは、まるで私からギブアップの言葉が出ることを最初から予想してでもいたかのように、淀みなく説明を続ける。

「例えば君が、買い物を頼まれたとする。きゅうり、スイカ、鯛、ブタ腿肉、コロッケ、ステンレス鍋、かぶと虫、サザンの新曲CD、熊のぬいぐるみ、チェーンソウという、ジャンルのバラバラな一〇種類の品物だ。さて、君はどうする? 全部を一つの店で買えたら楽だと思うよな。でも、『そういうデパートがあります、京都に』と言われたらどうする? さすがにわざわざそこまで行くのは賢いとは思わないだろ? きゅうりとスイカは八百屋で、鯛は魚屋で、ブタ腿肉とコロッケはお肉屋で、ステンレス鍋は金物屋で、と別々に専門店で買い揃えて行く方がまだスマートだ。また、スーパーマーケットに行けば、きゅうり、スイカ、鯛、ブタ腿肉、コロッケ、ステンレス鍋は一度に手に入るし、ディスカウントストアに行けば、それに加えてサザンの新曲CDと熊のぬいぐるみも網羅出来るだろう。要するに、程度の問題だな。再構築に慣れると、何でも揃う大型百貨店みたいなのがすぐに見つかるようになるが、それが良心的な店かどうかは別問題だから、手近な店を二、三軒回った方が良いかもしれない、ということだ。とはいえ、その見極めは虚構代行業の仕事ではなくて作者の仕事だから、実際の現場では無視しているみたいだが」

 うーん、漫画とか小説は作者の精神世界の発露だと思っていただけに、やっぱり調子が狂うなあ。イメージと実態が大きく乖離してるってのは、不良と不純異性交遊ばっかりだと思っていた公立中学校が、通い出してみたら別に普通だったというリアルに直面して納得したはずだったけど、フィクションの創作現場においてノンフィクションライターみたいな人が普通に介在してるってのはどうしても違和感が拭えない。私はこれまで騙されていたのか、というような小さなしこりがよもぎを噛み締めたみたいな苦味となって、平たい胸の周辺に渦巻いているのであった(いや、やっぱり私の名誉のために、膨らみかけの胸の周辺に、と訂正しておこう)。

「……で、探し当てた異世界をマテリアライジングで現実化し、作者の代わりに虚構の物語を実体験してレポートするって段取りですね?」

「いや、マテリアライジングは、作者にイメージの最終確認をしてもらう際にちょこっと使うだけだ。言葉だけじゃ再構築が正しく行われているかどうかわからんからな。……ちなみに、このマテリアライジングが可能になった段階で、小説や漫画などの創作活動は基本的にNGになる。異世界で別の誰かによって書かれた原稿をあたかも自分で書いたように現実化される恐れがあるからな。そうなると、虚構の本質が脅かされる」

 いやいや、虚構の物体を現実化させる時点で現実の本質が脅かされてるような気がしてならないんだけれども、差し出がましいような気もしたし、私はあえて黙っておいた。例えば仮に、横江さんがマテリアライジングした銃で人を殺し、その後また銃を異世界に返してしまったら(さすがに永久に現実化しっぱなしってことはないだろう)、その撃たれた方はどうなるんだろうか。異世界の銃弾というのは即ちこの世界では本当は存在していない銃弾であり、しかしそれがこの世界で本当に存在している肉体に埋まり込んで殺したのだからその時点で死は死であり、銃が消えても被弾した人は死にっぱなしになる気もする。逆に、撃たれたという行為自体が虚構の中に溶けるからこの世界では物質的な損害も何も無かったことになって死んだはずの人が復活する気もする。正直よくわからん。これだから非現実的特殊技術は困る。

「でも例えばさあ――」

 と、思考の海に長々と潜っていたせいで、口を開いたら同年代の相手に話し掛けるみたいなフランクな口調になってしまって少し慌てる。

「――マテリアライジングで『超面白い物語を勝手に書く機械』とかを異世界から現実化させたりしたら、虚構代行業者とか小説家とか漫画家とか全ての枠を超えて致命的なダメージを被ると思うんですけど。創作活動に携わるのがNGとかいうレベルでなく、マテリアライジング自体禁止した方がいいんじゃないですか?」

「ああ、いや、マテリアライジングはこの世界から逸脱しているものを現実化させようとしても極めて難しいから、大丈夫なんだ。きちんと仕組みを理解していないと、張りぼてみたいに、中身が空っぽで外側だけ現実化したりする。その、超面白い物語云々の装置がどうやって面白い物語を書くかわからなければ、マテリアライジングの恐れはない。その点、例えば漫画の原稿なんかは、インクと紙という構造の本質が把握されているから、内容を知らなくてもマテリアライジングが可能だ。それを直接この世界で出版されるのはまずい。最低でも虚構代行のレポートということにして、間に作家を一人は挟んで欲しい、というわけさ」

「……何がOKで何がNGなのか良くわかんないんですけど。マテリアライジングした原稿をレポートとして作家に渡したら、異世界の作品の盗作になりませんか?」

「どうせ虚構というものは『どこかの異世界における現実』でしかないわけだから、虚構の中の虚構も、その異世界にとっての別の異世界における現実でしかない。それをこの世界で虚構として扱うならば、この世界の創作者による解釈や構成のアレンジを加えるべきだって話。同じ世界の作家間では勿論駄目だけれど、異世界でもそれがいけないと言うのなら、そもそもあらゆるフィクションは成り立たない。逆に、異世界からなら直接盗用しても問題無いというのなら、虚構代行の制度をやめるべきだ。でも、虚構代行が消えればおそらくこの国の出版業界は立ち行かない。作家と虚構代行業は、良い共生関係にあると思う。虚構代行には虚構代行にしか出来ないこと、作家には作家にしか出来ないことがあるわけで、物語の発展のために江戸時代の初めくらいから試行錯誤が続いていて、暗黙の内に領分が分けられて基準が生まれたのはようやく今世紀初頭、第一次世界大戦の頃だ。そんな歴史なんかもひっくるめて言えば、虚構代行業が不文律を遵守して節度ある行動をとって作家のサポートに徹するようになって初めて、この国の物語体系はバランスを保てたんだ。と、俺は思う。異覚や異世界について自覚的な諸外国(北欧に多いらしい)と比べても、日本の虚構代行という制度は極めて特殊だけど、異世界に対して誠実だと軒並み好評みたいだぜ」

「はーい、話し相手が去年までランドセル背負っていたことを考慮してくださーい」

「あ、悪い。虚構代行業の越界倫理論ってのは、俺の卒論のテーマなんだ。つい熱くなっちまった」

 これもよくわからないんだけど、この虚構代行業ってのは、一体、国民のどれだけが知っている秘密なんだろうか。ケネディの本当の暗殺犯クラスの国家機密かと思いきや、大学の卒論でテーマにしているし、そういえば業界内部の人は皆知ってるというようなことを言ってた。でも、業界って何業界の話なんだろうか。出版かな? だけど、『異世界』という話はある意味で宇宙よりも規模がでかいわけだし、『異覚』という六番目の感覚の名前を決めた専門家ってのは大脳生理学辺りの研究者っぽいし(まあ何の根拠も無いけど)、マテリアライジングなんてピッキングみたいな軽いノリで喋ってるけど明らかに物理学の法則無視してる。……どこかに嘘があるのかもしれないけど、漫画大好き中学一年生の頭脳では話に付いて行くのが精一杯で一々検証なんてしてられないし、横江さんに限って私を騙したりしないだろ、とか全幅の信頼をおいてみてふと、この人と本格的に知り合ってからまだ二週間くらいしか経ってないんだってことに気付いて驚いた。何だか随分色々あったせいで、昔からの知り合いみたいに思えていたよ。

「話を戻すと、虚構代行業の具体的なお仕事は、マテリアライジングじゃなくて、フィールドトリップ。つまり、出張さ」

「出張……てことは、もしかして異世界に行くんですか!」

「もしかしなくても、そうだ。異世界を知るには、実地に直接行ってみるのが一番だからね。異覚でなく、五感でその世界の全てを感じとることが出来るわけだ」

「それは、マテリアライジングと同じように、この世界に居ながらにして異世界にもいる状態にする、ということですか?」

「違う。マテリアライジングはあくまでも観察の対象、客体に対して施すからこそ可能な技術であって、観察者が主体と客体を兼ねるような越境は理論上不可能だ。これは、この世界が他の異世界よりも上位にあるのではなくて、並列の関係にあることの証左とも言われているんだけれど、まあこれ以上は難しいから止めておこうか」

「はい、止めてください。訴えますよ」

「穏やかじゃないな。ま、ともかく、虚構代行業者は異世界に直接出向くんだ。これも、コツがわかれば実は誰にでも出来る。目の前でいきなり人が消えるのは圧巻だぜ」

「横江さんも出来るんですか?」

「ああ。でも、フィールドトリップする時には、この世界の座標みたいなものを覚えておかないと戻ってこられなくなるし、そもそもあんまり上手くないし、面倒なんでここではやらない」

 マテリアライジングもかなり苦戦していたようだったし、横江さんは虚構代行の実技を全体的にあまり得意としていないのかもしれない。

「フィールドトリップしてる間、こっちでその人はどう扱われるんですか? つまり、異世界に行くってことは、この世界にとってはフィクションの中に入るも同然だと思いますけど、その人は出張の間だけ架空の人になるんですか?」

「ああ、その発想は面白いな。実質的に、そう言ってしまって過言でないかもしれない。文字通り、この世にいないわけだからな。ただし、例えば今俺がフィールドトリップしたとして、秋吉さんが俺の実在を忘れて、『あの人は私が勝手に空想で創った素敵な王子様だわ』とか誤解し始めたりすることはない」

「確かに、横江さんを王子様だとは思わないでしょうね」

「いや、そういう意味じゃなくて」

「わかってますよ。横江さんがフィールドトリップに行くまではこの世界にいたわけだから、その事実は消えない。架空なんかじゃないってことですね」

「そういうこと。実際、俗に神隠しと言われる謎の失踪は、何らかの理由で無意識にフィールドトリップしたためじゃないかと推測されている。戻って来なかった人はたぶん、どこか別の世界で平和に暮らしてるんじゃないだろうか」

 なるほど。神隠し体験の中には、妙な場所に迷い込んでしまい、戻って来たら思いのほか時間が経っていた、という浦島太郎のようなケースがあるが、異世界に行って戻って来たのだとすれば、まあ時間の流れだって世界ごとに一様じゃあるまいし、丁度そういう風にもなる場合もあるかもしれない。

「でも、この世界の人が潜り込んだせいで出張先の世界の未来が変わったりすることはないんですか?」

 私が、不思議に思っていることをそのまま口に出すと、横江さんはまた、むうと唸った。

「……君は、何だか知らんが物凄いポテンシャルを秘めてるな」

「ぽてんしゃる?」

「頭が良いってことさ。俺があと一〇若ければ確実に惚れてたね」

 うーん、誉められてるようには聞こえない。惚れるなら年齢差を物ともせずに惚れて欲しい、あ、いや、そうなったら紫さんとの仲がこじれそうだから嫌だけど。

「ご指摘の通り、フィールドトリップ自体によって、異世界は影響を受けて変容するよ。ただし、大体はほんの少しだ。とある町に素性の知れない旅人が一人ふらりとやって来ました、ってなもんだ。カオス理論って言って、ほんの些細なきっかけが大きな結果に繋がってしまうという考え方もあるにはあるんだけど、虚構代行がある場合とない場合で、綴られるストーリーに大きな変化が起こったことは無いようだから、大丈夫のようだよ」

 カオス理論ねえ。風が吹けば桶屋が儲かる、とか、中国大陸での蝶の羽ばたきがアメリカ大陸では竜巻になる、みたいな奴だろうか。そのノリでいけば、虚構代行業が出張すれば世界が一つ滅びる、くらいになってしまいそうなもんだがなあ。……ん? 滅びる?

「ねえ、直接出向いて異世界を体験するって、危ないんじゃないですか? 核戦争で殆どの人類が滅んだ後、みたいな設定の世界もあるわけでしょ?」

「そうだよ。無茶苦茶危ない。だから代行業なんだ」

 横江さんは平然と言ったが、私にはそれが少し怖かった。

「こちらから見れば虚構だからと言って、向こうで死んだら冗談では済まされない。生身の体で体験するにも限界がある。マフィア同士の抗争を描く、みたいな少々の危険ならそのまま飛び込むが、君の言った様な放射能汚染地域はさすがにそのままでは無理だ。そういうフィールドトリップの際には裏技があって、例えば『核戦争で殆どの人類が滅んだ後だと皆が思い込んでいるけれども実はそうじゃなくて、滅亡の原因は隕石の衝突にある』みたいな近似的な世界を探す。それだけだと、放射線障害で苦しむ仲間などがいなくて話が変わってくるから、『放射線障害に極めて似た症状の流行病が蔓延している』みたいな複雑な条件も加えて、依頼されたアイデア断片を全て含み、かつ少しでも安全な世界にトリップする」

「そこまでして、どうして……」

「答えは簡単。面白いからだ。君だって一度くらい願ったことがあるだろう? 『この漫画の世界に入れたらなあ』とか『この主人公羨ましい』って。そうさ。銀河鉄道に乗ってみたくはないか? 魔法のステッキで変身してみたくは? 双子の男の子と甘酸っぱい恋愛に興じてみたりは? 虚構の世界にトリップ出来るってことは、それに似たようなことが叶えられるってことなんだぜ」

「まあ、恐怖新聞は絶対読みたくないですけどね」

「……ああ。マジな話、フィールドトリップ先でのホラー体験が一番きついらしい。そんなわけで、ホラーの虚構代行は報酬が破格だ」

「逆に、ラブコメとか楽しそうだから報酬いらなそうですね。……あと、エッチなやつとかも」

「いやー、あくまで仕事だからね。話はそう単純じゃないさ。報酬については、その危険度に応じて取り決めがあって、あとは一人称の場合と三人称の場合で若干の差が出てくる」

「……どういう意味ですか?」

「つまり、虚構代行はフィールドトリップ先で必ずしも主人公の役を演じるわけじゃないってことさ。小説だとわかり易いけど、地の文が『私は』とか『僕は』で書かれている奴が一人称小説、主人公を外から見て『誰それは』みたいに書かれているのが三人称小説。三人称小説には、スポットを当てている人のみ内面まで描写する一人称に近いタイプと全員の外面のみを平等に描写する客観視点タイプ、さらには全員の内面まで描写する神の視点タイプがあって、場面ごとにこれらを使い分けていたりする。漫画は、大体神の視点タイプで描かれているな。で、虚構代行のフィールドトリップでも大体似たような大別が出来て、『代行者自らがその地で経験したことをレポートする』場合と、『代行者がその世界の誰かにくっついて回り、その誰かが経験したことをレポートする』場合の二パターンがある。これによって虚構代行業の仕事と、作品の毛色が変わってくる。ほら例えば、一昔前の学園ラブコメの主人公って何故か転校生が多かっただろ? あれは、一人称レポートで学園に潜り込む場合、何せ別の世界からの旅人だから転校生という設定に頼らざるを得なかったっていう理由からなんだ」

 なるほど、納得。そういうラブコメ系転校生は、揃いも揃って早い段階からうまーくクラスに馴染むのだが、私には昔からそれが不思議で、少しは人見知りくらいしろよ、とか思っていたのだけれど、彼あるいは彼女が虚構代行業者なのだとしたら文字通り世界を股にかけているわけで、新しい学校への編入如きでピイピイ言わないのはむしろ当然のことかもしれない。

「三人称のレポートでも二パターンあって、『代行者が主人公となるべき誰かの傍にいて、話に絡んでくる』ケースと、『代行者は主人公となるべき誰かをこっそり影からつけ回して、物語には登場しない』ケースとがある。推理小説で、いわゆるワトソン役が記述者だったりするのは、最初のケースだな。殺人事件に巻き込まれた時に一番安全なポジションを考えると、必然的にそこに落ち着くんだろう。本当は、事件には関わらず外からこそこそ取材するのが一番安全なんだろうが、閉ざされた吹雪の山荘での密室殺人、とかになると、まともにレポートするためには関係者になるしか手が無いからな。探偵の助手が適任だ」

「でも、一つの小説の中で探偵だけじゃなく、視点を変更して、犯人の行動を描く場合もありますけど、あれはどうやってレポートしてるんですか?」

「そこは直接体験じゃなくて、この世界に戻ってから異覚で捉えて補うんだ。まあ、これは作家が自らやることも多いな。わざわざ犯行現場とかを見に行ってたら、命がいくつあっても足りないよ」

「……なら最初から、異覚で全部捉えればいいんじゃないですか?」

「臨場感が全然違うんだよ、臨場感が。何せ、実体験なんだからさ」

「……物語に関わらずにこそこそ誰かをつけ回すだけのレポートでも臨場感はあるんですか?」

「うーん、でも行かないよりは行った方がいいだろ? 異世界に来ないとわからないことだってあるし。そりゃ、出来れば代行者も話に関わるべきなんだろうけど、例えば『襲い来る魔物を虐殺しながら進める孤独な一人旅』のレポートは、余程腕に覚えが無ければ一人称では無理だし、取材のために孤独な旅人の同行者になったらコンセプトが狂ってしまう。テレビのロケとはわけが違うから、虚構代行業者は取材のことを相手に暴露するわけにはいかないんだ。だから、『カメラマンやスタッフはいないものとして扱って下さい』みたいな説得も無理だし、結局、その猛者を陰からつけ回すしかないんだよ」

 虚構を作り出そうとしているのに、かえってやらせが不可能、というのは何だか皮肉な気がした。

「実際、一人称レポートが一番報酬の条件が良くて、つけ回すレポートは直接的な危険も少なく、どうしても安くなる」

 そして、横江さんはそれぞれ例として実在の漫画二作を挙げ、その虚構代行に支払われた報酬の額をこっそり教えてくれたが、さすがにこれは公表を控えよう。虚構代行に対しては単行本の売り上げ部数に関係なく取材期間に応じて報酬が払われるので、手掛けた作品が大ベストセラーになろうが鳴かず飛ばずだろうが、それどころか出版されずにお蔵入りになろうが、無関係だそうだ。代行業務一本当たりの報酬が少ない分、数をこなすことで補っているらしく、一年間に制作される何千何万というありとあらゆるフィクションの根元を、山川、裃、裏扇という三つの家柄で殆ど抑えているのだとしたら、なるほどそりゃあ儲かるに決まっている。羨ましい限りだなあ、と思っていると、横江さんはせっかく現実化した銃を掻き消しながら、複雑な表情になった。

「とはいえ、やっぱり代行業は危険なんだよ。安全を見越してても、物語のちょっとしたイレギュラーで怪我を負ったり、最悪死ぬことだって考えられる。死んだら帰って来られないから、こっちの世界では行方不明扱いになって保険も下りない。散々だよ」

「危険な目に遭いそうになったら、すかさずこっちの世界に戻ってくれば良いんじゃないですか?」

「落ち着いていないとフィールドトリップは難しいんだ。向こうで緊急事態が起こったら、向こうでそれを対処してからでないと戻って来られない。達人クラスになれば、あるいはどんな状況下からでも越境出来るかも知れないが」

「……あの、これは全然根拠なんて無いんですけど、もしかして、山川さん一家もトリップ先でトラブルに巻き込まれて戻って来られなくなってるってことですか?」

 横江さんは、正面から私の瞳を見据えた。何だかそうやって真面目な顔をすると、髪型も顔立ちも越えて年齢に相応しい態度に思えたが、残念なことに私の不安を増大させる役にしか立っていなかった。

「……それは、まだわからない」

 慎重に言葉を選んでいたが、横江さん自身あまり楽観はしていないのだろう様子が見て取れた。

「最初にも言ったように、ただ家族総出で大仕事に取り組んでいるだけかもしれない。虚構代行が何人も連れ立って同じ世界にトリップすることは珍しくないし、完全に連絡が取れなくなることは稀だが、まあ、無いことじゃないしな。職権乱用して、旅行気分で楽園世界にでも出かけたのかもしれない」

「じゃあ、山川さんは無事なんですね?」

「……そう思いたいところだが、正直な話、昨日の変電所の火災が気にかかっている」

「そうでした! 屋敷が消えて変電所になってて、そこから出火したのって、どういう意味なんですか?」

「あくまでも想像だが、あそこは元々変電所で、そこに重なるようにどこかの世界の豪邸をマテリアライジングして現出させていたんじゃないかな。で、家族全員で異世界に行く用事が出来たから、元に戻した。屋敷が消えたことは、これで説明がつく」

「つかないです! だって、近所の人は誰も屋敷のことを知らなかったんですよ。虚構とはいえ、マテリアライジングされた豪邸なら誰にでも見えたはずです。どうしてその人達の記憶からも消えているんですか!」

「普段は中途半端にしか現実化してなかったんじゃないかな。例えばこんな風に」

 横江さんがマテリアライジングした銃は、既に先ほど消えている。にも関わらず、彼の右手がテーブルの上に置かれる瞬間、ゴトリと鉄の塊がぶつかるような音がしたので私は飛び上がらんばかりに驚いた。むしろ、本当に椅子から少し腰を浮かしてしまった。

「虚構化させる前に、非視覚化してみた。目では見えないけれども、他の四つの感覚では捉えることが出来る状態だ。半端なマテリアライジング、と言ったところか。山川さんの屋敷の外見もいつもはこういう状態で、来客の際や必要な時だけ視覚化していたんじゃないだろうか」

「そんな! 何年もやってたら絶対近所の人にバレますよ」

「いや、実際何人かはおかしいと気付いていたはずだ。あの変電所には幽霊が出るという噂があったらしいからね。少なくとも山川家の誰かが、変電所の敷地に変な風に入って行くのを目撃されていたという証拠さ。高い塀と高圧電流注意の張り紙のおかげで、誰も深追いはしなかったろうけど。君は、二人の人間の証言だけで、『近所の人全員が屋敷のことを知らなかった』と思い込んでしまったけれども、『変電所が屋敷に変わっているのを見た』なんていう目撃者も実はいるかもしれない」

「……じゃあ、仮にそうやって見た目を誤魔化していたとしましょう。だとすると逆に、あの敷地が豪邸だった時、元の変電所はどうなってたんですか? 私が見た限り、あの広大な庭のどこにも、変電施設なんて建ってませんでしたよ。まさかわざわざ毎回、フィールドトリップで異世界に運んでいたんですか?」

「まあ、仮にあの変電施設が現実のものだったとしたら、そうするしか無かっただろうね」

「仮に、ということは、まさか……」

「ああ。元々あったあの変電所もなんだ。たぶん、ずっと昔に誰かが現実化させて、そのまま放置してあったんだろう。実際、昨日の火災でもどこにも停電等の影響が無かったみたいだし、機能してないんじゃないかな。高圧電流注意ってあるから誰も入り込まないし、人避けには持って来いだ。何より、虚構代行技術者にとって、虚構は現実よりも余程扱い易い。変電施設と大きな屋敷をそれぞれ不完全に現実化させて、『見た目は変電所で中の配置は豪邸』なんていうトリッキーな構造も可能だ」

「……じゃあ、昨日の火災はもしかして、変電施設ではなく、中の豪邸から出火したということなんですか?」

 そう考えれば、敷地内での火元が丁度屋敷のあった辺りだという事実を論理的に説明出来ると思ったが、横江さんは首を横に振って否定の意を示した。

「そう思って今日、火災現場に忍び込んで来たんだが、あれは正真正銘、マテリアライジングされた変電施設の燃え跡だった。『見えない屋敷』が焼けたような痕跡は一つも見当たらなかったし、火元もはっきり変電施設の一室とわかっていた。ついでに見回りの警官に見つかって追い掛けられるし、散々だったよ」

「……もしかして、約束の時間に遅れたのってそのせいですか?」

「ああ。追っ手を撒くのにかなり時間食った。日本の警察はマジで優秀だ」

 逃げ切れたんだから優秀も何もあったもんじゃないと思うが。

「ともかく、うちの親父が山川さん夫妻と連絡が取れなくなったのは一ヶ月近く前かららしいし、紫も同じくらい学校を休んでる。その間ずっとフィールドトリップしているのだと考えると、わざわざ屋敷を半端な形とはいえ現実化したままにしておくとは考えにくい。昨日の昼過ぎの段階であの敷地にあったのは単なる変電所だったと俺は思う」

「じゃあ、何で火事になったんですか? 誰か、魔界の炎でも呼び出したんですか?」

「その推理、良い線行ってるかもしれない」

 推理じゃなくて冗談ですよ、と言おうかと思ったが、どうやら横江さんが本気らしいので口を挟むのはやめておいた。そういえば、虚構代行業に関わる人にとってはフィクションすら現実なのだから、『魔界』とか『天国』だって冗談なんかじゃなく、本当に考慮に入れなければならない事柄なんだった。大変そうだなあ。

「俺は虚構代行業見習いだから、出火の原因が虚構絡みの事件だとして推論を話す。放火魔の仕業だとか、単なる事故だとか、そういう見解はあの優秀なる警察と消防にお任せしよう」

「前置きはいいですから、早くして下さい」

「……君はたぶんワトソン役には向かないね。まあいいか。とりあえず、異世界絡みであの施設に火が点く理由として一番簡単なのは、『異世界の誰かがフィールドトリップでこの世界に現れて火を放って帰って行った』というケースだ」

「え? 虚構の世界からこっちに誰かが飛び出して来ることあるんですか?」

「当然。この世界も含めて、全ての世界は基本的に等価だからな。他の世界でトリップに気付いた者が、この世界に出張して来ても全然おかしくない。……とはいえ、今回のケースは違う気がする。いや、必然性が無さ過ぎるから違うと信じたい、と言った方が良いか。『偶然この世界に来た人が偶然変電所のど真ん中に現れて何故か火をつけて帰って行った』という仮説がまかり通るなら、『変電施設の真ん中が偶然自然発火した』という仮説に納得した方が余程良い。オッカムの剃刀というやつだな」

「何ですか? その剃刀」

「仮説は出来るだけ単純にしといた方が良い、みたいな指針さ。それが必ずしも正しいとは限らないがね。とりあえず先に進むが、もう一つ、『虚構代行技術者が異世界の火種をマテリアライジングであの場所に出現させた』というケースがあり得る。君の言った、魔界の炎もこのケースの一例だな」

「……それも、誰がどうして何のためになのか、よくわからないですね」

「いや、一応説明のつく仮説はあるんだ。あの敷地は、虚構の屋敷と虚構の変電所の使い分けで成り立っていたわけだから、誰かがあそこでマテリアライジングを行うこと自体は不自然じゃない」

「不自然ですよ。だってどうして火事にしなきゃいけないんですか」

「おそらく火事は不測の事態だったんだ。何しろ、あそこに火災を起こすことで得する人間は、虚構代行業関係者の中には絶対いないからな」

「火種をマテリアライジングしといて不測の事態も何もないと思いますけど……」

「そう急くなよ。要するに、その誰かさん、つまり犯人は、火種だとは全く思っていなかったものを現実化させたはずだったんだ。ところが、いざそれをマテリアライジングさせてみると、異覚で捉えたものと様子が違い、猛烈な勢いで燃えていた。要するに事故だ」

「マテリアライジングしたものが、自分の想像と異なっている場合なんてあるんですか?」

「しょっちゅうだよ。一見成功に見えても、現実化させた物をジャッジしてみると、実は自分の想定と違う世界由来の物だったりすることがよくある。逆に、前にマテリアライジングしたのと同じ物を無造作に現実化させようとしたら、それが向こうの世界で破壊されたり改造されたりしていて、全然違う形の物が現れるっていう場合もある。今回の火種は、後者だな」

「つまり、手慣れた何かをマテリアライジングしたところ、その何かが丁度異世界で燃やされているところで、炎がこっちの世界に燃え移ってしまった、ってことですか?」

「まあ、そんなところだ」

「でも、火災が故意じゃなかったとして、その誰かは一体何のために何を出そうとしていたんですか?」

「……これは、あくまでも一つの可能性の話として聞いてくれ。……真相だとか勝手に早とちりするなよ」

 横江さんはそう念を押し、氷だけになったジンジャエールのグラスを傾けて、僅かに唇を湿した。こうなると、そのツンツン頭が名探偵のトレードマークみたいに見えてきたから不思議だ。そして、たぶんだが、私は知的に見える人にトコトン弱い。キラキラした羨望の眼差しでその一挙手一投足を眺めていると、向こうも落ち着かなくなったのか居住まいを正し、二、三度咳払いをしてからようやく続きを話し始めた。

「そもそも、納得し易いというのはどういうことかというと、全ての事柄にある程度の必然性が感じられて、状況的にも辻褄が合うということだ。となると、まず『昨日の昼、あの変電所の敷地内でマテリアライジングする必然性の感じられる何か』があったのだということが前提になるが、これは深く考えてみるまでも無い。一つ該当するものが見つかる」

「……電気関係ですか? 避雷針とか?」

「いや、違う。どこから来た発想だ、それは。答えはだ」

 私は、心臓を直接鷲掴みにされたかのような、という比喩でおそらく表現されるであろう衝撃を感じて背筋を震わせ思わず絶句した。

「さっきも言ったが、あの敷地は変電所と山川さんの屋敷、両者の絶妙な現実化で成り立っていたわけだ。そんな場所でマテリアライジングが行われたと言うなら、その対象は変電所か屋敷のどちらかだと考えるのが妥当だろ? そして山川さんらが不在の間、あの敷地に変電所が建っていたと考えれば、だ。平日の昼間、おそらく住宅地を歩いている人はそう多くないだろうし、少しの時間なら大丈夫だろうと高を括って、犯人は山川邸をマテリアライジングしたのだ。よもや、

「待って下さい。そうなると、炎上する屋敷がマテリアライジングされたとして、その間、変電所はどうなっていたんですか? 同じ時間同じ場所に両方を完全に現実化させておくことは無理でしょう?」

「勿論。屋敷を現実化するために、変電所の方は一旦虚構に戻したことだろうね」

「だとしたら、どうして変電所が燃えていたんですか? 屋敷と変電所が完全に併存することはありえない(どちらかが目に見えるだけ、とか不完全な形でならありえる)んだから、炎が燃え移ることは出来ないでしょう?」

「その通り。燃え跡は完全に変電施設のものだったしね。屋敷から変電所に火が燃え移ったというわけじゃない」

「だったらどうして……」

「簡単な話。現実化させた屋敷が燃えていることに気付いた犯人は、誰にも見られない内にそれを虚構に戻し、現れた更地に、本来の異世界とは別のところから、燃えている最中の変電施設をマテリアライジングしたのさ。近所の住民に、ここに建っていたのが屋敷だと知られるわけにはいかないからね」

「つまり犯人は、変電所を消す→屋敷を出す→屋敷が燃えていることに気付く→屋敷を消す→屋敷と同じように燃えている変電所を出す、という風に行動したということになるんですか? これこそ、何とかの剃刀です。そんな回りくどいことしないで、変電所を消す→何らかの理由で新しい変電所を出す→変電所が燃えていた、という単純な仮説の方がスマートじゃないですか?」

「まあ、確かにスマートだ。だがその場合、現場を火災にまで発展させる必然性が無い」

「どういう意味ですか?」

「変電所を消す→新しい変電所を出す→変電所が燃えていた、というんなら、慌てることは無い。、という一動作で火災は防げるんだ。どれだけ慌てふためいていたとしても、マテリアライジングした物を虚構に戻すくらいなら容易い。しかし、実際に変電所は燃え続けていた。あらゆる虚構代行業の関係者にとって、虚構の施設が火災によって近隣住民の注目を浴びることは、決して賢い方策とは言えない。ならばどうして火を消さなかったのか。それは、『変電施設の敷地内で火災が起こったのに燃えていたのは何故か豪邸だった』という致命的な状況に陥るよりは、ただ『変電所で火災があった』という状況の方がましだと考えたからじゃないのか? 木の葉を隠すなら森の中だ。『そこにあってはならないはずの物の炎上事故』を隠すなら、『そこにあるべき物の火事』の中、というわけだ。同じ注目を浴びるのなら、軽度な方が良い」

「それもおかしいですよ。そもそもどうしてんですか? 誰にも見られない内にすぐに燃えている屋敷を虚構化し、何食わぬ顔で燃えていない変電所を現実化させれば、それだけで事は収まるじゃないですか。万が一煙か何かを誰かに目撃されて、消防に通報されたとしても、署員が駆けつければ変電施設に何も起こっていないのは一目瞭然ですから、単なる誤報で済みます。隠蔽工作はこれで十分じゃないですか」

 木の葉を隠すなら森の中、と言うが、犯人は葉っぱを文字通り消す能力を持っているのだから、隠す必要に迫られること自体無いはずなのだ。

「いや、犯人に、燃えている屋敷をすぐに虚構化させられない理由があったとしたらどうだろう。出来るだけ。変電施設の敷地は高い塀で囲まれている。入り口の扉から見える範囲さえ『視覚的にだけマテリアライジングさせた変電施設』でカモフラージュすれば、煙を見て集まって来た野次馬などの目は誤魔化せるだろう。そして、消防車が消火活動を始める直前まで山川邸を現実化させ続け、折を見て、炎上中の変電施設と入れ替える。もしもこの時燃えてない変電所をマテリアライジングさせれば、直前まで火の手があったことは確認されているわけだから、不審の目は免れないだろ?」

「それなら納得出来ますが、でも、結局火災でこの施設が注目を浴びるのも上手くないわけですよね。虚構代行業関係者にとって明らかなマイナスとなるそんな行為と引き換えにしてまで、豪邸を燃やし続けたかった理由なんてあるんですか?」

「ある」

 言って、横江さんは口元を引き締めた。さっきから彼はずっと硬い表情をしているが、たぶん私はそれに輪をかけて酷い顔をしていることだろうと思う。紫さんの家が何故か異世界で炎上していたと聞かされて、嫌な予感を覚えずにいられない。横江さんは、これをあくまで可能性の一つに過ぎないと言ったが、私は、限りなく真実に近いと勝手に確信してしまっていた。その横江さんの仮説が続く。

「そもそも、犯人が火種として現実化したのが山川さんの屋敷だと仮定した時点で、その犯人はかなり絞られる。まず、犯人は山川邸のマテリアライジングに手慣れていた。つまり、いつもの屋敷がどこの異世界から現実化されたものなのか熟知していなければならず、少なくともあの屋敷に行ったことのある人物だということになる。だが、あの屋敷は親しい者しか招かれないため、行ったことのある人はあまり多くない」

「……確か、去年の段階で、あのお屋敷に入ったことがあるのは、山川さんの家族以外では、私と、駿さんの婚約者の美優子さんだけだって言ってました」

「まあ、その発言の後で誰かを招いた可能性はあるが、ここでは除外しよう。もしかすると誰か親しい人間が他にいたのかもしれないが、まあ、とりあえず先に俺の話を聞いてくれ。……この俺の仮定の中で、犯人は巨大な建造物のマテリアライジングを数度行ったり、炎上中の変電所を擁する異世界を異覚で素早く見つけ出したりすることが要求される。これには、かなり高度な虚構代行技術が必要だ。例えば俺なんかだと到底実行不可能だろう。簡単に見積もって、山川、裃、裏扇の本家か、それに近い傍系の人間でないと難しい。……これを最初の要件と合わせると、犯人候補は三人しか残らない。山川家当主である山川轟嗣、その息子の山川駿、そして娘の山川紫だ。山川さんの奥さんである小春さんも虚構代行技術者だけど、山川の血を引いているわけではないから本家ほどの才能は無いはずだ。そして君は論外」

「美優子さんが実は凄い虚構代行だったとしたらどうです?」

「彼女は音楽家なんだろう? 演奏の際音に対する凄まじい集中を長時間必要とするヴァイオリニストと、異世界を捉えるための異覚を鍛える虚構代行では、あまり反りが合わない。両立は難しいだろうね」

「でも、駿さんはコックさんですよ? 敏感な味覚を必要としながら、虚構代行の本家としての技術も持っているわけでしょ? これは両立と言えないんですか?」

「駿さんが料理をやっているのは、半ば趣味みたいなものだよ。いつまでたっても『修行中』の身なのがその証拠。虚構代行業の辛いところは、異覚に特化した訓練を受けるせいで、特殊な技能を必要とする職種に向かなくなることだ。年がら年中空想に耽っているような人に、例えば飛行機のパイロットは任せられないだろ? コックは不可能でない範囲だと思うが、あくまで駿さんのは虚構代行業という職業のカモフラージュのための、一般人向けの肩書きだよ。実際に働いてるから、あながち嘘とも言えないけどね」

 そうか。異覚が鋭いというのは、それだけ色んな異世界を捉えられるということだから、要するに色んなアイデアやら想像やら妄想やらがばんばん思い付くってことなんだ。横江さんも私と話しながら色んなことを妄想しているのか、と妄想している私の愚かさたるやその右に出る者はいないだろう。私は『東京大学物語』か!

「……えーと、何の話でしたっけ?」

「犯人は、山川家の三人の中にいる」

「いや、でも、家族揃って異世界に出張してて、三人とも連絡が取れないわけでしょ? その中の誰かが犯人ってことは、こっちの世界に戻って来てるってことじゃないですか」

「違うよ。一ヶ月近く行方がわからないのは、山川さん夫妻と紫の三人。駿さんは昨日の夜つかまらなかっただけであって、一昨日まではちゃんと店に出勤していたらしい」

「アンフェア」

「ん? 何か言った?」

「言ってません。ともかく、横江さんは、犯人は駿さんだと主張したいわけですね?」

「そう。それで全てが説明出来る」

「出来ません!」

 私は、瞬間的にむきになった。あんな優しい駿さんが、あんな素敵な人が、燃え上がる我が家を出来る限り長い間現実化させておこうとなんてするはずがない。思い出のいっぱい詰まった他ならぬ我が家が轟然と炎をあげて崩れて行く様を目の当たりにして、駿さんは一体何を思ったことだろう。きっと狼狽し、哀切に暮れ、理不尽を嘆いた筈だ。一刻も早い鎮火を試みるなら理解出来るが、消防車が来るまで燃やせるだけ燃やしておいて、消火活動の始まる時に変電施設とすりかえるなんて、どう考えても常軌を逸している! それじゃあまるで、駿さんが実は自分の家に対する憎悪に取り付かれていて、炎に包まれる豪邸を眺めて溜飲を下げていたみたいじゃないか。屋敷が燃え落ちる瞬間、その唇にはうっすらと狂気に彩られた笑みが浮かんだとでも言うのか。あの駿さんにそんな邪悪な感情があるとは思いたくないし、私の個人的な観察からすると彼は根っからの善人にしか見えなかった。横江さんの駿さん犯人説をとるというのは即ち、駿さんの人間性を地に貶めるというだけでなく、私の人を見る目が大したことないと認めることにも繋がる。それは嫌だ。漫画の知識以外、勉強もスポーツもルックスも中庸を行く私にとって、『人を見る目』という奴は世間の荒波を上手いこと泳ぎ抜くために必須の才能であり、実際これまで健やかな日常生活を送ることが出来たのは素敵な友人に囲まれていたおかげであって、そんな上手い友人を選べた私は結構良い目をしているはずなのだ。それなのに、ああそれなのに、それなのに。あの駿さんが極悪人だったりなんかしたら、自分の価値観は完膚なきまでに瓦解させられるに違いなく、これから先誰をどこまで信じれば良いのかわからなくなってしまいそうで、たぶんこれを青春業界の専門用語で人間不信というのだ。いや、やっぱり違うか。まあ、ともかく私はそういった理由から山川駿犯人説に猛反発したわけだが、興奮する私の話をふむふむと冷静に聞いていた青春卒業済み(年齢的に多分)の横江銃さんは、まあ落ち着けよ、の僅か一言で私を黙らせた。

「要するに、君は駿さんが悪い人じゃないって言いたいんだろ? 彼が悪人じゃないことくらい俺にだってわかってる。もしも彼が悪人だったら、俺も、君の言う人間不信に付き合ってやるよ。駿さんは、家が憎くて燃やしてたわけじゃない。むしろその逆だったんだ」

「逆?」

「ああ。駿さんは、家族のことが心配だったからこそ、マテリアライジングした家をすぐに異世界に戻すことをしなかったんだ。出火原因などの、情報を収集する時間を確保するために」

「……情報収集?」

「おそらく駿さんは昨日の昼、連絡の取れなくなった家族を心配して、店を休んであの屋敷に駆けつけたんだ。だが、到着してみると、敷地は完全に変電施設に変わっていて、屋敷は跡形もなく消えていた。そこで、失踪の手掛かりでも探すつもりで、変電所を虚構化し、いつもの異世界から豪邸をマテリアライジングさせたところ、火の手が上がっていることに気付いた。おそらくその時点では、まだ屋敷全体に火が回っていなかったに違いない。駿さんは慌てて中に駆け込み、何があったのか様子を確かめたんだ」

「そこに、山川さん達がいるかもしれないからですね?」

「いや、屋敷だけをマテリアライジングしたのだから、万が一異世界で屋敷の中に山川さん一家がいたとしても、この世界では感知出来ない。それに、そもそも異世界のものを勝手に借用して使っているわけだから、火災が山川さんに関連するものかどうか一瞬で判断することは難しいだろう。だからこそ、中に駆け込んだとも言える。その火災が間違いなく山川さん一家の危機を告げるものだと確信出来たならば、すぐさまフィールドトリップでその異世界へ助けに行くべきだ」

「なるほど。それが微妙だったからこそ、屋敷に入って状況を探ろうとしたんですね」

「ああ。万が一火に囲まれても、非触覚化させてしまえば、熱さを感じることはない。逃げようと思えば逃げられる。その上で、今を逃せば家は燃え落ちて手掛かりは全て失われてしまうんだから、時間の許す限り中を調べようと思ってもおかしくはないだろ」

「でも、マテリアライジングした家の火を消せば、異世界の方の火も消えるんじゃないですか? 現場の維持を考えるなら、無茶を承知で最初から消火活動を要請した方が良かった気もしますが」

「そうだな。だがそれは、虚構代行に関わるものとしては苦渋の決断だ。屋敷の火を消した後、変電所でなく家屋が建っていたことを、警察や消防にどう説明する? 中には虚構代行の事情に通じている者もいるだろうが、その場合、君みたいにどうして延焼中の家を虚構化させなかったんだ、と訊かれたらどう答える? 家族の危機かもしれなかったので、と言えば格好もつくが、憶測に過ぎない上、実際山川さん達が危険に晒されていたのだとしても、それは虚構の出来事に過ぎないんだ。それが虚構代行という仕事だ。フィクションのためという名目で、果たして彼らは実際の火災に納得してくれるだろうか?」

「で、でも、結局、炎上中の変電所をマテリアライジングさせたら、おんなじようなことになりますよ? 虚構のために、現実が被害を被っているわけですから」

「それは否定しない。駿さんがとった手段が最善だったとは俺も思わない。本当なら、元通りの変電所をマテリアライジングしたかっただろう。だが、予想以上に調査が長引いて、後には引けないところまで来てしまった。しかもおそらく、虚構代行がこの場に関与している証拠を残すわけには行かない事情が出来たんだ。だから、一番現実的に見える方法でその場を収める必要が生じ、火のついた変電所を残さざるを得なかった」

「その事情って何なんですか?」

「……駿さんは、土壇場になってようやく、家の中で何か決定的な手掛かりを掴んだ。そして、す状況であることに気付いたんだ。マテリアライジングした屋敷を消し、すぐさまフィールドトリップを行いたかったが、そうすると、虚構代行の実行犯として名乗り出て警察や消防に釈明出来なくなる。それでは、今回の騒ぎは『虚構の炎を用いた悪戯』のような扱いとなり、虚構代行関係者と警察の間で無用の軋轢を生じさせてしまうし、かといってトリップの前に悠長な取調べを受けている時間はない。とすれば、虚構代行が関与した痕跡を全て消し、現実の事件事故を偽装してその場から脱出するのが一番賢いだろ?」

「……なるほど。火のついた屋敷をマテリアライジングさせ続けたのは手掛かりの探索のためで、火のついた変電所を用意したのは虚構代行の存在を隠蔽するため。そして駿さんは異世界に出張してしまったんですね?」

「俺の仮説が正しければ、な」

 正しいに決まっている。何の証拠もないけれど、私は横江さんの推理を支持している。

「……駿さんは、屋敷の中で何を見たんでしょうか?」

「それはわからない。家族の行き先を示したメモが書斎から見つかって、それがかなり危険な設定の世界だったとか、そういったことかもしれない。その場合、家が燃えていた理由は紫達と直接には関係無かったってことになるが、家族が危機に瀕していることは間違いないだろ」

「そうですね。でも、本当はどう思ってるんですか?」

 横江さんが気休めを言っているのが何故かこの時私にはわかってしまって、それが苦しかった。紫さんのしとやかな笑顔が頭の中にふわっと浮かんで消えていき、それと一緒に本当の紫さんも消えてしまったような最低な連想が、私の心理状態を象徴していた。横江さんは静かな声で、ミルクティーをホットで二杯、ウェイトレスさんに追加注文した。言外に、落ち着け、と言われていた。夕食時に近付いたせいで店内は少し込み合って来ていたが、隅っこで深刻に世界の秘密を語り合う私達は意外なほど店の雰囲気に溶け込んでしまっており、妙な目で見られたり眉を顰められたりと言った切ない思いは一度もせずに済んでいる。先ほどのウェイトレスさんがティーカップとミルクを二つずつ置いて立ち去るまで、横江さんは何も言わなかった。私のコーヒーカップと空になっていたパフェ、横江さんのジンジャエールのグラスが下げられて行き、それと同時に私の中の何か大切な欠片も一緒に持って行かれたに違いないんだけれど、あくまでもそれは私の中の虚構に過ぎないから、すみませんそれまだそこにおいといて下さい、がどうしても言えなかった。だから、この喪失感は自分でどうにか埋め合わせるしかなくて、私の右手は小さなスプーンでシュガーケースからさらさらの粉砂糖を掻き出して、ぼんやりと店内を映している澄んだ飴色の液体の中に、それを何杯も何杯も傾けた。ミルクをどろっと回し入れて、歪な白い渦に全てを包み込み、溶け切れない砂糖のざらつきをティースプーンの先に感じながら、私は私にとってミルクティーでは無い何かを口に含んだが、結局はただその甘さに閉口し、カップをソーサーの上に乱暴に戻すだけに終わってしまう。何やってんだろう、と冷静に後悔する自分を認識した時、横江さんが無言で私のカップと自分のそれを交換してくれた。

「君の予想通り、駿さんはもっと直接的なもの、一目で家族の危機を感じとれるような何かを目撃したんだと思う」

 横江さんはそう言って、今手に入れたばかりの砂糖で飽和したミルクティーを一口啜り、意外と美味そうに嚥下した。……私は今度はミルクだけを入れた。

「それもまさに、一刻を争うような何かを」

「誤魔化さないで教えてください。何かって何なんですか!」

「あくまでも俺が見たわけじゃないからな。ただ、こんな考え方がある、という程度だ。そもそも、山川さん達があの屋敷で勝手に暮らしていたことから、どこかの異世界にある本物の方の屋敷も、山川さん達にとっては馴染みの場所だったんじゃないだろうか。例えば、シリーズ物の虚構代行か何かで、何度も家族ぐるみでそこを訪れたことがあった、というような。で、今回の山川さん達のフィールドトリップも同じシリーズの仕事だった」

「つまり、駿さんは最初からあの屋敷が家族の失踪と関わっていることを知っていたんですね?」

「ああ。けれども、シリーズ最新作の設定を知らないから、直接異世界へ様子を見に行くことは出来なかった。新たな設定を加えられることによって、世界は重層化するからな」

「重層化って何ですか?」

「パラレルワールドが生まれることさ。ドラえもんで言えば、のび太は元々ジャイ子と結婚する予定だったが、未来が変わってしずかちゃんと結婚することになったろう? この二つは両立し得ないが、それぞれ等価の異世界として別々に存在し得る。これまで一つの世界だと思っていたものが、実は二つの異世界の片方を見ていただけだったことがわかるわけだ。駿さんは要するに、のび太が将来誰と結婚するか知らない段階でのび太の息子に逢いに行こうとしているのと同じだから、作者が意図した方の世界にトリップできるという保証が無いんだ」

 そうすると、異世界は無限に近く存在することになる。それってご都合主義じゃないのか、と思ったが、そもそも虚構代行の話を聞く前まで私は、虚構を作り出す人間の発想力こそ無限大だと思っていたわけで、この二つがおんなじことを言っているのだとすれば、当然と言えば当然の帰結だった。……うーん、突っつけばどこかでぼろが出そうな気がしてならないんだけどなあ。

「パラレルワールドに関する詳しい手掛かりを得るために、駿さんは屋敷のマテリアライジングを行ったんだろう。ところが予想に反して、従来の異世界にある屋敷が炎上していた。この時点で、山川さん達に何か変事があったのだということは薄々予想がつく。重層化する前の屋敷が燃えているということは、むしろ、重層化など起こらずに異世界で問題が勃発したと考えるべきだからだ」

「それってどういう意味なんですか?」

「シリーズ作家がやりがちなことだ。新しいアイデアなど何も出さずに、虚構代行に、前の世界の純然たる続きを取材してもらうのさ。これは、イベントの一つも決まっていないため、本当に何が起こるかわからない。だから、平々凡々な日常が延々と続く可能性だってあるし、そのせいで間延びし易くなる。それでも人気シリーズの場合、ある程度形になるケースが多い。他の登場人物との関係が確立されると、物語は勝手に動き出すからな」

「山川さん一家が一ヶ月も戻って来なかったのは、トラブルに巻き込まれていたためというより、その間何も起こらずレポートが出来なかったため、ということですか?」

「可能性は高い。しかし昨日、その家で火災が起こっていた」

「屋敷が家族に関係あると最初からわかっていたなら、駿さんは情報収集なんてせず、すぐさまフィールドトリップで助けに向かうんじゃないですか?」

「ところがそれも難しい。今回はそういう仕事なのかもしれないだろ? 山川さん達は、この火事を安全なところ取材しているだけかもしれない。そこへ、のこのこと異世界から駿さんが現れたら、余計なお世話もいいところで、物語の全ては台無しになる。だからせめて、この火事が本当に家族にとって危険なものなのかどうか、それを確認したかったんだと思う」

「……何かを見て、そう確信したというわけですね」

 横江さんは、ゆっくりと頷く。

「だったら、その何かを教えてくださいよ」

「血だよ」

 ぼそりと間髪入れずに戻ってきた言葉を、私は危うく聞き逃しそうになる。

「え?」

「血、血液だ。屋敷のどこかの部屋に、血痕が広がっているのを目撃したんじゃないだろうか。流れ出ている血そのものは屋敷のマテリアライジングでは見えないが、家に染み込んだ血の跡は屋敷の一部と見なされて、視覚化される。おそらく人一人の致死量に迫るほどの、大量の血痕が一部屋を埋め尽くしていたに違いない」

 その光景はひどくおぞましいものとして耳に響いたが、頭の中が真っ白で上手く像を結んでくれなくて、そのおかげで私はかろうじて自分を保つことが出来た。

「でも、それが誰の血なのかわからない以上、やっぱりそういう仕事かもしれない、と思うんじゃないですか?」

「そうだな。基本的に、虚構代行が異世界の人間を傷つけるような一人称レポートは、越界倫理の観点から問題視されているが、無いわけじゃ無い。それに、もしかしたら山川さんの屋敷で第三者が他の第三者を傷つけただけ、という可能性も僅かながら残されている。だが、大量の血痕と炎上する屋敷、この組み合わせで人死には免れないだろうから、駿さんが危機感を覚えるには十分だ。それに、これは全くの想像に過ぎないが――」

 横江さんは、私から目を逸らし、ミルクティーの水面を茫洋と見つめた。

「駿さんは、を目の当たりにしたんじゃないだろうか」

 眩暈がした。落ち着け、と自分に言い聞かせて、甘くないミルクティーを口に含む。叫び出したいような衝動に駆られ、その温かい液体の優しい舌触りすら、今は邪魔だった。

「燃え上がる屋敷と、広がって行く血痕。ここから一つ連想出来ないか? 閉ざされた館での連続殺人事件の悲劇的幕切れとかさ。名探偵に犯行を言い当てられた犯人が、追い詰められて、最後の復讐相手を道連れに自殺を図り、館に火を放つ。山川さんの豪邸がその舞台となってしまい、山川一家はそれに巻き込まれたというわけだ」

「……その、連続殺人の過程で、山川さん達に被害が及んだ可能性は?」

「……わからない。もしもこれが探偵物のシリーズと言うことなら、山川轟嗣さんが名探偵、ないしワトソン役であるという確率が高く、シリーズキャラクターはそう易々と死なないだろうけど、その家族となるとどうだろうか。それに、これがシリーズ最終作で、探偵が炎に撒かれて行方不明になるという恐れもある。駿さんも同じことに思い至り、だからこそフィールドトリップで駆けつける必要に迫られたんだ。危機感に煽られながらのフィールドトリップは、彼ほどの腕があっても難しかったことと思うがね。万が一既に家族が屋敷から無事脱出していて、駿さんの考えが杞憂に終わっても、重要な謎解きなんかは済んでいるんだから、このラストシーンに部外者の乱入があったところでどうにか虚構代行の仕事として対面は保てるはずだしな」

 何か質問は、というような顔で、横江さんがこちらを向いた。今にも溜息をつきそうな様子で、それを踏み止まっているのは、単に私に気兼ねしているからだろうと思った。私は何も言えず、ひたすら紅茶を啜っていたが、自分でも鬱陶しいくらい小刻みに震える腕を止めることが出来ない。

 外部と隔絶した逃げ場の無いところで、一人また一人と登場人物が殺されて行く殺人事件を扱った小説を、クローズドサークルものと呼ぶ。それは、あくまで虚構の中の出来事でしかなくて、人殺しが潜んでいる環境での生活という死と隣り合わせの極限状況下の恐怖は、あくまでも私を楽しませる娯楽の一ジャンル、紙媒体に展開されるスリルと興奮に満ちた一ページに過ぎないはずだった。それなのに、虚構代行のシステムを知った今、虚構は私の現実を脅かし始めている。

 紫さんが、それに巻き込まれた。

「……何度も言うが、これは何の証拠も無い、単なる可能性の一つだ。『九マイルは遠すぎる』じゃあるまいし、仮説に仮説を重ねた俺の空論が正鵠を射ている確率なんて、微々たる物だ。何のことはない、変電所の火事だって単なる放火魔の仕業で異世界とは何の関連も無くて、山川さん達はただ取材が長引いてるだけ、駿さんも美優子さんと旅行にでも行ってるだけかもしれん。万が一、俺の仮説が正しかったんだとしても、ほら、駿さんが助けに行ったわけだし、事件は幕を下ろしたわけで、ひょっこり皆、明日になったら帰ってくるかもしれん。だから、まあ、その、何て言うか――」

 紫さんは、自分がその極限状況に追い込まれたと知った時、一体何を考えただろうか。張り詰めた精神状態のためフィールドトリップで逃げ出すことも出来ず、慣れ親しんでいるはずの屋敷の中で、殺人者の影に脅えながら暮らす羽目になった時、どれほどの恐怖に襲われただろうか。私のことや、横江さんのことは思い出してくれただろうか。もう一度、『横江リサイクルブック』の入り口脇の通路でおしゃべりしたいな、と儚い希望を胸に燃やして自分を鼓舞し、毅然とした態度で逆境に挑んだのだろうか。

 ねえ、どうなの?

 ねえ、教えてよ、横江さん!

「――泣かないでくれよ」

 いまいち大人になりきれない私は、横江さんの懇願空しく滂沱の涙を流し、かろうじて大声をあげなかったことだけが救いといった体で俯いて肩を震わせ続けた。言い訳をさせてもらえば、交通事故からこっち、両親の号泣やら何やらに直面する機会も多く、自身の涙腺も緩んでいた上に、人の生と死について真剣に考えさせられていたところであり、そこにこれ(紫さんの訃報もどき)が重なったのだから中学一年生のか弱い女の子に耐えられるはずがないではないか。女の子に泣かれておろおろする横江さんはなかなかに見物で、後から思えば可哀相なことをしたものだが、心配しなくてもきっと紫は元気にやってるって、という何の根拠も無い気休めから、とりあえずこれから詳しいところを俺が色々調べてみるからさ、という前向きな解決への思索まで使って、あらゆる方法で私を宥めすかそうとしてくれ、私はその好意に甘えて、絶対紫さんがトリップした異世界を突き止めてください、と随分無茶な約束を取り付けた。にも関わらず、

「でも私に黙って一人で助けに行ったりはしないで下さい、横江さんまで勝手に消えちゃったりしないで下さい」

 と、今にも見捨てられそうな恋人に縋りつく三〇代のOLばりのひたむきさで彼の独断専行を封じた。実際、今や横江さんだけが私と紫さんを結ぶ糸なのだ。失ってたまるか、と思えば必死にもなる。横江さんは渋々了承し、自宅の電話番号を書いたメモを渡して、毎週木曜『横江リサイクルブック』で会おう、緊急の時はここに留守電をいれといてくれ、と言ったので、私は慌てて自分の家の番号を紙ナプキンに書き付けて、横江さんも緊急の時はここに電話して下さい、と渋る彼の右手に捻じ込んだ。嘘か本当か、女の子と電話番号交換するのなんて初めてだよ、と呟く横江さんを見て、私はようやく微笑んだ。そんなこと言って結構遊んでるんじゃないですか、と訊いたら、とんでもない、異覚で捕まえる女だけで手一杯さ、と下ネタぎりぎりに切り返された。青少年に対して悪影響を及ぼすような言動は控えてください。

 話が一段落すると、横江さんは当然のように二人分の伝票を引っつかみ、立ち上がりざま、私にこう釘を刺した。

「紫達が異世界で行方不明になったとまだ決まったわけじゃないから、くれぐれも軽率な行動は慎んでくれよ」

 どんな行動が軽率なのか、私にはよくわからなかったので、とりあえずその場は了解の意を告げ、奢ってもらった礼を言って店の前で別れた。家まで送ろうか、と横江さんは紳士のような申し出をしてきたのだが、これ以上優しくされるとまずいことになりそうだったので、私は曖昧に笑って大丈夫だと伝えた。どうせ歩いて三分だし危険などありそうもない。横江さんは、駐輪禁止の表示板の支柱に絡めてあったチェーンを外して、変速も何も付いていない生粋のママチャリに跨って、二漕ぎ目くらいからフルスピードに乗り、颯爽と風のように走り去って行った。その後ろ姿は、どこからどう見ても波に乗る多角経営企業の社長の息子には見えなかったが、家柄よりも大切な何かを人々に知らしめるため天から遣わされた使者だと言われれば、容易に頷いてしまいそうだった。

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