第4話
まあ、冒頭で中学二年生の秋に馬鹿になったって書いたので、それまでは絶対に死なないに決まっているわけだが、スクーターのスピードがあまり出ていなかったお陰で実際身体の方は全然大した怪我じゃなかった。なのに、どうやらはねられて転んだ時に頭を道路に強く打ち付けたらしく、しかもその打ち所が相当に悪かったらしく(まあおそらく日頃の行いのせいだろう)、私は、七日間ほど昏睡状態にあり、その間一度容体が急変し、両親ともに娘の死を覚悟したというのだからわからない。外見的には何とも無かったのだけれど、実は側頭部の硬膜下で出血が見られたとかで、それが固まって血腫となり内側から脳を圧迫して云々、私も後から知らされただけなので何とも言えないが、頭つるっぱげにして開頭手術までしたんだから、決して軽い症状じゃ無かったんだろう。意識を取り戻しても重篤な後遺症が残ることが懸念されていたのよ、と聞かされたのがお見舞いの果物籠にあるメロンを貪り食っていた時だったから全然説得力は無かったが、私はこうして無事目を覚まして五体満足に暮らせることを神か何かに感謝しなければならないようだ。まあ母さんの泣くこと泣くこと、そりゃあたった一人手塩にかけて育てた娘にたかだか原付にはねられてすっ転んで意識不明になられた日には周章狼狽するに決まっているが、こちとら寝て起きたらいきなり見慣れない天井が目に入り、スキンヘッドに脳波計つけて寝心地の悪いベッドに横たえられていただけで、事故にあった自覚も何もなかった。だから覚醒しても状況が全然掴めず、真っ先に目に入ったやつれ顔の母さんに、「ねえ、ここどこ?」と平然と尋ねたのだが、それだけでわんわん泣かれたのには本当に参った。看護師さんが慌てて駆けつけドクターも颯爽と登場し偶然お見舞いに来ていた中学のクラスメイト達が大騒ぎし始め、だんだん何かの祭りみたいになって来たが、私はそれを後目にけろりとベッドに体を起こし、生温かい目で成り行きを見守った。医師の問診にも滞りなく答え、MRI検査でも脳に何ら異常は見つからず、貴重な一週間と美しい黒髪を失った以外はかすり傷と打撲くらいの軽傷で、意識を取り戻した次の日の午後に私はもう退院し、母さんと一緒に二本の足で歩いて帰った。家族三人、快気祝いのお寿司(スーパーで買って来た安いやつ)を囲んでいたら、もうこんな風にみんなで食卓囲むことも出来ないかと思ってた、なんて、あの父さんが泣き出すものだから急に湿っぽい雰囲気になって、それに釣られて私の目からもぼろぼろ何かが零れ落ちてきて、ごめんね、ごめんね、心配かけてごめんね、とえぐえぐ嗚咽しながら謝って、狭いダイニングで皆揃って大泣きして、何か家族の絆みたいなものを再確認させられて、ようやくこの事故は我が家において一件落着となった。明くる月曜から登校も再開し、ホームルームの最初に教室の前に来て復帰の挨拶とかする羽目になり、「どうも心配かけてごめんなさい。こうして無事戻ってこられました。あ、差し入れのメロンはおいしかったです」という主旨の発言で笑いを取り、むしろ以前より好意的にクラスに受け入れられ、入院中の授業も委員長がノートを貸してくれたし、髪が生えそろうまでかつらを着けていることと大事をとって体育をしばらく見学すること以外、全く順調なスクールライフが戻って来たのであった。本当、良かった。
おそらくこの件で一番割りを食ったのはスクーターの運転手である志村安永君で、本来ならば表彰されても良いくらいの安全運転だったはずらしいのに、ありえない角度からありえない速度で飛び出して来た破天荒な女子中学生を回避出来ずに衝突してしまい、大した衝撃じゃなかったから大丈夫だろうと思って「大丈夫ですか?」と声をかけたら相手は地面に倒れたままぴくりとも動かない、なんてあまりにも悲惨すぎてむしろ悲劇よりも喜劇に近い。おそらく頭は真っ白、心臓はバックバクになったことと思うが、それでも彼は周囲の人に助けを求めてすぐさま救急車の手配をし、頭を打っている時は不用意に動かさないようにというセオリーも遵守し、少しでも意識を取り戻すよう私の耳元で声をかけ続けた(これは必ずしも正しい行動ではない気がするが)。救急車にも同乗し、病院に到着した後は、連絡を受けて駆けつけたうちの母に平謝りに謝り、さらには事故現場に連れ戻されて軽く警察の事情聴取と検分を受け、一応周囲の目撃者のおかげで飛び出したのは私だってことは証明出来たみたいだけど、対人事故で点数つけられそうになった(後に被害者側の私がフォローに回ったのが功を奏し、行政処分は見送られた)。その後、自分の両親にも連絡して三人で私の病院に向かい、手術中のランプの元でまた私の両親に謝罪し、私の両親もその時には飛び出した私が一方的に悪くて志村君は安全運転派であることがわかっていたから複雑な表情で、じゃあ何でうちの娘はこんな重体になっているのかしら、と怒りの矛先も失ってただただ困惑するばかりだったそうだ。志村君は昏睡状態の私の様子を毎放課後に見に来てくれて、つまり彼は高校生だったのだけれど、七日目に目を覚ました私の目の前でも礼儀正しく頭を下げてくれた。いえいえこちらこそ本当にご迷惑をかけました、と負けじと会釈を返しながら、その志村君の泣きそうな顔にまたきゅんとなっている私がいた。『幽遊白書』の主人公が髪下ろした時の感じに何となく似ていて、高校二年生だというのにあどけなさが残っていた彼は、正直私のタイプど真ん中だったわけだが、さすがに交通事故の加害者と被害者の関係からどうこうなるのは難しいんじゃないかと思って、ぎこちなく愛想笑いしながら幾つか卒のない話題を回すに留まった。ところがどっこい志村君は、私の退院後も何度かわざわざ家まで様子を見に来てくれて、うちの母にも「礼儀正しい責任感の強い子」みたいにすっかり気に入られ、夕飯を馳走になったりする始末だった。話を聞くと、彼は無類の乗り物好きで、普通自動二輪免許を持っているけど今はお気に入りの原付に乗るのに夢中で、一八歳になったら大型自動二輪免許を取って一気に七五〇CCのバイクを買おうと考えているらしく、そのために今はガソリンスタンドで年齢を偽ってアルバイトしているそうで、あの事故の日も、家からそこに向かう途中だったのだという。私があのまま死んでいたら彼のそんなささやかな夢も破綻していた可能性があり、我がことながら生きてて良かった、と思う。もう二度と飛び出しはしないぞ、と小学生の交通安全のような誓いを強く心に言い聞かせたのであった。
そんな志村君の家の住所を聞いてみると、どうも山川邸と同じ町内のようだったので、あの日に通りすがりのおばさんに訊いてみたようなことを質問したところ、
「山川……? うーん、知らないなあ。僕、あんまり近所との付き合いないし」
とのことで、大豪邸だから一目見ればわかるはずだと言い募ると、
「あの辺にそんな大きな家は無かったと思うよ」
と、また空振りに終わってしまった。変電所のことを聞くと、当然のように知っていて、物心ついた時からあの場所はずっと変電所で、幽霊が出る曰くつきの場所として有名だから間違いようがない、という。よりによってミステリースポットだなんて!
こうなると本当に、紫さんに連れて行ってもらったあの豪邸も、駿さんの作った絶品料理も、その全てが蜃気楼のように時間と共に消えてしまうものに思えてきて、それどころか、紫さんなんて本当にいたんだろうか、読んだ漫画と現実を取り違えていたんじゃないだろうか、などという愚にも付かない考えが頭を占めそうだったので、とりあえず同じ小学校出身だった娘達に、紫さんのことをちゃんと憶えているかどうか早速確かめてみた。結果、山川紫さんは私の記憶通りの姿で皆の心の中にきちんと息衝いておりどうやら実在の人物であるらしいとは判明したが、その家を訪れた機会のある者は当然おらず、また、中学進学以降に姿を見た者もいなかった。電話が繋がらないことに関しても心当たりがある者は無く、あの孤高の紫さんの手掛かりを学校側から得ようということに無理があったのだろう、と中学校での聞き込みには早々に見切りをつけ、私は『横江リサイクルブック』に通って横江銃さんが現れるのを待った。この期に及んで紫さんが直接来店すると考えるほど楽観的ではなかったが、一応入り口を見張れるベストポジションを陣取り、ドアの開く音がするたびに視線を上げ、入店する客全員の顔も検めた。
横江さんまで店に来なくなったら、紫さんを巡る謎はもう完全に手詰まりになってしまうところで、孫の方の金田一君でも現れない限り事件は迷宮入りだよ、と半ば絶望していたのだが、運命を賭けた木曜日、高鳴る心臓を抑えて『横江リサイクルブック』の扉をくぐると、「よお」と気楽そうにレジの内側から声をかけてくるツンツン頭の姿があって、私はもう感無量、カウンターさえ邪魔でなかったらコメツキバッタよろしく彼に飛びついていたことだろう。
「先週来なかったけど、何かあったの?」
呑気にそう尋ねてくる彼に、この店の前で原動機付き自転車にはねられて生死の境を彷徨い、七日間意識不明だったことを説明すると、事故があったことは知っていたものの被害者が私だというのは冗談だと思ったらしく、最初は笑って取り合ってくれなかったが、かつらを外して手術の縫合の跡を見せたら絶句して同情してくれた。そもそもあの日、横江さんがここにいてくれたらあんな無茶な飛び出ししなかったのに、とか言いそうになったが、それは八つ当たり以外の何物でもなかったので止めておき、紫さんの家が変電所になっていた事実をこの期に及んでようやく報告した。横江さんは腕組みし、もっともらしく何度も頷いた後、その屋敷は虚構だったんだな、と無茶苦茶なことを言った。
「虚構だったってどういうことですか! 私は確かに見たんですよ! 見たっていうか、中にも入ったし、おいしい料理も食べたし、ご両親だっていたし、それなのに、それも全部嘘だって言うんですか?」
涙混じりに声を荒げる私が店内の客の注目を浴び始めたので、横江さんはぎょっとなって人差し指を一本唇の前に立てた。そして、ここで説明するのはまずいから明日の同じ時間に、向かいの喫茶店で話そう、という約束だけを取り決めて体よく私を追い払おうとしたので、私の興奮は治まらず、馬鹿、と捨てゼリフを吐いて店を飛び出し車道に飛び出し右から猛スピードでやって来たスポーツカーにぶつかった。今回は死んでいても全然おかしくなかったが、皮肉なことに速度違反の常習者で危険運転の達人だったらしいドライバーは、急に飛び出してきた私を見、ブレーキを踏んでも間に合わないことを一瞬で察知して咄嗟にステアリングを切り、蛇行しながら私をかわそうとしたらしく、私にぶつかったのはそのサイドミラー部分だけだったので、かなり痛かったが打撲だけで済んだ。左ハンドルの窓から腕を出し、親指を上に立てて『俺のドライビングテクニック最高!』みたいなアピールをしながら風のように走り去って行ったのは、かなりいかれたセンスの持ち主である証拠だろうが、まあ、おかげで命拾いしたのでよしとしてぶつけた腕を押さえながらとぼとぼと家路に着いた。横江さんの馬鹿! 私の馬鹿! もう、みんな馬鹿!
家に帰ってから、青く変色している患部にべったりと湿布を張って、居間のソファに横たわりながらニュースを見ていると、いきなり見覚えのある風景がテレビに映って心臓が止まりそうになった。『変電施設で火災』という小さなテロップのバックは間違いなくあの山川邸の跡地にあった変電所で、上空からの映像では確かに敷地内から煙が上がっているが、火が出たのは昼間で、もう鎮火しているとのことだった。怪我人はおらず、消防では出火原因を調べているそうで、停電などの混乱もなかったようで何よりだが、私としてはその場所がどうにも気になる。何だか、あの煙が上がっていた場所が、山川邸だったら丁度屋敷のあった辺りに重なる気がしてならず、それを偶然の一致と判断して笑い飛ばすには、私はこの件に深く関わり過ぎていた。気分はすっかり、真相に近付きすぎたために立て続けに危険な目に遭うハードボイルド探偵だが、よく考えるといずれの交通事故も紫さんとは実質無関係だし、そもそも深く関わり過ぎるというほどには山川家と関わってもいないのだが、そんなことは気にしない。謎が謎を呼ぶ展開にハラハラしていたが、それもおそらく明日横江さんと話をするだけで全て決着するわけで、明日の約束の時間まで横江さんが口封じに殺害されたりしないことを祈るのみだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます