第2話
学校では相変わらず、私は私のグループに属し、山川さんは孤高の文学少女というヴェールに包まれて異彩を放っており、接点は殆ど持たなかった。私達が冬のタンポポのように地べたに張り付いているのに対し、山川さんはエーデルワイスのように高山で可憐に咲き誇っているのであるよ、と、何ら脈絡のない喩えを挟んでみたものの、本当にそんな感じで、週に一回、決まって木曜日に近所の新古書店に降臨してくれなかったら、私達はいつまでも見知らぬ二人のままで終わっていたに違いない。ま、元々見知ってはいたけど。古本屋で逢うと山川さんは、その利発そうな眼鏡娘の容姿に恥じない知的な雰囲気を崩さずに、勉強のわからないところを穏やかにフォローしてくれたり、個人的に面白かった短編の文芸系漫画を教えてくれたり、時には図書委員を務める六年生が隣の中学の男子と付き合っているなどというゴシップを披露さえした。彼女は、小説好きであるだけでなく、名作少女漫画好きでもあり、『ガラスの仮面』や『ベルサイユの薔薇』の話では随分盛り上がれたし、山川さんの、鋭い洞察と物語への愛を両立させた非の打ち所のない語り口には、感服させられたものだった。それでいて、自分の知らない分野については小気味良いほどにテンポがずれており、「キン肉マンは、三分過ぎると誰に戻るの?」「ゴルゴ1から12は殉職したのかしら?」「ハットリくんの原作はどっち? フジコ? それともフジオ?」などの珍質問には涙が出るほど笑わせてもらったし、これにはあのレジのバイトの兄ちゃんすら大笑いしていた。私は基本的に漫画の立ち読みしかしないし、一週間に一遍はこうやって友達と騒ぐわけだから、店にとってはまさしく営業妨害以外の何物でもなかったが、良くもまあ追い出すことなく放っておいてくれたものだと思う。都会に極めて近しい田舎(埼玉県の某市)だったから、まだまだ、村的な人間関係が維持されていて、大人は皆優しかったんだね、などと適当な解釈をしても良いが、後にもっと合理的な理由が判明することとなる。
小学五年生になったある日、いつものようにその古本屋に行くと、山川さんが出会い頭にとんでもない提案をしてきた。以下、原文。
「こんにちは。秋吉さん、今からうちに来ない?」
「え、えええ! だって、塾は?」
「今日はお休み。お父さんとお母さんが揃って出張に行っちゃってて、お兄ちゃんが料理作ってるから、一緒に食べてくれる生贄を探しに来たの」
「……ジャイアンシチュー?」
「何それ?」
「ううん、何でもない。そんなにお兄さんの料理は不味いの?」
「とんでもない。その逆よ。お兄ちゃん、フランス料理の修業中で、普段は世田谷で一人暮らししてるんだけど、お父さんとお母さんがいない間だけ、こっちに来て私の面倒見てくれるの」
「へえ。お兄さん、何歳?」
「二六」
「二六!」
「うん。今度結婚するらしいよ」
「らしいって」
「お母さんが違うし、歳も離れてるから、あんまり親しくないの」
「……あー、そうなんだ。なんか、凄い複雑な事情がありそうだね」
「そうそう、だから、人助けだと思ってさ。食べに来てよ。お兄ちゃん、張り切っちゃって、本格的なフルコースとか作るんだもの。しかも、作る方に専念しちゃうし。一人でぽつんと食べるなんて、耐えられそうにないわ」
「うーん、私の方も母さんに相談してみないと何とも」
「じゃ、今からほら、行こう」
あれよあれよという間に話がまとまって、まずは子供の足で歩いて三分の距離にある我が家へ顔を出し、二階で洗濯物を畳んでいた母に、今日夕飯を山川さんのところでご馳走になることになった、という出だしから、かくかくしかじか事情を説明したところ、まあ、いいわね、お母さんも行きたいわ、フレンチシェフなんて凄いじゃない、かっこよかったらどこのお店で働いてるのか聞いといてね、せっかくだから盛装した方がいいんじゃない、ああ、それは別にいいの、じゃあ帰り暗くなるから気をつけて帰っておいで、行ってらっしゃい、はい行って来ますってな具合で送り出され、律儀に玄関先で待っていた山川さんと合流し、夕暮れの街中をてくてく歩いた。山川さんの家は、学校を挟んだ真反対側にあって、学校内を貫通するのが一番早かったけれど、生徒指導の先生に早く帰れとどやされそうだったので、ぐるりとフェンス沿いを迂回したら、どうやらお決まりの散歩コースだったらしく、途中六匹も散歩中の犬とすれ違って二人で大喜びした。山川さんはうちで何か飼ってるの、と訊いたら、ドーベルマンを一〇匹ほど、と答えるので、じゃあお家滅茶苦茶広いんだね、と驚いたところ、嘘だよ、と笑われた。そういやそうだ、この辺にドーベルマンを一〇匹も飼えるほど庭の広い家なんて無いや、と思っていると一五分後に白熊を一〇頭飼えそうな庭を持つ豪邸に行き当たって、この時私は上の方が有刺鉄線でガードされた高いブロック塀をドラマ以外で初めてお目にかかった。刑務所じゃないんだから。この辺は私の行動範囲じゃ無かったものの、校区内にこんなものものしいお屋敷なんてあったんだ、と地元民特有のびびり方で慄いていると、勝手知ったる様子で(当然だ)巨大な鉄門扉を開けて、山川さんはずんずんと敷地内に入り込んでいった。庭には目ぼしいところでも、芝生、敷石、池、噴水、ウッドデッキと贅の限りが尽くされており、まさにやりたい放題、山川さんのお父さんって何やってる人、と訊かずにはおられなかったのでその通り訊いたら、山川さんは何だか渋い顔で、ちょっと不機嫌になってしまった。そしてぽつりと、富豪、と答えたが、それって職業じゃないだろう、とつっこむと、じゃあ小金持ち、ってやっぱりそれも職業じゃないんだけど、どうやらあんまり他人には言いたくないみたいだったので、それ以上詮索するのは止めておいた。家のドアは真っ黒で、芸術的な彫刻が施されていてそのオブジェの一部みたいになっている取っ手の上下に目立たないよう鍵穴があり、山川さんは見たこともない金色の鍵を差し入れてがちゃがちゃやった後、どうぞ、と私を促した。促された私は、自分の部屋より広い玄関に通され、まずその広さに圧倒され、天井の高さに唖然となり、高級そうな落ち着いた木の家具の香りを嗅いで何故か少し和んだ。デパートの家具コーナーがこんな感じだからだろうか。ただいまー、と言う山川さんの声を聞きつけたのか、左奥から長い廊下をどたばたと駆けて来る足音が聞こえ、なんだなんだと思っていると、テレビに出てきそうな長身痩躯の美形の男性が、相好を崩しながら現れ、その完全なコックさんスタイルと右手の鍋の蓋で私の度肝を抜いた。
「おー、こんばんはー。いつも紫がお世話になってるみたいで。紫の兄の駿です」
にこにこと上機嫌で話し掛けられて、私はたじたじ自己紹介を返すのがやっとだった。その容姿はまるで、少女漫画に出てくる、ヒロインを手練手管で篭絡しようとする恋愛慣れした第二の男みたいで、色気のあると形容するに足る線の細い男前なのに、キャラクター設計はヒロインの優しいパパさん、みたいな感じでかなりギャップがあった。山川さん、つまり紫さんは膨れっ面で、恥ずかしいから止めてよね、と言いたげにお兄さんを睨んでいたが、確かに、料理の途中でそれを放り出して鍋の蓋片手に妹の友達に挨拶しに来る若き美形フレンチシェフなどという構図は岡田あーみんですら描かないだろう。エキセントリックなお兄さんは、妹の冷たい視線を感じたのか、おっといけない、ホワイトソースが焦げる、失礼、と口に出しながらどたどたと慌しく駆け戻って行った。その背中が見えなくなってから、お兄さん格好良いね、とからかい半分で言ったら、紫さんは何故かそこだけは素直に、うん、と頷いたのだった。……何だよ、あんまり親しくないとか言ってて、殆どラブラブじゃねえか! 騙されたぜ。
一〇メートルくらいある長いテーブルの端と端に座らされて、これじゃあお互い会話するためには大声出さなきゃならんじゃないか、とびっくりする予定だったが、残念ながらそこまでベタなギミックはダイニングルームに用意されておらず、六人掛けくらいのテーブルに真っ白なテーブルクロスがかかっており、蝋燭立てに三本のキャンドルが立って幻想的に炎を揺らめかせているだけだった。それでも十分凄いけど。いつもはこんなの立ってないよ、と山川さん改め紫さんは笑う。なるほど、だとしたらここにぽつねんと座らされて料理を待ち、一人無言で食べ続けるのはきついかもしれない。何の儀式だって話になる。隣接するリビングが、家一軒建ちそうなほど広くて背中側が寒々しくどうにも落ち着かないし、さらに、振り向いた視線の先に裸婦を描いた油絵が飾られているんだが、それがまあ写実的で、アンニュイそうに横たわっている彼女のだるい視線が私を射抜き続けておりそれもまた気にかかる。貧乏人には向かない食卓であろう。紫さんはそんな私を眺めて、眼鏡の奥で優しく微笑むのみで、駿さんによって前菜が運ばれて来るまで私の落ち着かない時間はだらだらと続いたのだった。で、勿論、続々と登場した料理はそのいずれも美味しかったのだが、何分色々夢中だったため(テーブルマナーが全くわからず、紫さんを模倣して見よう見まねで食べていたら、途中、食べなくても良い彩りのための花を食べさせられそうになったりした)、詳細まで憶えていないというのが悲しいところで、まさに猫に小判、ブタに真珠、のび太に斬鉄剣と言うに相応しい、最大級の身分不相応を私は体現したのであった。食後、駿さんも会話に加わってきて、流れ的にそのフィアンセの話になったが、そのお相手は二二歳の音大生で、ヴァイオリン奏者として海外で何やら有名な賞を貰ったらしく、テレビにも何回か顔を出した有名人だそうな。というか、小学五年生にとっての大学生とか社会人っていうのは、それだけでも遥かに遠い存在で、挙句結婚となるともう全く想像だに出来ない世界だというのに、さらにそこにセレブリティまで加わると手の付けようがないとしか言えない。平然とそんな中で暮らしている山川兄妹と私が、同一言語を介してコミュニケーション出来ていることが奇跡的に思え、眼鏡の文学少女山川さんだったはずの紫さんは、本質を知れば知るほど遠くに行ってしまうように感じるのだった。まあ、そんな思いをひた隠し、駿さんには、おめでとうございます、是非幸せになってください、とお祝いの言葉をかけ、あんまり遅くなる前に帰らないとね、車で送ってあげようか、というありがたい申し出を丁重に断り(ガレージからやたらと胴の長い黒塗りの車が出てきたらアレだったので)、普通に玄関先で二人と別れることにした。今日はお招きいただいてどうもありがとうございました、と洒落たセリフでぺこり。いえいえどういたしまして、また遊びに来てねという紫さんに笑顔を返し、私は山川邸を後にした。庭にいくつもランプが燈っている。凄いもんだ。夜道の一人歩きは少し怖かったが、変質者もガキにまで手が回らぬほど忙しかったのか、無事帰路を踏破し、懐かしの我が家へ戻ってまずその玄関の狭さに溜息が出た。これでもうちの父が日本の屋台骨を支える一般的サラリーマンをこつこつと勤め上げ、頑張って頑張り抜いた末に建てた一戸建てだ。文句など言えるはずもない。裸婦と目が合って仰天する恐れも無いし。あ、そういえば、駿さんが勤めてる店の名前を聞きそびれた。
さてさて、その後も驚くべきことに何度か山川邸の夕飯に御呼ばれする光栄に預かったことを特筆しておこう。駿さんが遊びに来る時に私が呼び出されるのは恒例行事(紫さん曰く生贄)みたいになって、その内一度は駿さんのフィアンセの美優子さんも来ていた。美優子さんは名前の通り美人でとても優しくて、人間、皆がこのくらい名前に忠実に育ったら、平和で素晴らしい世界になるんじゃないか、と一瞬そんなことまで本気で思ってしまったが、紫さんが紫色になるので、やっぱりそれは無しでお願いしたい。だって、私の鈴桐なんて何になるんだ? 音通り竜胆になればいいけど、桐で出来た鈴になったりして。いやいや、だから名は体を現さないんだってば。でまあそんな折、このお屋敷に招かれるのは極めて親しい者だけで、今のところ家族以外では私と美優子さんしか入ったことがないの、とか何とか言われて、すげー、私、婚約者なみの待遇だよ、いつの間にこんな熱い友情が育まれたんだろう、うひゃひゃ、なんてかなり照れ臭い思いをしたりもした。紫さんのご両親に謁見する機会も一度だけあって、予想通りというかなんと言うか、恰幅の良い壮年男性とうちの母より遥かに若そうな綺麗な女の人が出て来て、あー、なるほど、元は愛人さんなのかな、と、漫画で仕入れたお金持ちの男女関係の典型的パターン情報を当て嵌めてみたりしていたが、無論何の根拠も無いし、失礼極まりない行為だ。これからも紫と仲良くしてやってください、とか言われて、はい、是非こちらこそ、と答えたは良いが、紫さんは都内の名門私立女子中学校を受験し、それに合格し、私と中学が別々となってしまったのと同時期に、例の新古書店に顔を見せなくなり、あれよあれよと言う間に疎遠になってしまった。ぐうの音も出ない。
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