小説版・秋吉鈴桐の受難
今迫直弥
第1話
漫画ばかり読むと馬鹿になりますよ、と子供の頃から常々言われて育ったが、どうやらそれは本当らしい。私はその警告通り、中学一年の春に現実を見失い、中学二年の秋に完全な馬鹿になってしまった。これ以上無いほどの漫画馬鹿に。
小説が芸術と娯楽の境界領域にあり、絵画が芸術の領分にある(個人的な見立てだけれども)というのに、その両者の形質を受け継ぐ愛息であるはずの漫画が世間的に如何わしい評価しか受けていないことが私にはどうしても納得出来ず、挙句に少年ジャンプを没収するくせに図書室に手塚治虫の『ブラックジャック』が平然と置いてある、学校側の不条理で歪んだやり方を目の当たりにした小学校四年生の時分から、私はもう意地になって漫画ばかりを耽読するようになった。
毎日放課後に残って図書室で一人黙々と本を紐解く眼鏡の文学少女なんかよりも、学校では時世の話題を逃さず活発にお喋りに興じ、家に帰ってから暇を見つけて近所の新古書店で片端から漫画を立ち読みするという私のスタイルの方が健康的に見えるらしく、先生からの評判もそれほど悪くなかった。何しろ文学少女が大人びた優等生タイプでいながら友人の少なそうな孤高のオーラを放つものだから、丁度全国的に話題になり始めたいじめ問題のせいで生徒同士の交友関係にやたらとナイーヴになっていた教育者としては少しでも全体から浮いている子を見ると心配にならざるを得なかったらしく、「山川さんもみんなの仲間に入れてあげてね」と担任がしきりに訴えてくるくらいだった。正直な話、子供のグループ事情なんてのは大人の介入でそう簡単に変移するはずもなく、山川さんは山川さんで疎外されているわけでなく進んで独自の地位を築いているわけだから尚更それは無理というもので、この逸話は漫画ばかり読んでいる私の方が本ばかり読んでいる彼女より安心して見ていられる人間だったということを実証する以上の熱い展開は決して見せない……はずだった。外向性こそが世間で一番求められるものだからそれさえしっかりしとけば漫画読んでようが煙草吸ってようが構いやしないよ、という攻撃的な意見をぶっているわけでなく、少なくとも私に関して言えば、かなりの漫画読みだったけど可もなく不可もない一生徒という位置付けで、小学校の中では全てが並程度の「没個性ちゃん」以外の何者でもなかったと言いたいのだ。
ああ、違った。舌の根の乾かぬ内にすかさず言い足しておくが、読書感想文の時だけは例外で私は個性の塊だった。毎年夏休みの宿題として課される鬱陶しいそれは、おそらく活字離れの深刻な子供達に本を読む習慣を付けさせようという魂胆から始まっているのだと思うが、行政に定められた益体も無い課題図書を無理に読まされるのでは、トラウマにこそなれ、読書の楽しさを見出すことは絶対に無いと思われる。とまれ、小学校三年までは律儀に図書館で借りてきたその一冊を読んで、「ジョンがお婆さんにサーカスに連れて行ってもらって、急にピエロの役をやらされることになるのが面白かったです」などと当り障りの無い子供らしい雑文でしこしこ四百字詰め原稿用紙を埋めていた私だが、漫画に目覚めた四年時には、当てつけのように岩明均『寄生獣』に向けての熱い思いを書き散らかして、その結果、山川さんと仲良くするように勧めて来たのと同じ人間から、今度は厳重な注意を受けた。その太った三〇代の女性公務員曰く、
「秋吉さん、これは、読書感想文なんだから(ドクショのショにアクセントを置いていた)、きちんとした本を読んで感想を書いて来て欲しいな。この『寄生獣』ってのは、漫画でしょう? あなたの文章から、これが面白い漫画だってことは非常によく伝わってきました。けどね、他の皆はちゃんと、頑張って本を読んで来てるの。一人だけ漫画だと、ずるいな、とか、思われちゃうでしょ」
とのことで、私はここぞとばかり、烈火の如き怒りっぷりで、
「きちんとした本とは何か?」
「どうして漫画ではいけないのか?」
「表現手段が異なるものの、作者の精神世界を提示するという意味では目的の一致している小説と漫画の間で、ジャンルの別を理由に優劣を論じるのは筋違いではないのか?」
というような意味合いのことを当時持ちうる限りの語彙を使って反駁し、松木本という変わった苗字のその担任を唖然とさせた。松木本は、薄い耳たぶにぶら下がっている銀色のピアスに触れながら、物分かりの良いのか悪いのかわからない曖昧な笑顔を浮かべ、秋吉さんの言うことも尤もだけれど、と一応は私の言い分を認めた(ふりをした)上で、
「不合理でも、ルールはルールだから、仕方ないわ。ここは涙を飲んで、納得してもらうしかない。秋吉さんならわかると思うけど、そもそも学校っていうのは、勉強をするところ、というよりもむしろ、そういうルールに画一的に従えるようになる我慢を学ぶところ、という側面の方が強いの。まあ、だからこそ勉強が嫌いになって反発する子も現れるわけで、これも良し悪しだと思うけどね。現場がどれだけ苦労するか、上が知らないからこういうことになるのよ」
と、まるで同僚にでも愚痴るように溜息混じりにそう言った。後から考えてもこれは実に巧妙で、私は先生を論破出来たという充実感からガードが甘くなるし、まるで自分を一人前の大人と見なして話し掛けてくれるようなその口調と内容に付け上がるし、で、結果として口車に乗せられて誰だったかシートンだかムートンだかの伝記を読んだ感想を一週間後に再提出するという完全なる敗北を喫したのだった。勝負に勝って試合に負けたという形をとらされたわけで、まさしく恐るるべきは、決して長からぬ(かといって短からぬ)教師生活の中から巧妙に編み出された問題児対策、通称『松木本マジック』であるのだと、ここに声を高らかに喧伝しておきたい。とはいえ、担任の変わらなかった次の年、五年一組へと進級した秋吉鈴桐こと私はリベンジに燃えていたわけでもないのに懲りずに今度は萩尾望都の『ポーの一族』への論説文じみた作品を書き上げて提出して再び突き返され星新一のショートショートでも良いから何か読めと言われて妥協し『きまぐれロボット』について、のたのたとだるい感想を書く羽目に陥り、雪辱を期して挑んだ(間違いなくこの時は意識していた)翌年、三度目の正直とばかり六年一組担任松木本昌子に献上した最高傑作『幻想の夜空に向けて~松本零士『銀河鉄道999』を読んで~』が何やら不穏なほど好意的に受け止められ、市の教育委員会で児童の芸術への感受性に関する議題(詳しい話は良く知らない)の際に取り上げられるという破格な扱いでもてなされたことにより、足掛け三年に渡った対松木本戦争を大勝利という最高の形で締め括ることが出来たのだった。
ちなみに、私が権威層を相手取って漫画の素晴らしさを伝えるべく孤軍奮闘していた頃、文学少女山川さんは、本の虫の地力を見せ付けて、三年連続で読書感想文コンクールの学校代表に選ばれ、特に最後の年の『死の本質を探る~山口雅也『生ける屍の死』を読んで~』は全国大会で最優秀賞に輝き三学期の始業式か何かで壇上に呼ばれて賞状とえらく豪華な粗品まで貰い、学校中の皆から羨望の眼差しを浴び、眼鏡の奥で目元を若干赤くしながらはにかむ様は、女の私から見ても可愛いなあ、と羨ましくなるほどで、まあ、きっとそうやって羨望の対象を容姿の方にすり替えようとしていたのだけれど、要するに私はそんな彼女が普通に羨ましかったのだ。大体『生ける屍の死』って推理小説じゃん、えんたーていんめんと作品じゃん、もっと文学性に富んだ芥川龍之介とか森鴎外とかドストエフスキーとか三島由紀夫とか読んで書いたなら納得出来るけどそんなのありかよ、だったら私も綾辻行人か赤川次郎で書かせていただきますわよ、乃至は『ロードス島戦記』でさあ、なんてぐちぐち執念深く嫉妬心剥き出しにクレームを垂れることも可能だったのだけれど、社交的で溌剌なお嬢だった私はぐっと我慢。実際、後述するが、山川さんとは仲が良かったから、凄いね、やったじゃん、その箱の中身何だろうね、重いね、広辞苑かな、わかった鉄アレイだ、と一頻り恒例の盛り上がり方で祝福したものだった(粗品は大方の予想通り現代用語事典だった)。
だいぶ脱線したが、このように読書感想文で漫画を読んで来ること以外は、ごくごく普通の小学生として学校中の誰からも認識されていた私は、その胸の奥にオタクも顔負けのマニアックな知識を隠し持ったままで、時折「秋吉さん、何か面白い漫画知らない?」とクラスメイト(女)に尋ねられても、『りぼん』に巻頭連載されているような超メジャー作品を挙げてお茶を濁し、「秋吉、何か面白い漫画しらねえ?」とクラスメイト(男)に尋ねられても(勿論、こちらはごく稀だ)、『ジャンプ』の新連載で見込みのありそうな作品をピックアップするに留まり、間違ってもジョージ秋山の『ザ・ムーン』などとは答えなかったから、私と漫画を強く結びつけて考える人は、漫画への熱意の片鱗を嫌と言うほど見せ付けられた松木本先生と妙な観察力で私の漫画好きを看破した山川さん以外いなかった。
山川さんとじっくり話したのは、松木本に仲間に入れるよう言われたせいで彼女のことが少し気にかかっていた四年の六月頃だったと思うが、詰まるところ行き付けの新古書店の狭い通路で偶然出会い、眼鏡の向こうの睫毛の長いくりくりした瞳とばっちり目が合ったことがきっかけだった。その店は、入り口から入ってすぐ手前にあるレジカウンターの正面に、比較的新しい単行本やら綺麗にビニールのかけられた写真集やらが無造作に陳列された棚があって、カウンターと棚の間を通って左手奥の方に進むと、ずらりと何列にも渡って漫画本で埋め尽くされた書架が並んでおり、右手に向かうと文庫も含めた一般書籍が作者順に並んでいるという具合になっていて、鉤状に曲がった建物であるため、漫画コーナーの方が圧倒的に広かった。私と山川さんが出会ったのは、客が必ず通ることになるこのレジ前の通路で、私は普段ならそんな所は素通りしてすぐさま左手側の漫画コーナーに向かうのだけれど、自動ドアを開けてすぐさま目に飛び込んで来た、薄い黄色のワンピースを着た長い黒髪眼鏡少女の姿に、思わず足を止めたのが運の尽き、宮部みゆきの新作を流し読みしていた彼女が、ふっとこちらに視線をよこしてしまったのであった。しばし、二人とも何も言わずに見つめ合っていた。私は突然のことに硬直し、このまま通り過ぎることなど絶対に出来ない、やけに緊張感の漂う二人だけの空間に慄いており、相手の第一声を待つに任せて行動選択の自由を自ら放棄していたのだが、もしかすると相手も似た様な状況かもしれないと考えるだけの冷静さは持ち合わせていたらしく、結局は自ら有り触れた挨拶で口火を切った。
「あ、こんにちは、山川さん。こんなところで逢うなんて、奇遇ね」
空恐ろしいほどの棒読みであった。数秒間の間が空いているのに、たった今気付いたように「あ」とか言っちゃう辺りが年齢一桁の浅はかさであるのか、それとも私自身に付き纏う馬鹿さ加減に故あるのか、一考の余地はあるものの、当の山川さんは私の当惑、困惑、ついでに魅惑をまるで意に介していない素振りで、穏やかに体ごと振り向いて、今にもごきげんようとか言い出しそうな育ちの良い会釈を返し、
「こんにちは。秋吉さんは今日も漫画を?」
と、何気ない風を装いながらとんでもない爆弾を投げつけてきた。こいつはノーガードの打ち合いをご所望だ、とリングに上がった矢吹某のような男らしさで瞬間的に悟ったが、残念ながら私には誇るべき拳も燃やすべき小宇宙の輝きも二二世紀から来た猫型ロボットが未来デパートで購入して来た地球破壊爆弾も無いので、丸っきり丸腰のまま狼狽と驚愕に顔面が変形するのに任せた。山川さんは、あだち充漫画のような爽やかなタッチ(洒落ではない)で私の反応を温かく見守ってくれたが、それはつまり彼女自身私にどれほどの打撃を与えたのか全く自覚していないということの証左でもあって、何だよこいつ天然かよ、可愛いなあずるいなあ、とまたぞろ思考の蛇をにょろにょろ暴走させていると、
「あの、秋吉さん?」
と、流石に心配の声がかかった。そんなにヤバそうだったのか。
「いや、うん。……今日も、ってどういうこと?」
今更しらばっくれるんじゃねえよ、と心の中の天使さんが口汚く罵って来たが、知ったことか。私は漫画オタクであると誰にも知られるわけにはいかないので、隠蔽のためなら悪魔にでも魂を売ってやるぞという猛烈な覚悟でそう言った。
「うん、だって、毎日漫画本のコーナーにいるみたいだから」
ぐへえ、そいつはきついぜ、と二昔くらい前のアニメの主人公がトラブルに巻き込まれた瞬間に上げそうな呻き声を再生させながら、私は早くも悪魔との契約の打ち切り時が来たことを察した。毎日て。まあ、そりゃ確かに毎日来てますよ。ここ数日間は『パタリロ!』ですよ。でも、私が毎日ここに来てること知ってるってことは、あんたもここに毎日来てるってことになんないか?
「山川さんも、毎日来てるの?」
だとしたら相当、隠れてこちらの様子を窺うのが好きだということになるんじゃないだろうか。だって、迷子になるほど広い店内でもあるまいし、流石の私も知っているクラスメイトの姿が目に見える範囲にそれも毎日あれば気付いただろう。こちらとしても腰を据えてじっくり読書しているというわけではないので、疲れたらぐるっと首を巡らせるくらいするし、何より巻と巻の境目では漫画本から顔を上げざるを得ないのだ。その時に山川さんの視線に気付いた記憶は残念ながら無いのであって、宇宙人のアブダクションによる記憶操作でないなら、そういう事実も無いということになるのであって、それでも私が毎日漫画コーナーにいることを看破したってことは、毎回隠れてこっちを見てたってことになるけどそれはそれでどうなのよ、と。当時はストーカーという言葉がまだ広まっていなかったけれど、だからって罪が軽くなるわけじゃないし、私はこの娘につけ回されてたんだろうか、むしろ私が山川さんをつけ回す方が、外見から担うべき役割にぴったりに見えるがその辺はどうなのだろう、読者的にはありなんだろうか、と、何故か物語の登場人物の視点で外に問い掛けたりした。
「ううん。私の家、逆の方だもの。一週間に一度来るだけ。そのたびに全然違う長編漫画の中盤読んでたから、ああ毎日来てるのかな、って思ったの」
何その名推理、ふざけてるの? なるほどと納得すると共に、あら、私も三日に一度くらいストレスの堪るお稽古事の気晴らしにふらっと立ち寄るだけよ、ほほほ、いつもはお琴、お花、お茶、ととっても忙しいもので、何せ華族ですから、とでも切り返しておけば、漫画フリークであることなど簡単に隠し通せたな、と気付き、凄い勢いで虚脱した。『山川さんも、毎日来てるの?』とか訊かなきゃ良かった。悪魔との契約は履行しておいた方が利口だった、とか上手いこと言ってみたり。
「何だー。でも、いたんなら声かけてくれれば良かったのに」
「うん。声かけようかと思ったけど、何かいつも、近付き難いオーラがあったから」
オーラ、ね。そんなに禍々しかったのか、私は。山川さんは、本当に困ったようにぎこちない笑みを浮かべていて、それがまた上品で可愛らしくて、そうか、この人は要するにうちのクラスの誰にとっても高嶺の花、みたいな位置にいる娘なんだ、と私にはわかった。私達とはそもそもの次元が違うのであるから、同じグループになど属しようがない。月とすっぽんとまでは言わないが、まあ、ベジータとヤムチャくらいの違いがあるのだ。そんな二人が相対して、自然にタメ口で会話していていいのかしらん、と思ったものの、逆に他のクラスメイトに対する優越感のようなものが湧いて来たので私は、このお姫様と楽しく会話させて頂くことにした。
「まあ、漫画読んでる時は凄い集中してるからね。戦闘力の弱い人は、そのオーラに近付いただけで死んじゃうし」
「嘘。死んじゃうの?」
「いや、勿論嘘だけど」
「何だ。びっくりした。お兄ちゃんと同じ体質の人が他にもいるのかと思った」
「嘘! そうなの?」
「いや、勿論嘘だけど」
何だよ、もう! カマをかけたり冗談を言ったり、随分と日本語を巧みに操るなあ、翻弄されっぱなしだよ。二人でくすくす笑いながら、入り口の通路を塞いでいるという店側の不利益も顧みず、私達は他愛の無いお喋りに興じ、最後に私は自分が漫画オタクであることを他の皆に秘密にしてくれるよう頼み、山川さんはその代わり、ここで自分と逢ったことを山川さんの両親に秘密にしてくれるよう頼んだ。何でかというと、早めに塾に行って自習室で勉強する、と言いながらここに立ち寄っているらしく、つまり彼女は四年生にして塾通いということなのだ。凄いな、勉強熱心だな。私が山川さんの両親とお話する機会に恵まれるところなど想像も出来なかったが、だからこそ易々と了承し、塾に向かうために店を出る山川さんを力いっぱいお見送りし、レジにいる若いバイトの兄ちゃんに苦笑されつつも、究極に晴れやかな気分で胸を打ち震わせたのであった。これが、私と山川さんの深い因縁が始まった一日目でもある。
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