漆の段【鉄火場の六華】 1
かかんっ! かかんっ!
さくらは去り……。
喜三は大怪我を負って……。
ふたりの仲は引き裂かれてしまいました。
まさしく悲恋。
このお話は、こうして終わるのでございます。
……と、物語を締めてしまうのは。
ぜったいにいやだ、と考える女がひとり、おりました。
そう、喜三の妹、御伽衆が元・六號。
烏合六華で、ございます――。
●
六華は怒っていた。
怒って、泣いていた。
「死んだら殺すからね、ざこざこ兄さま!」
怒鳴る先は、共用土間で寝かされている喜三だ。
「……なんでこう、厄介な患者ばかりなのかね、この長屋は」
医者が顔の汗を拭きつつ、ぼやく。なんとか治療を終えたのだ。
喜三の全身には包帯が巻かれ、さながら即身仏のような見た目である。
「いやはや。妖怪だの半妖だのはよくわからないけれど、さすがは名うての歯車使い、烏合喜三だ。気力がすさまじいのだろうねぇ、これだけの傷なのに、死ぬ気配はないよ」
「あたりまえでしょ! ざこざこ兄さまが死ぬわけないじゃん!」
「情緒がめちゃくちゃだねぇ、お嬢ちゃん」
医者は半目で六華を見て、首を横に振った。
「だが、重傷は重傷だよ。あばらが折れていたし、臓腑も傷ついている。半年は安静にさせること。脂っぽいものは食べさせず、粥と煮込んだ野菜、崩した豆腐などを少しずつ舌に載せて呑ませること。いいかね?」
「だってさ、兄さま」
「……肉も魚も食うぞ、俺ァ。食わねえと力が出ないからな」
布塗れがそんなことを言うものだから、医者は完全に呆れ顔になった。
「もう意識が戻ったのかい。呆れた回復力だ。きみの肝で新薬を作りたい気分だよ」
「ハ! 鬼の肝だ、さぞかし妙薬になるだろうよ。……いつつ」
笑ったせいで、痛みが来たらしい。
「そんで、六華。恐山のぼけは、どこだ」
「先生になんてこというの! 兄さまのばか! 先生が止めてくれなかったら、兄さま死んでたんだよ!?」
「いってえ! こら、腹を叩くな、殺す気か!」
医者は呆れ顔を真顔にして、帰る準備を始めた。
「もうねえ、人類みんなきみみたいに頑丈だったら、もう少し私の仕事も減るんだろうけれどねぇ。ああ、やだやだ。これだから入道長屋の患者は……」
ぼやいて立ち上がる医者に、六華が声をかける。
「ねえ、お代はいくら?」
「奇縁堂先生が先払いで払ってくれているよ。気前よくね。おかげさまで、私は明日から伊勢旅行に行けるって寸法さ。あ、しばらく怪我するなよ、私いないから」
薄情な医者が出て行って、すぐに入道長屋の住民がどやどやと共用土間に入ってきた。
外から様子をうかがっていたのだろう。
「うひゃあ。喜三、死にかけじゃねえか。墓は俺が掘るから、先払いで墓掘り代くれよ」
「アンタ、さくらちゃん逃しちゃったんだって? ばかだねえ」
「うわ、土間がぐちゃぐちゃじゃねえか。ま、かまどが動くならいいや、飯炊くべ」
自由気ままに、米を炊いたり、汁を煮たり、喜三をからかったりし始める。
そんな光景を繰り広げるものだから、ささくれ立っていた喜三の心も、少し落ち着いたようだった。
(……よかった。恐山先生と兄さまには、喧嘩してほしくないもん。)
六華は、ほっと息を吐く。
「兄さま。恐山先生だけれど、いま、軍部の詰め所に行ってる」
「詰め所だァ? ……さくらと、それから一號の情報も集めてくれてんのか」
「そう。頭も回ってきたみたいだね、ようやく」
「ああ。……はぐる丸は、どこだ?」
「部屋で寝かせてる。全力でぶん回ったあげく、接続してた帷子が砕かれたんだから、そりゃあ疲れるって」
「アイツにも無理させちまったな。くそ」
喜三は両手を力なく持ち上げて、さまよわせた。
六華が手を取り、握りしめる。
がっしりとした手のひらが、弱々しく握り返してきた。
「……六華。俺ァ、さくらに嫌われちまったのかなァ」
珍しく――ほんとうに珍しく、弱々しい語調。
一瞬、ぎょっとした六華だが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「そうだね。自業自得だよ」
「手厳しいなァ、おい。笑いながら言うことか?」
「だって、さっさと言えばいいこと、なーんも言わずにいたんだもの」
「あー……」
喜三が口ごもる。
「だってよ。なんか、言いづらいじゃねえか。さくらを追いかけていた軍人が、俺の既知だって知れたら、さくらが……出て行きそうで。しかも、俺らの、御伽衆のやったたった一つの任務が暗殺なんだぞ。そんな後ろ暗いこと、言えるわけねえだろ」
「違う違う。まあ、それも、さっさと言っちゃえばよかったのにー、って思うけど」
六華は嘆息した。
(兄さまって、ほんとうに……色恋沙汰には、鈍いよね。自分の胸のうちについてすら、気づけないなんて。)
だからこそ、義妹である六華が言うのだ。
「あのね、兄さまはさくらさんに好きだって、そう言えばよかったんだよ。知らなかった? 兄さま、さくらさんのこと、大好きなんだよ? 惚れちゃってるんだよ、とっくに。好きだから、そばにいたい。好きだから、知りたい。そういうことだよ」
喜三は黙った。ややあってから、やはり喜三らしくない、細い声で言う。
「……惚れるってことが、どういうことか。俺にゃあ、よくわからねえんだ。うまく言葉にできねえ。だけど、俺の胸の内のこの思いは、ほんとうにその……慕情なのか?」
「慕情に決まってんでしょ。ていうか、みんなそうだよ。だれだって……好きすぎて言い表せないから、仕方なく、よくある言葉に言い換えてるだけ。ほんとうは『好き』なんてたった二文字じゃ伝えきれないくらいだもん」
義兄は苦笑した。
「えらくハイカラなせりふじゃねえか、六華」
「恋人が講談師だもーん」
「はん。俺ァ認めねえぞ、恐山先生が恋人だなんて」
「なんで? 返答によっては腹ァ突くぞ、ざこざこ兄さま」
「いや、兄貴らしいこと言いたかっただけだ。恐山先生に不満はねえよ。腹は突くな、死ぬ」
「ふふ。兄さまのばーか」
ようやく、兄にも調子が戻ってきた、と六華は笑う。
「そんじゃあよ。そろそろ、次の話をしようか。なあ、恐山先生」
喜三が視線を向けた先には、ちょうど、草履を脱いで畳に上がろうとしている恐山がいた。
「やあやあ、喜三クン。起きたようでなにより。頑丈だねえ、きみは」
「それだけが取り柄だ。……すまんかった、先生。止めてくれて、ありがとう。おかげで助かった」
「うん。そう言ってもらえるなら、止めたかいがあった。……ただねぇ」
恐山が疲れた顔で布団のそばに正座した。
「ちょっと、よくない流れだよ。さくらクンのことだけれど――なあ、喜三クン。大江戸歯車に変わるものを作る計画を、聞いたことはあるかい?」
●
もちろん、ある。
(祭りに行く前に、さくらとその話をした。)
喜三はうなずいた。
「躍起になって代わりになるものを探しているっつう話だろう」
「そうだ。……そして、一號クンは見つけたんだ」
恐山は真面目な顔で言った。
「結論から言うと――このままじゃ、さくらクンは死ぬ」
「……あァ? なに言ってんだ、てめえ」
「兄さま、口調」
悪い、と頭を下げる。腹が痛んだ。
「知り合いの将校に、無理を言って事情を聞いて来た。……この話をするにあたって、まずは日ノ本三大妖怪が一体、金色天狗の話をしよう」
「すげー強い天狗だろ。さくらの……」
言いよどむ。
母胎に因子を仕込んで生まれたとはいえ、『さくらの父親』とは言い難い。
「強いだけじゃない。金色天狗は、もともと神皇家の血族なんだ」
「……そうなのか。で、それがなんだ?」
「ううむ。一席ぶってやってもいいけれど、小生の講談は有料だからね、手短に」
恐山は指で、とんっ、ととんっ、と畳を叩く。
「金色天狗は非業の死を遂げたとある神皇が、死後に化けた姿だと言われております。神皇が化け物に転じた姿、それゆえに金色天狗は古の大妖怪、日ノ本三大妖怪に数えられているのでございます――と。文字通り、神が祟った姿なわけ。妖怪っていうか、ほぼ神様だ」
「ハ。読めてきた。つまり、あれか。一號は徳川将軍家由来の大江戸歯車じゃなくて、神皇家由来の巨大歯車を作りたいってことか」
「そうだ。察しがいいじゃないか、色恋以外なら」
「うっせえな」
図星だからこそ耳が痛いのだと、いまならわかる。
「……ちょっと待って、先生。それってつまり、さくらさんとぼたんさんは……」
おそるおそる声を潜めた六華に、恐山はうなずいた。
「さくらクンと姉君のぼたんクン……ああ、ぼたんクンは二階のおばちゃんが面倒を見ているよ……は、おそらく神皇家の遠縁か子孫か……ともかく、その血族に金色天狗の因子を埋め込み、産ませた娘たちだろうね」
つまり。神皇家の遠縁。
もっといえば、神の子……というわけだ。
「水戸の藩主が、彼女たちを作り上げながらも、幕府に渡さず秘匿したのにも納得がいく。あまりにも不遜なおこないだからね」
「あいわかった。さくらは神皇の血筋だ。そこまではいい。……だが、そこから先がわからねえ。どうしてさくらが死ぬことになる? さくら本人を殺して憑かせたところで、金色天狗そのものじゃねえ以上、代わりの歯車にはならんだろ」
超人兵士として生み出された喜三だから、わかる。
喜三は人間離れした頑丈さと有り余る気力を持つが、歯車を動かすことはできない。
歯車に憑くはぐる丸に気力を捧げて、回してもらっているだけだ。
生き物は、生き物。霊ではない。
恐山はうなずいた。
「そこだよ。さくらクンたち花天狗は、御伽衆とはまったく別の思想によって作られたそうだ。戦士としての強靭さではなく、霊力、妖力の強さなど、特定の基準を超えるよう、特殊な調整にしてね。つまり……餌として上質になるように、と」
「……あ?」
「兄さま! 恐山先生を睨んだって仕方ないでしょ!」
恐山は手を挙げて六華を制した。
「天狗の血筋に繋がる上質な半妖の巫女を捧げて、金色天狗の封印を解き……解放する代わりに、歯車を回してもらう。そういう筋立てだそうだ」
「馬鹿げてる」
喜三は吐き捨てた。
「怨霊だぞ。巫女を食ったところで、大人しく回ってくれるはずがねえ」
「小生もそう思うよ。だが……ある将校が言っていたよ。留学帰りの夢見がちな隊長が独断専行ばかりで困る、とね。金色天狗歯車を作る計画は、どうやら一號クンの暴走らしい。軍港の一號部隊の洋館は、ほとんど治外法権状態だと」
「はん。故意に見逃しているくせに、よく言うぜ。うまくいけば褒めてつかわす、だめなら独断専行の罰を与える……ってか。いつの時代も、お偉方は同じことばっかりしやがる」
喜三は六華に視線を向けた。
「六華。帷子、直せるか」
「……帷子自体は、うん。直せると思う。はぐる丸は傷ついてないから。ツクモギヤ本体が砕けたりすると、さすがに直せないけど」
そうか、とうなずく。
「あと、武器もいるなァ。あの柳生垓兵衛とかいう女さむらい相手じゃ、蚤の市の喧嘩煙管は役に立たねえ。やっぱり偽物だったのか、くそォ、高かったのに……」
「あの、ざこざこ兄さま? いちおう言っておくけど、兄さま、全治半年だからね? わかってる?」
「俺ァ妖怪だぞ。こんな傷、肉食って半日寝ればふさがるっての」
もちろん。生き物は、生き物だ。
これは、ただの強がりである。
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