肆の段【入道長屋】 2



 長机から離れ、かまどの前に戻ってきた恐山に、六華が鍋をかき混ぜながらおもむろに言った。


「ところで、恐山先生。ひとつ、お願いがあるんだけど」

「なんだい、六華クン」

「朝方、一號が来たらしいけど」


 じっとりと半目で見られて、恐山は目を逸らした。


「喜三クンから聞いたのかい」

「うん。兄さまが寝る前に、私だけ起こして、教えてくれたの。先生に情報収集の協力も求めたとか。兄さまが無理を言ってごめんなさい」

「いやいや、小生にできることならなんでも――」

「なんでもはしないで。それが、あたしのお願い」


 六華がまた、ぐるりと鍋をかき混ぜる。


「一號は、あたしたち六人の中で、いちばん忍びらしいひとだったから。堅気の先生相手でも、むちゃくちゃするかもしれない」

「ほう。むちゃくちゃとは、また穏やかじゃないねぇ」

「お願い。恐山先生には、危ない目に遭ってほしくないの」


 鍋を見つめながらそんなことを言う。


(……ほんとうに、優しい子だ。)


 恐山はとても優しい顔で、六華の肩を叩いた。


「安心しなさい。無論、引き際はわきまえているとも。小生は喜三クンのように力強くはないけれど、世渡りは上手なんだ」

「自分で言っちゃうの? そういうこと」


 呆れ顔で、六華は汁を碗に注く。魚が多めだ。


「はい、先生のぶん」


 茶碗を渡されたので、恐山は破顔した。


「六華クンの、そういう素直になれないところ、とてもかわいいねぇ」

「もう! ざこざこ先生のばか!」



 ●



 昼食を終えた喜三は、さくらに長屋を案内する運びになった。

 六華はさくらの生活に必要なものを揃えに市場へ行ったし、恐山は講談の仕事で寄席小屋だから、祭りの期間は仕事のない喜三がやれ……と、六華に押し付けられたのである。


(あいつめ。)


 と思うが、事実、暇である。案内するのも、決していやではないし。

 とはいえ、あまり紹介する場所はない。所詮、縦に長いだけの長屋だ。

 共用の設備を歩いて回り、場所を示すだけで済む。


「土間と一緒で、かわやも共用だ。一階の裏手側。共用部分の掃除や整備は恐山先生が出入りの業者に頼んでくれるが、部屋前の廊下は各部屋の住人がやる決まりだ。つっても、軽く掃くくらいだけどな」

「あの、喜三さん」


 おそるおそる、と言った様子で、さくらが上目遣いで喜三を見る。


「ちなみになのですけれど、お風呂は……」

「ねえ。長屋だからな。一階で沸かした湯を桶に入れて部屋まで運んで身体を拭くか、近所の浴場に行くか、どっちかだな」


 ちら、と喜三はさくらの髪を見た。


「髪染めが落ちるし、顔も隠せねえ。大衆浴場はやめたほうがいいかもな」

「そうですか。では、体を拭くくらい、で済ませるほかないのですね」


 しゅん、とうつむく。

 かなり無念そうである。


「……アンタ、そんなに風呂入りてえのか。風呂好きか?」

「え? あ、その……はい。もともと、お風呂は好きなのですけれど」


 少し恥ずかしそうに、さくらがうなずいた。


「昨日、服の採寸をする際に、水で体を拭かせてもらったのですが、今度は温かいお湯に浸かりたくなってしまって。ぜいたくな悩みだとは、わかっております」

「そうか」


 喜三はさらりとうなずいて、言った。


「じゃあ、風呂借りるか。ひとり用のやつ」

「……はい?」


 首をかしげるさくらをよそに、喜三はすたすたと歩いて、入道長屋の横の路地に入った。

 さくらが慌てて追いかけてくる。


「あ、あのっ、借りられるのですか? ひとり用のお風呂って……」

「あんまり期待するなよ、五右衛門風呂だから。近くの寺で、貸し出しやってんだ」

「それって、お金がかかるのではありませんか?」

「名目上は無料だが、なぜかお布施をしないと借りられないようになってる」


 ぴたり、とさくらの足が止まる。喜三が振り返って首をかしげた。


「どした?」

「だめです。行けません」

「なんで」

「私、お金がありませんから、借りれません」


 喜三は嘆息する。


「心配すんな。俺が立て替えておく」

「でもっ」

「いいんだ。言ったろ? 俺ァもう、アンタの歯車に巻き込まれる覚悟決めてんだ。それと同時に、アンタは俺の歯車にも巻き込まれてる」


 そう言うと、さくらは口をもにゅもにゅと動かしたあと、礼儀正しく頭を下げた。


「では、お言葉に甘えて。お風呂、入らせていただきます」

「おう。たっぷり時間かけて入れ」


 連れて行った先の神社で、なまぐさ坊主に少なくない量の布施を渡して、庭に建てられた風呂小屋を借りる。

 小屋は脱衣所と浴室だけの簡素な作りだ。

 風呂釜の下には歯車式加熱器が取り付けられており、気力を込めれば湯が沸く仕組みである。

 壁面、少し高い位置に格子窓が嵌められていて、青い空が覗いている。


「外からかまどの歯車に気力流して焚く必要があるから、俺ァ外にいる。湯加減は窓から声かけてくれ」

「なにからなにまで、お世話になります」

「いいんだ。やりたくてやってんだからよ」


 喜三は笑って小屋を出て、引き戸をしっかりと閉めた。

 歯車式加熱器のある風呂小屋の裏に回る際に、はぐる丸がぼそりと呟く。


『おまえ かっこつけすぎ』

「うっせ」



 ●



 湯に肩まで浸かると、逃げ出してからずっと緊張していた心根がほどけていくようで、なんだか涙がにじみそうになってしまって。

 ほう、と。さくらはとろけるような息を吐いた。


「喜三さん」


 格子窓の外に、声をかける。


「なんだ? もうちょい熱い方がいいか」


 壁一枚隔てた向こう側で、喜三が歯車かまどに気力を流してくれているのだ。


「いえ、ちょうどよいです。温かくて……なんだか、喜三さんに抱きしめられているみたいで、安心します」


 言ってから、この例えはあまりよくなかったな、と頬を赤く染める。


(いけません。こんな、はしたない例え。)


 最初に浮かんだ表現がそれだったので、つい言ってしまったが、言われたほうも困るだろう。


「……そ、そうかい」


 案の定、喜三は困惑の混じる声音で返してきた。


(赤面してしまうのは、私だけなのですね。)


 少し、寂しい。

 両腕で己の体を抱きしめてみると、湯の中だが、自分の小ささを自覚するようで、少し肌寒く思ってしまう。


(……というか、昨日は二度、実際に抱きしめられましたね。)


 街角でぶつかったとき。路地裏に連れ込まれ、大きな体で覆うようにして侍軍人たちから隠された。

 いま思うと、あれはほとんど抱きしめられていた。

 急なことだったので、緊迫感のほうが強かったが。

 二度目は違う。横抱きにされて東饗の空を跳んだときだ。

 あのときは、全力で抱き着いてしまった。


(こう、喜三さんの首に手を回して……。)


 自分を掻き抱いていた両手を、宙に捧げる。

 筋肉質な首筋、固い背中に腕をからませ、顔を近づけて……。


「よかったですね……」


 ぽつり、と漏らす。

 あれは、ほんとうによかったと思う。

 心臓がばくばく鳴ったのは、高さと速さのせいだけではない。

 自分の窮地を二度も救ってくれたひとの顔が、すぐそこにあって。

 体温が触れるほどに、近くに感じて。


(……私、流されやすいのでしょうか。)


 田舎から出てきて、良くしてくれた男がやけに格好良く見える、なんて。

 単純な自分に、少し不安になってしまう。


(喜三さんは素敵な方ですから、流されてしまうのも仕方ないことですよね、ええ。)


 ぱたぱたと顔を手で扇ぐ。

 口をむにゅむにゅさせて、胸の奥の熱っぽい感情を押し殺す。

 がんばって平常心を取り戻そうとしていると、


「なにがだ?」


 格子戸から、そんな問いが飛んできた。


「へ?」

「なにがよかったんだ?」


 先ほど漏らした一言を聞かれていたのだ、と気づく。


「あ、ええと……」

「そんなに風呂に入りたかったのか」


 苦笑っぽく言われると、唇を尖らせたくなる。


「いいじゃないですか。お風呂が好きでも」

「気持ちはわかるぜ。俺も仕事終わり、たまに風呂に寄って帰るからな。小うるさい妹が家で待ってなきゃ、ずっと浸かっていたいくらいだ」

「……寄って、というと、大衆浴場ですか」

「そうだ」


 風呂に入る喜三を想像して、さくらは微笑んだ……直後に、はぐる丸がいきなり新情報をぶち込む。


『こんよく なんだぞ』

「おい、はぐる丸」

「混……浴……?」


 さくらの頬が引きつる。

 いや、理屈はわかるのだ。

 江戸の大衆浴場というものは混浴が当たり前だと聞いていた。

 明機に入って海外の文化、文明に染まってきてはいるが、東饗の大衆浴場はまだ半分以上が混浴風呂だろう。だが。


(喜三さんが、裸で……ほかの女性とも、一緒のお風呂に。)


 押し殺していた胸の奥の熱っぽい感情が、かっ、と燃え盛った。


「喜三さんは、お好きなのですか? 混浴が」

「え? ああ、いや、好きっていうか、仕方ねえだろ。近所の公衆浴場がそうなんだから。好んでるわけじゃねえからな?」

『うそつけ すけべ』

「うっせ! てきとう言うんじゃねえぞ、はぐる丸!」


 さくらは風呂の中で立ち上がり、格子窓に顔を近づけた。

 高い場所にあるから、視線は届かないが、声は近く感じる。


「へえ。喜三さん、やっぱりお好きなのですね、混浴が」

「だから、ちげえって」


 そうやって言い訳するところが、怪しい。

 さくらは己の胸に燃える感情を、


(あさましい……。)


 と恥ずかしく思いつつ、勢いに任せて胸の前で手を組んだ。


「そ、そんなに混浴がお好きなのであれば……」


 頬を赤く染めあげて、上ずった声で問う。


「一緒に……入られますか?」


 言って、五秒。十秒。三十秒と過ぎたあたりで、ぎゅるんッ、とはぐる丸が回った。


『きぞう へんじ』

「お、おお……」


 驚かれてしまったらしい。それも、かなり。


「いやその、なんだ。だれかが歯車回さねえと、入れねえだろ、この風呂は」

『なんだ そのこたえ』


 はぐる丸は呆れたように言うが、さくらは「あっ」と声を漏らしてしまっていた。

 言われてみれば当たり前だ。

 すっかり忘れていたが、ツクモギヤを動かす喜三がいるから、さくらは熱い風呂に入れているわけで。

 その喜三が中に入ってしまえば、だれが風呂を焚くというのか。


(あ、ああ……。私ったら、なんてことを……。)


 恥ずかしさから、再び風呂に浸かって座り込む。


「……喜三さん。温度、上げてください」

「熱すぎるんじゃねえか? のぼせちまうぞ」

「いいですから。お願いします」

「お、おう」


 さくらは湯舟に口まで沈めて、ぶくぶくと泡を吹いた。徐々に湯の温度が上がる。


(もう、恥ずかしい……。)


 そして。さくらはのぼせた。



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