ChapterEX★ 光を失った魂

 覚醒は一瞬だった。深い所から一気に引き上げられるような感覚と共に、少女の魂は世界に定着した。


 閉じていた瞼を開くと、ガラス張りの壁に自分の顔が映った。


 肩口まで伸びる濡羽色の髪は、左のもみあげから一房金色のメッシュが混じっている。切れ長の金眼、整った目鼻立ちから大凡成人少し前の女性であることが伺えた。


 しかし、彼女にはそんなことは至極、全くもってどうでも良いことだった。


 何故、まだ生きているのか。自分としての意識があることを疑問に思うばかりで、周囲の光景や顔立ちのことなどを気にかけてはいられなかった。


 最後に思い出せるのは、血の浴槽の中に沈んだ自分の体。への字に折り曲げられた膝。右手に握ったナイフと、深い裂傷で血の溢れる左手首。


 己の意思で、大凡最も強い覚悟を持たねば死ねぬ方法で、自ら命を絶った筈だった。


 余りにも情けない、全てを置いて逃げるような選択をした。大切な人の一生を無為な自分のために縛り付ける。あるいは残される者の、その心に大きな生傷を負わせて別れる。


「そっか、失敗したんだ」


 そんな最悪の二択から選んだ後者の行動は、どうやら失敗に終わったらしい。未だ、自我が芽生えてから1度死ぬまでの確かな記憶がある。絶望と後悔と苦痛の感情は、一分も晴れる事無く彼女の胸中で濁っていた。


「目が覚めたかね」


 暗く淀んだ思考は、唐突に掛けられた声によって遮られる。少ししゃがれた、低い声だった。その主の方向へと視線を向ければ、想像通りの初老の男が立っている。


 そこで漸く、彼女は自分の置かれている状況を考えることにした。


 まず、はじめに硝子の壁と思っていたものは、少し横へ曲線を描いている。その先を辿ると、円形の筒のようなものに囲まれていることが分かった。


 壁、というより大きなガラスの筒と形容した方が正しい。部屋の隅に作られたその中に彼女は立っている。そしてそんな空間のある部屋は薄暗く、辺りには物が乱雑に置かれていた。研究室のような趣はあるが、少々器具や調度品が古風だった。


 現代の科学技術よりも数歩劣っているように見える。


「言葉は分かるか?」


「ここは、どこ」


 その問いに無言で頷いた後に、所在を尋ねる。男は然程驚いた様子もなく、淡々と手元の紙束へと何かを記述していた。


「ここは私の研究室だよ。私の名前はグレゴリー、そしてキミはユエルだ」


「ユエル」


 奇しくも、記憶にある自分の元の名前と響きが似ていたそれを、彼女――ユエルは反芻する。


「ユエル、キミを生み出したのは私なのだ」


「どういうこと、生み出した?」


 言っていることの意味が分からず、思わず眉をひそめた。確かに1度死んだのだから、生まれ変わったというのは正しい。しかし、生み出した、というはどういう意味なのかが分からなかった。


「キミは人造人間、ホムンクルス。錬金術によって人の手で作り上げられた、生き物だ」


「……」


 良い反応が思い浮かばなかったので、ユエルは何も言わずにいた。


「詳しい説明は後だ。まずはそこから出て服を着たまえ」


 グレゴリーの言葉とほぼ同時に、硝子の壁が消えた。不可思議な力、まるで魔法のようだと思いながらも、渡された質素な貫頭衣と下着を着ける。


 それから研究室を出て、少し明るい――まるで中世の古民家のような部屋に連れて行かれた。テーブルを囲む木製の椅子に座らされる。グレゴリーは更に別の部屋へと行ってしまうが、少しすると両手に陶製のカップを持って戻ってきた。


 ユエルの前へとそれを置き、自身は一口中身を啜る。どうやら注がれているのは、温かいお茶のようだった。


「すまないが、私もキミが何を飲み食いするのか分からない。気に入らなかったら口にせずとも良い」


 数度首を横に振って、カップを両手で抱えるように持ち上げる。湯気を払い熱を冷まし、口に含むと少し独特な味がした。スッと鼻を抜ける風味と、生姜に似た味が舌先で転がる。


「美味しい」


「それは良かった。飲みながらで良いから聞いてくれ」


 そう前置きをすると、グレゴリーはカップを置いて机へと両肘を置いた。手を組み、そして表情を改める。


「まず初めに結論から言う。私がキミを作ったのは、ある人物を殺すためだ」


 ユエルは、ただ静かに彼の言葉を聞いた。『殺す』という剣呑な台詞に、何処か懐かしさを覚えながら。






 ホムンクルス。


 フラスコの中の小人、錬金術によって生み出される人造の命。ユエルは幾つかそれを題材に扱った創作物を知っていたお陰で、さして苦労せずにこの技術の概要を飲み込めた。


 ただ、1つ違ったのは、魂の所在についてだった。


 ユエルを生み出した錬金術師――グレゴリーによると、錬金術によって肉体こそ構築出来たが、そこに魂は宿らなかったのだと。


 そこでグレゴリーは輪廻を巡る魂を呼び寄せ、肉体に定着させる方法を思いついた。思いついたのみならず、実行できる能力を持つ人間がこの世界に何人いるかも分からない。


 そもそも魂の存在する虚世に干渉するには、特別な儀式によって道を作る必要がある。そこから肉体とグレゴリーの思う条件に合った性質の魂を選別し、また因果に影響しないようにするには途轍も無い労力を必要とした。


 そう説明されたとて、ユエルは話の本質を半分も理解できてはいなかった。


 肉体の後に自我や心がある。ユエルは前世よりそういった説を信じていた。それが実は、魂は確かに存在し、生命の個としての有り様を決めていたという事実に驚くほかない。とは言え、1度死んだ身でこの場にいる理由はそれで説明がつく。


 つまり、ともかくとして、死後魂だけの存在となった彼女は、グレゴリーによってこの世界に召還され、人造の肉体に憑依したのだ。


 全くもって荒唐無稽な話だが、ユエルは嘘でも夢でもない気がした。自分が死んだことは自分が1番良くわかっている。擦り切れた感情と思考を巡らせ、至って冷静にこれが現実であると認めた。


 本来既に終わった己の命が、その後どうされようがあまり興味もなかった。安らかに眠るというのも、重すぎる罪を犯した己には似合わない。後悔の記憶を抱えて生きる罰を、神が下したのだとユエルは考えることにした。


 説明を終えるとグレゴリーは何処かへ行き、部屋に1人ユエルだけが残される。残されたとて、何もすることがない。


 お茶も飲み干してしまい、ぼんやりと壁を見つめながら思案に拭ける。はじめはこの世界のこと、グレゴリーの正体について考えていたが、思考は段々内側へと向かって行った。沸々と、胸を締め付けるような痛みと共に記憶が想起された。


 未だ鮮明に思い出せる。右手にいつも見舞いの花を抱えてやって来る彼のことを。笑わない少女に向かって、楽しそうに今日あったこと、今度一緒にしたいことを口にしていた。


 結局、気分転換にと誘われたゲームも、キャラクターを作っただけで一緒に遊んだのは1度だけだった。思えば、そのキャラクターの顔は――スキャンした実物の顔を少し変えただけのものだが、今のユエルの顔とよく似ている。


 ホムンクルスの素体ははじめ、人を模した不定形の胎児であり、宿る魂によってその肉体の性質を大きく変える、とグレゴリーは言っていた。


 つまり、ユエルの魂の影響によってこんな体になった。丁度死んだ時は17歳、背丈もそう変わらない。だからどうしたという話ではあるが、ユエルには滑稽に思えた。


 昔の自分を模っても、失ったものが戻ってくるわけではない。あの日ユエルを、ユエルでなかった頃の彼女を救うために人間性を失った彼がどうにかなるわけではない。


 本当に、恐ろしいことをしてしまった。


 善良で柔和で、少しだけ頑なな所のある優しい少年を豹変させてしまった。それまであった価値観を歪に捻じ曲げ、暴力を肯定する恐怖を失った怪物にしたのだ。


 性格も変わってしまった。元々根暗というわけではないが、落ち着いた人だった。それが笑っているときも怒っているときも、ずっと感情を爆ぜさせている。まるで内側に潜む化け物を押し殺すかのように。


 そして何より、少年の人生を縛り付けた。彼は今後訪れるであろう青春も、出会いも、夢も、何もかもを捨てて、抜け殻のようになったユエルの為に生きようとしていた。


 そうさせた事に対する自責と、そうなる原因によって負った深い傷に心が耐えきれなかった。本当に弱い人間だと思いながら、台所からナイフを持ち出して――そして湯船の中で手首を切った。


 逃げたのだ。これから続く地獄から、彼の想いから。


 たった1人、残された少年は今もきっと生きていることだろう。ユエルは、置いていかれた人間の気持ちが痛いほど理解出来る。だからこそ、延々と後悔の濁流に飲まれ続けていた。救われなくても良いと思っている。

 



 最早、彼に償う方法などただの1つもありはしない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る