死んだ貴方は星じゃなくて夜になるのね(2)

 ふっと機械の電源を入れたみたいに意識が戻ってくる。だけど意識ははっきりしてもからだはまだ眠りを求めているようで、わたしは開ききらない目に見える薄ぼんやりとした視界のなかでスマホに手を伸ばす。昨日はいろいろ考えて、いろいろ落ち込んで、日付が変わる前に眠ってしまったからほったらかしになっていた通知で画面が埋め尽くされている。

 天気予報アプリに、それからSNS。そういえば昨日は配信のあとに何もつぶやかなかったなぁと今になって思い出す。誰かのつぶやきに誰かが反応して、そこからやいのやいのとコスモくんのことを話して盛り上がるのが配信後のお決まりの流れなのだ。きっとみんなは昨日の夜も何かを話しているのだろう。わたしは今からでも内容を覗きにいこうかとも思ったけれど、どうせ見たところで落ち込むのがオチだと思い直してで止めておくことにした。その代わり、わたしは届いているダイレクトメールを開く。界隈のなかでも比較的仲が良く、よくやり取りするすーぱーささきちゃんからのDMで、内容は昨晩わたしが現れなかったことを心配するものだった。

 まだちょっと整理ついてないけど大丈夫、昨日は寝ちゃってた。わたしは手早く返信する。朝の六時だったけれどすーぱーささきちゃんからのメッセージはすぐに返ってきた。よかったぁ、すごく心配したよ、でもうちもめっちゃ落ちてる、まだ信じられないもん。今回に限らず、すーぱーささきちゃんの返信はどれだけわたしが間を開けても会話みたいなテンポで送られてくる。すーぱーささきちゃんはいつ寝ているのだろうか。もしかしたら自動返信をし続ける高度なAIなのではないだろうか。そんなことを考えながら、わたしはすーぱーささきちゃんへの返信を打ち込む。ごめんね、ほんとに大丈夫、でもさすがに今日は学校しんどい。打ち込んで、〝でも〟から先を消して送る。しんどくなったらいつでも話そうね、うちはまきこちゃんの味方だからね。わたしはすーぱーささきちゃんに、ありがとう、と返信をしてスマホを置いた。

 たぶんわたしは、人に弱みを見せるのがあまり上手なほうじゃないんだと思う。そもそも頼り方が分からない。苦しくてしんどくてどうしようもないとき、どんな顔で人の善意や優しさに寄りかかればいいのかが分からない。そんな難しいこと考えずただ一言、助けてと言えばいいんだと、きっとみんなは思うだろう。だけどそのたった一言がどうしても言えない人だっているのだ。人はたぶんいつだって、他人が想像もできないようなところで躓きながら生きている。

 わたしは溜息を吐き、ぼさぼさの髪の毛を頭の後ろで雑に結わく。一階の洗面所へと降りると弟の周大しゅうたが歯を磨いていて、鏡越しに目が合った。


「ひへーはほ」

「うっさい」


 わたしは周大を肘で押しのけて顔を洗う。冷水は顔から脳に直接滲みるみたいで、まだ残っていた眠さとか昨日から引き摺っている黒くて暗い気持ちとかをほんの少しだけ拭い去ってくれた。

「ばあちゃんが早く朝ごはん食えって」

 ようやく目が覚めてきて、わたしは既に周大が制服姿であることに気づく。ハッとしてスマホを見れば七時三五分。寝坊や遅刻ほどではないけれど、油断できない時間だった。

 わたしはいそいそとリビングに向かう。もう食卓にはごはんとお味噌汁と白菜のお漬物が並んでいる。


「あら、はなちゃん。おはよう」

「おはよー、おばあちゃん」


 わたしは早速座って、ほかほかの白米にのりたまを振りかけながら、きっちんから出てくるおばあちゃんに挨拶をする。

 紫がかったくるくるの髪にしわだらけの優しそうな顔。最近は足があまりよくないらしく、歩くときは家のなかでも杖をついている。ちなみに、わたしの名前が牧田波奈子まきたはなこというので、SNSのハンドルネームは本名を略した〝まきこ〟で、おばあちゃんはわたしのことを〝はなちゃん〟と呼んでいる。


「遅刻しないようにねぇ」


 おばあちゃんはよっこらせと椅子に腰を下ろして、優しい声と表情をわたしに向ける。

 わたしは今、おばあちゃんと呼んだけれど、わたしたちの正確な間柄は祖母と孫のそれではない。おばあちゃん、もとい妙子さんはわたしのお母さんのお母さんの妹で、わたしたちから見れば大叔母さんということになる。お母さんが宝石病で死んだとき、すでにお母さんの両親も亡くなっていて、そんな身寄りのなかったわたしと周大の引き取り手に立候補してくれたのが東京に住んでいた妙子さんというわけだった。それまでろくに顔を合わせたこともなかったわたしたちを引き取ると言ってくれたのは、すごくありがたかったけど不思議でもあって、妙子さんはお母さんが死ぬ少し前に旦那さんを事故で亡くしていて、そういう寂しさをわたしたちを引き取ることで埋めようと思ったのだろうと、わたしは勝手にそう解釈している。もちろんどんな理由や思惑があっても引き取ってくれたことに感謝しかないし、今もこうして何不自由なく生活が送れていることにも感謝しかない。ちなみにおばあちゃんと呼ぶのは大叔母さんや妙子さんだとよそよそしい感じがするからと言われているからなんだけど、実際わたしも周大も妙子さんを本当のおばあちゃんだと思って過ごしている。もちろん身も心も完全に許すのは難しくて、だいぶ気も遣うけれど、それとこれはまたちょっと別の話だと思っている。

 そういうわけで、わたしは元気を装って食卓についてはみたけれど、やっぱり食欲なんて一ミリも湧いてこなくて、お味噌汁の汁だけを半分くらい飲んで、お漬物を二口くらいつまんだところで箸を置くことになった。


「ごめん、おばあちゃん。あんまお腹空いてないや」


 わたしが言うと、おばあちゃんは残念そうな顔をして、それからわたしの前の小鉢のお漬物を一口、箸でつまんで食べた。


「そういうときもあるわよねぇ。でも、食べないダイエットはお肌によくないからほどほどにしときなさいね」


 おばあちゃんは全く見当違いなことを言って、今度はお味噌汁を飲んだ。ちょっとしょっぱかったかしら、とお味噌汁の濁った水面を見つめているおばあちゃんを横目に、わたしは二階に上がって制服に着替え、昨日帰ってきたときからそのままになっているスクールバッグを引っかけて家を出た。

 高校までは自転車を走らせて一五分。おばあちゃんに引き取られることになって、わたしたちは東京に越してきたから昔からの顔見知りはいない。うまく溶け込めるかという心配は全くの杞憂で、今は多くはない友達と一緒によくある高校生活を送れている。


「コスモって本名らしいよ」


 不意にそんな声が聞こえて、ローファーを脱いでいたわたしは弾かれたみたいに顔を上げる。あまりに機敏な反応をしすぎたのか、すぐ目の前を通り過ぎようとしていた華やかな女子二人組と目が合った。わたしは気まずさにまた顔を伏せて、訝しそうに首を傾げてから靴を履き替え始めた二人の話に耳をそばだてた。


「名前は変だけどさぁ、顔はちょっとかっこよかったかも」

「えー、なしでしょ。髪型とかだっさいもん」

「それはね。実験失敗ヘアーすぎて、どしたってなる」

「あ、実験で思い出した。化学の宿題忘れた」

「あー、それはどんまいすぎ。山岡、絶対ねちねち言ってくんじゃん」


 かかとを潰した上履きでリノリウムの床をぺたぺたと叩いて二人組が去っていくのを見送って、わたしは慌ててスマホを取り出した。だって混乱していた。ダサい髪型で名前がコスモとなれば、思い当たる話題の人物は一人しかいない。だけどチャンネル登録者数七〇人の冴えない底辺My tuberを、クラスの中心グループにいるような華やかな女子が話題にするわけがない。無性に胸騒ぎがして、突き動かされるようにスマホの画面を指で叩く。コスモくんの名前で検索するとすぐに、その胸騒ぎの理由は明らかになった。


〈余命My tuber、笑顔の生配信告白〉


 トップに出てきたのはコスモくんのMy tubeですらなく、ネットニュースの記事だった。それも同じようなタイトルの記事がいくつも並んでいる。余命My tuber、宝石病、八乙女コスモ、余命My tuber。わたしはそのいくつかにざっと目を通し、ネットニュースどころか今朝の情報番組でコスモくんの昨日の配信が取り上げられていたことを知った。


「うそ……」


 わたしは全く状況を理解できないままMy tubeを開いて、飛び出すんじゃないかってくらいに目を見開いた。だって昨日の夜まで確かに七四人だったコスモくんのチャンネル登録者数は一晩のあいだにほとんど二〇倍、一四二三人にまで増えていたのだ。

 戸惑った。ファンが増えたという嬉しさときっとみんな宝石病という奇病によってもうすぐ死んでしまうコスモくんへの好奇心で集まったんだろうっていう寂しさと、全部が津波みたいに急に押し寄せたことへの困惑と、いろんな感情で訳が分からなくなっていて、わたしはとりあえずすーぱーささきちゃんにDMをした。どうしよう、なんかすごいことになってる。

 学校か、もしくは仕事か。すーぱーささきちゃんからのDMは、とにかくすぐには返ってこなくって、わたしは胸の内側で膨れ上がった戸惑いを全く解消できないまま、響くチャイムを聞いた。まるで水のなかにいるみたいに、いつもよりも遠くぼやけた音がじんじんと耳の外側で響いていた。


   †


 わたしの戸惑いなんて関係なく、コスモくんはあっという間に有名人になっていった。

 チャンネル登録者数はあれから二日で五〇〇〇人を超え、宝石病のカミングアウトから一週間で一万人まで増えた。もちろんうなぎ上りの活躍はMy tubeのなかにとどまらず、夕方のワイドショーで特集を組まれたり、トークバラエティーに今話題の人と銘打ってゲストで呼ばれたりした。

 配信される動画にも変化があった。築年数の古そうな小さなアパートの少し汚れた壁紙だった背景は、モルタルが打ちっぱなしになったオシャレな壁と革張りのソファに変わった。いつも着ていたよれよれのパーカーも新しいものになって、手にはごつくて高そうな指輪が嵌められるようになった。

 もちろんわたしにはコスモくんの変化をとやかく言うつもりはない。人気が出て売れたなら、それに見合ったいい暮らしをすることは当然で、その生活はコスモくんが運と努力で掴み取った成果なのだから。

 だけどわたしはもやもやしていた。寂しいような悲しいような、そんな気分だ。それは今までたった七四人だけが注目していたコスモくんが突然にみんなのものになってしまったからかもしれないし、そうじゃないかもしれない。けれどそうじゃない理由は思いつかなくて、わたしは自分が、応援しておきながら売れたら冷める酷薄な人間に思えてまた悲しくなるのだった。

 そんなことを考えながら、わたしは今日も部屋でコスモくんの配信を観ている。

 だって残された時間のことを思ったら、やっぱりほんの少しでも多くの時間をコスモくんに費やしたいと思ったし、そもそもわたしに観ない選択肢なんてものはなかった。常に死と隣り合わせになっているコスモくんが、お母さんみたいに苦しみ出す画を想像せずにいられたわけではないけれど、わたしはそういう覚悟もぜんぶひっくるめて、コスモくんの配信をじっと受け止めるつもりでいる。

 けれど画面のなかのコスモくんは相も変わらず笑っていて、ラピスラズリになってしまった左耳とか、おでこの右側とか、右の中指とか、そんなのちっとも気にしていないっていう感じだ。


『今日は病院に行ってきたんす。そしたら、担当の先生がすごい人気だねぇって、いやーまだまだこれからっすって返すじゃん? 照れとか謙遜的な。でもそしたら先生、うん、でもこれからってそんなに長くないからって。ちょいちょいちょーい。これは俺もさすがに突っ込んじゃったよね~。先生がそれ言っちゃだめでしょーって』


 コスモくんが手を叩いて笑う。コメント欄にも、ひどいねと言いながらそれを面白がるような空気が流れていて、わたしはどうしようもなく悔しくなって奥歯を噛んだ。


『でもまあ嬉しかったよねぇ。ああやって俺の活躍? ちゃんと観ててくれる人がいてさぁ。あ、もちろんこの配信観てくれてるみんなだってそうなんだって分かってるけどさ。面と向かって言われるとまたちょっと違うっていうかさぁ。うんうん、みんなありがとね。でも実際、予想よりも進行が速いらしくてさぁ。最初は一年って話だったけど、そうもいかないらしいんだよね』


 へらりと、困ったようにコスモくんが笑って、わたしは身勝手に悔しくなった一瞬前の自分を恥ずかしく思う。当然だ。コスモくんはいつ死ぬのか分からない恐怖のなかで生きている。だからせめてこうやって、冗談を吐き出して笑い飛ばしていなければ、容赦なくのしかかる現実の重さに潰されてしまうんだろう。この笑顔は、宝石病に立ち向かうためにコスモくんが選んだ武器なのだ。

 わたしがそう思った矢先、コスモくんが手を叩く。吊り上げた口角から綻んだ白い歯に、さっきほんの一瞬だけ見えた影のようなものは感じられない。


『まあそんな感じで、いつ死ぬか分かんないってことで、こんな企画やってみちゃおうと思います! ずばり、〈宝石人間、オークションに出品されてみた!〉』


 コスモくんが拍手をする。コメント欄にはたくさんのが並ぶ。


『内容はそのまんま、宝石になってく俺の身体をオークションに出す感じで。さすがに生きてる人間は売買できないんで、死んだあとの遺体を引き取ってもらう感じになるっすねぇ。どんだけ宝石になるかとか、なんとも言えねえけどね。とりあえずスタートは、こないだ某テレビ番組で鑑定してもらった金額の四万一〇〇〇円から! あ、ちなみに落札金はぜーんぶ児童施設に寄付する感じになってるんでよろしくぅ』


 コメントがものすごい勢いで流れていく。内容は面白がる人がほとんどで、時折さすがに死体に値段をつけるなんてと一般的な倫理観の上に立ったものが混ざっていた。だけどそれらはどれも走馬灯のように流れていくばかりで、内容なんて全然読めなくて、なぜか得意げなコスモくんの顔ですら、だんだんと輪郭を失って色がなくなっていくみたいだった。コスモくんはコメントを拾ったりしながら何かを話していたけれど、わたしはその些細な意味の一つだってまともに拾うことができないまま、枕に立てかけたタブレットを眺め続けていた。

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