第八章

 夢叶仕合当日。ライブステージの多目的ホールはアイドルのライブとは違う盛り上がりを見せていた。観客席は背広を着た偉そうな人で埋まり、ざわざわしている。

 スポットライトはステージ上の特設リングに集まっている。まだリングの上に誰もいないが、いるからと言って、今日このライトは誰かを追いかけて一人を照らし続ける事は無い。

 周りの大道具やその他設備全てアイドルのライブそのものでありながら、完全に格闘技の試合の様な雰囲気という異常な空間を、遥香達はホールの外から見ていた。

「うっわ、人めっちゃいる……」

「その緊張は今じゃ無いでしょ」

 理子に軽くツッコまれている遥香は、すでにオーディションの時にも来ていたジャージを着て、出て行く準備万端だ。 

「理子、あなたトップバッターなんだから、緊張してんじゃ無いわよ」

「普通トップバッターだから緊張すると思うんだけど」

「最初に飛び込んでいくんだから、後続のことも考えて堂々と行ってきてよ。不安そうに行くと見てるこっちがヒヤヒヤしちゃうじゃ無い」

「無茶言うなぁ」

 今会場をのぞき見しているのは遥香達だけで、カシューナッツは控え室で待機している。相手が新人というのもあり、余裕なのだ。

「レディィィィィスアンドジェントルメェェェェン!」

 ステージ袖からハイテンションな一美が出てきて観衆に大きな声で呼びかける。すると、各方面の重鎮揃いなだけあってそこそこ高齢な人ばかり集まっているはずなのに、会場が震えるほどの歓声が湧いた。

「え、すごっ」

「でしょ。これが夢叶仕合」

 準備を整え、動きやすそうなシャツとハーフパンツで控え室から出てきた佐奈江が言う。

「今日は結構小さい方な仕合だけど、それでもデカいライブくらい歓声がアツいんだよ。見に来てるのはどこかの偉い人ばかりなのにね。それだけ私達に期待されてる。過去に何度もドラマが生まれたから、使える子を探すって目的だけじゃ無く、純粋に楽しみにしてる人がもの凄く多い」

 佐奈江は遥香にグーを突き出す。

「今日は良い試合にしようね」

 遥香はまだ意図しなかった歓声に狼狽えていて、おずおずとグータッチを返した。

「それでは第一仕合、選手入場ッ!」

 佐奈江は会場入り口の扉を蹴破ると、観衆にアピールしながらゆっくり歩いてりんぐに向かう。それに合わせ、歓声のボルテージも上がった。

「そして! リーダー佐奈江に挑むは、こちらも新生グループのリーダー、元々は地元の番長をしておりました前田遥香ァ!」

 遥香は名前を呼ばれ、唾を飲み込む。そんな遥香の背中を、四つの手が押した。

「いってらっっしゃい」

「遥香なら勝てる」

「頑張ってくださいね」

「かるーくやっちゃいなさい」

 遥香はそれまでの不安が無くなり、誇らしさと嬉しさ、そして闘志が沸き立って来るのを感じた。

「うん!」

 そして遥香は入り口の方に向き直ると、

「シャァアアアアアアアアアア!」

 という雄叫びと共にリングへ駆けだした。


 リングの上に二人の戦士が並ぶ。両者体と精神の両方のコンディションが良好のようで、双方が自信満々な様子だ。

「それでは早速第一仕合、始めさせていただきます!」

 リング横の折りたたみ式の机に置かれたゴングを、一美が思い切り叩いた。

「始めィ!」

 湧き上がる歓声と共に、第一仕合が始まった。

 佐奈江は両腕を顔の前に持ってきてコンパクトに構え、ステップを取り始める。シンプルなボクシングスタイルだ。

「佐奈江ちゃん」

「……何かな」

 未だ構えない遥香からの呼びかけに、佐奈江は油断せず聞き返す。

「先輩は良い仕合にしようって言ってたけど、多分無理だ」

「何故かな」

 瞬間、佐奈江は身震いした。ずっと注意深く遥香のことを見ていたので、雰囲気が変わったことに気がついたのだ。

「……そういうことね」

 遥香は両の拳を握る。それに反応して佐奈江が先に仕掛けた。

 連続するジャブの応酬、顔面に当ててはいけないので、ギリギリで当てていない。それでも普通なら嫌がって後ろに下がるか顔を覆う。佐奈江はそれを狙っていた。

 だが全く引かない。不気味なほどずっと、佐奈江の目一点を見つめ続けている。

「だったらっ!」

 佐奈江は、がら空きな遥香の横腹に拳を素早く叩き込む。

「つっ」

 遥香は体勢を崩す。

 だが膝はつかず、拳を後ろに引いて、ずっと佐奈江から目線を逸らさない。中々良いブローが入ったと自信があっただけに、佐奈江には不気味で仕方が無かった。

「な、何がしたいのさ。なんで攻撃してこないの!」

 遥香は黙ったまま一点を見つめ続ける。

 不意に、佐奈江は何か目に見えない聞こえもしない何か、言うなれば予感と呼べるものを感じ取った。頭で思うよりも前に、体が先行して動き、バックステップを踏ませる。

 佐奈江が下がると同時に、遥香が前に足を踏み出していた。同タイミングで動いたので間合いは変わらず、遥香の拳は飛び出す事は無かった。つまり、下がっていなければ佐奈江は遥香の反撃を喰らってしまった事になる。

「佐奈江ちゃん、来るって分かったの?」

「……予感はした」

 遥香から少し離れたところでステップを踏みながら強がる佐奈江は、自分の手が震えている事に気づいた。

「お、落ち着け私。これくらいの相手、何度も戦ってきたじゃん。だからビビることない、絶対イケる!」

 佐奈江は前に蹴りだし、一歩を踏み込む。どうせ顔面には何も来ないので、ガードをボディーまで下げて遥香の懐に入り込もうと試みた。

 刹那、佐奈江にとって予想だにしないことが起きた。遥香の見つめる先は佐奈江の人中言ってんだ。その目は予感しなくても分かる強い意志が込められていた。遥香は、マジで顔面狙ってきている。ルール的にやれば反則負け、だから絶対来ない。しかしその絶対に確信を感じなかった。

 結局佐奈江は、低くした姿勢を起こし、足にブレーキをかけ、ガードを上にあげてしまった。それがこの勝負を決定づけた。

「っしッ!」

 がら空きになった佐奈江の鳩尾に、遥香のオーバーアクションなパンチが轟音と共に食い込んだ。

「っ……ぁぁ」

 痛みで絶叫も出来ないまま、佐奈江はゆっくりと膝をついた。

 遥香はこれ以上攻撃を加えない。佐奈江がゆっくりと意識を失っていることに気づいたからだ。

 そして佐奈江は膝をついたまま、静かになった。

 観衆が固唾を呑んで注視する中、遥香はゆっくりと右拳を上げた。

「……しょ、勝負ありィ‼」

 一美の声だけが会場に響く。皆一様に隣同士の顔を見合うばかりで、音一つなかった。

 遥香は佐奈江をおぶってリングを出る。そして会場出口に歩き出したところで、やっと状況に追いついた観衆の大歓声が二人を見送った。


「遥香、勝利おめでとう!」

 会場外に帰ってきた遥香の肩を、心愛は強く叩く。

「めちゃくちゃ緊張した……」

 そんな心愛に、遥香は苦笑いで返した。

「全然余裕そうでしたね。凄かったです!」

「これは幸先いい」

「まあこれくらい出来なきゃこの先やってけないし。当然よね」

「理子先輩は褒めてよお」

「嫌よ」

 ちぇーっと拗ねる遥香を、理子は軽く流した。

「それより、次は心愛よ」

「もちろん。準備は出来ているよ」

 心愛は着ていたジャージを脱ぐ。ジャージの下には、ビキニのように胸部と腰にしか布が無い衣装に、膝あてと脛まで覆う長いブーツを着ていた。さながら女子プロレスラーのようだ。

「ま、また凄い格好だね」

「昔から一回は着てリングに立ってみたいって思ってたんだけど、まさか夢が叶うなんて思わなかったよ」

 心愛は心底嬉しそうで、早くリングに行きたいとソワソワしている。

「まあ、心配しなくてもちゃんと勝利を取ってくるさ」

「へえ。大した自信じゃない」

 少しイラつき気味で控室から出てきた夢は、まず遥香を睨んだ。夢も動きやすそうなシャツと短パンだ。

「佐奈江をあんな目に遭わせて、許さない」

「いや、そういうんじゃないでしょ、勝負だったんだし。そういうのは佐奈江ちゃんがかわいそうだよ」

「うるさい」

「えぇ…」

 夢は、今度は心愛に視線を変え、馬鹿にするように笑った。

「精々恥かかないようにね」

 それだけ言うと、真剣な顔をして正面を向き、一美が名前を呼ぶのを待った。

「第二仕合、選手入場!」

 そして名前が呼ばれると、勢いよく飛び込んでいった。

「全然恥になるとか、無いからね」

 遥香がフォローするが、心愛は聞いてはいない様で、キマった目をして笑っている。 

「対するは、第一仕合を勝利で収めノッています、新人グループからこの女、富樫心愛ァ!」

 名前を呼ばれ、リングへ走り出す前に、心愛は遥香にグーサインを突き出した。

「じゃあ、盛り上げてくるよ」

 そして、手を振って盛り上がるよう観衆に促しながら走り出した。


 リングの上に夢と心愛の二人が向かい合った。

 初の夢叶仕合でありながら、心愛は堂々としていた。緊張は全く感じられず、寧ろワクワクしている。それが気に入らなかったのか、夢は機嫌悪そうに舌打ちした。

「いい? 佐奈江はあの子に圧倒されちゃって負けたけど、私はそうはいかないから」

 常人なら腰を抜かしてしまうほどの、アイドルとは思えない恐ろしい睨みを利かせるが、心愛は微動だにしない。

「どんな手を使っても勝たせてもらうから。まああなた程度、適当にやっても勝てるでしょうけど」

 心愛は夢を見つめるだけで、何も言わない。

「……気に入らない」

 夢のイライラは頂点に達しそうで、拳を強く握る、眉間にしわが寄るなど体の至る所に怒りのサインが出ていた。それでも心愛は感情の揺れ一つ起こさず、ニヤリと笑いながら夢を見つめ続ける。

「それでは第二仕合。始めッ!」

 一美が強くゴングを鳴らす。

「勝機ッ!」

 夢が構えるよりも速く、心愛がとびきりの跳躍をして見せた。その高さは、足を曲げた状態で一メートルと少し。ドロップキックを叩き込むのにドンピシャな高度だ。

「なっ⁉」

 夢が状況を理解しきった時にはもう遅く、心愛のドロップキックが胸に叩きつけられる。

「ッシャア!」

 マットに落ちながら、心愛は確かな手応えを感じた。

「……痛いじゃない」

 夢は同じ場所で、両の足でしっかりと地面を踏み、立っていた。

 心愛はすぐさま立ち上がり、夢との距離を取る。

「ちぇえっ。絶対いけると思ったのにな……」

「不意打ちは効いたけど、あれくらいじゃあね」

 夢は心愛をあざ笑う。だがその表情はすぐに、理解出来ないと言いたげなものに変わった。心愛が笑っているからだ。

「そうでなくちゃ面白くない!」

 心愛はまたも、夢が構える時間を与えず、腕と首元をしっかり掴んで組み付いた。

 何か技を掛けようと、心愛は相手の体勢を崩すため力を込める。だが夢はびくともしない。

「おっ。う、動かない」

「こっ、そんな力じゃ私を崩す事はできない!」

「だったら……」

 心愛は組み付くのを止め、素早く夢の体側に滑り込む。そしてうなじを夢の横腹に当て、首と太ももの足の付け根付近を持って担ぎ上げた。

「あ、アルゼンチンバックブリーカーだ!」

 突然、客席の最前列に居た中年の男が熱く叫ぶ。他の慣習も大興奮だ。それもそのはずで、夢叶仕合でプロレスを使うアイドルは心愛が初めてだった。だからアルゼンチンバックブリーカーが出る事自体、夢叶仕合が好きな観衆にとって大興奮不可避な事だった。

 そしてこの新しさはアイドル自身にも効いてくる。誰もプロレス技の使い手と対峙したことが無いので、心愛にとっては大きなアドバンテージとなるのだ。今日もそのはずだった。

「……悲鳴が聞こえない。結構絞ってるはずだ、なのに何故聞こえない!」

 だが、夢は心愛に担がれながら、涼しい顔をしていた。

「ゆ、夢。痛くないのかい⁉」

「残念だけど、全く」

 夢は脱力し、更に背中を反らせて見せた。

「ねえ、私SNSに結構沢山自撮り上げてるの知ってるよね」

「え? ああ。夢のSNSはフォロワー数十万クラスの超人気アカウントだってのは知ってるが、それが何か関係あるのかい?」

「ええ。あれ、色々な画角から撮ってるし、小顔に見えるように、スタイルがよく見えるように撮ってるんだけど、あれ、なんの道具も使ってないし、加工も一切してないの」

「ど、どういうことだ?」

「私はね、可愛く写るためにどんな体勢も取れるの。だから体も柔らかく、体幹もしっかりしてる。つまり、私にはプロレス技なんかこれっぽっちも効かないってことよ!」

「な、何っ⁉︎」

 心愛に降ろされた夢は上体を逸らし、リンボーダンスのように背中が地面スレスレで当たらないように止める。その状態で片足を伸ばして体と水平に保った。そんな常人では再現不可能な体勢で、夢はピクリとも動かず、首を曲げてココアの顔を見ながらドヤ顔で挑発する。

「これくらい簡単にやっちゃうわけ。だから関節技は効かないから」

 心愛の驚く顔をひとしきり堪能した夢は、体勢を戻して構え直す。

「技は効かないことがわかったと思うけど、それでも向かってくるつもり?」

「流石先輩、一筋縄じゃいかないってわけか」

 それでも心愛の表情は変わらず、狂った目で夢を見つめ続け、笑う。

「面白くなってきたね」

「なんで笑って居られるの。不気味なのよあなた」

 夢は構える。そして棒立ちな心愛の横腹に蹴りを入れた。その蹴りは戸惑いが混じり、渾身の一撃とは言いがたいものだったが、無防備に突っ立っていた心愛にはそれでも十分効いた。

「うっ……く」

 痛みで上体が揺らぐも、膝をつくまではいかなかった。

「なっ、このッ!」

 それが不気味で怖かった夢は、心愛のボディーと足に連続でパンチやキックを打ち付ける。右と左のワンツー、そこからローキック。膝も入れた。心愛の体は殴られ蹴られたところが赤くなっていくが、決して倒れることは無かった。

 結局、ひとしきり打って肩で息をする夢の正面には、心愛が殴られる前と全く同じ場所に立っていた。

「痛いなあ。まったく、好き放題やってくれちゃってさ」

 夢は、無意識のうちに自身が一歩後ろに引いている事に気づいた。慌てて引いた足を戻し、虚勢を張ろうと凄む。

「次はボクの番だ。先輩の全部受けてあげたんだから、先輩もボクのをちゃんと受け止めてくれるよね?」

「ぼ、ボクの番?」

 夢は困惑と不安に溢れた様子で、もう一度後ずさった。

「言っている意味が分からないんだけど。格闘技は野球のように攻守が交代するわけじゃないの、知らないはずないでしょ?」

 夢のいう事は正論だ。正論のはずなのだが、心愛の目、表情、立ち振る舞いすべてがまるで心愛のいう事が正しいかのような錯覚を生む。

「いいや、ボクの番だ」

「だからそういうのは無いって言ってんじゃない!」

 夢は叫ぶと同時に拳を握る。後は踏み込んで打ち出すだけ、という所まで来た。しかし心愛の方が速かった。

 夢よりも速く踏み込んだ心愛は、大きく振りかぶって手のひらを夢の胸に叩きつけた。

 夢はそれでも尚心愛に向かおうとする。だがその意思に体が付いてこない。最初に生じた衝撃が体を駆け巡り、そのすぐ後から発生した強い痛みが夢の足を止めた。

「……水平チョップって、こ、こんなに痛いものなの?」

 足の止まった夢は、驚きと痛みで震える声で言う。

「ほら、今から僕の番だ」

 そんな夢を、心愛は待たない。もう一度同じところに同じ技を打ち込む。そしてその痛みが引く前に、何度も何度もたたき込んだ。

 十発食らったところで、夢は満身創痍になるまで追い込まれた。

「ほらほら、ちゃんと耐えなきゃ駄目じゃないか」

「………………クソッ」

「次は間接とか関係ない技を披露してあげるよ。そしてこれで終わらせる」

 心愛はまた夢を担ぎ上げようとする。距離を取る、または抵抗する等しなければならないが、夢にそんな余力は無く、されるがままだ。

「またアルゼンチンバックブリーカーか?」

 観客の一人が顎に手を置きながら言う。

「さっき効かないって分かったんじゃないのか?」

「いや、多分違うぞ」

 その隣に居た髪の薄い初老の男が、そう言い返した。

「なんだそれは。どういうことだ」

「担ぎ上げて背骨を折りに行くのがアルゼンチンバックブリーカーだ。そしてそれは効かない、これは富樫心愛も分かっているはずだ。だが、その柔軟性が全く通用しない技もあるんだ」

「何だと?」

「曲げても効かない。だが打撃ならどうだ?」

「た、確かにそうだ。実際、水平チョップもしっかり効いていた。打撃は柔軟性もインナーマッスルも関係無い、それは分かった。だが、今現在担ぎ上げている状況だ。これでは打撃なんか出来ないんじゃないか?」

「あのまま、頭から垂直に落下したとしたら?」

「…………そ、そうか!」

「そうだ。だがまさかこんなところで見られるとはな」

 心愛はそのままの上体で、リングの中央まで歩く。

「あなた、学習しないのね。その技は通用しないってさっきので分からなかったの?」

「分かってるよ、そんなこと。けど今回のはもっとヤバいやつだからさ」

「……何をするの」

「頭から垂直に落とす」

「なっ⁉」

 心愛がリングの中央に到着すると、膝を曲げ、跳躍する姿勢を取った。

「が、顔面への攻撃は反則負けよ?」

「脳天、もしくは後頭部から落ちるから大丈夫さ」

 心愛が更に少し腰を落とし、飛ぶための振りをつける。

「じゃあ楽しんで、先輩ッ!」

 そして思いっきり飛び上がり、夢の頭が先にマットに叩きつけられるように駆虫で姿勢を変えた。

「これで終わりだよ、先輩」

 勝利を確信した心愛だが、対する夢は鼻で笑ってみせた。

「終わりはあなたよ。勝利への執念てやつ、見せてあげる」

「は?」

 心愛は夢の言葉の真意が分からないまま、技を完成させた。


 リングの上に、頭部から血を出して倒れている夢と、それを立って見下ろしている心愛。この光景は、誰が見ても勝敗が決していると言えた。心愛も確信を持って右腕を上げる。

 だが一美は勝負ありと告げない。ある事を確認しなければならないからだ。

「しょ、少々お待ちください。ただいまから富樫心愛による顔面への攻撃があったかどうか、判断いたします」

 そう、心愛が反則をしているかどうかのチェックだ。

 一美は小走りでリングに駆け寄り、上がる。そして夢に近寄ると、気絶して動かない夢の頭をゆっくりと動かし、顔面を確認した。

「ボクは反則などしていない。一条さんも見ていただろう?」

 心愛は反則してないことに自信を持っていた。だから焦ること無く、周りの慣習に手を振る。

 しかし一美は、心愛では無く夢の腕を握り、持ち上げた。

「富樫心愛の反則負けにより、勝者、嗣永夢!」

「なっ⁉」

 納得できないようで、心愛は一美の元へ駆け寄り抗議しようとする。が、倒れている夢の曲がって血まみれな鼻や、欠けた歯を見て気づいた。

「ま、まさか、自ら首を上げて顔面から落ちたって言うのか……」

 心愛は抗議に行くのをやめた。そして夢の前でしゃがみ、もう力の入っていない手を握った。

「先輩。あなたのその執念、尊敬に値するよ」

 心愛は一度強く手を握ると、一美にすぐに夢を病院に運ぶように言い、控え室へ向け歩き出した。先程までの熱い仕合の余韻を噛みしめ、そして夢の強い執念に心からリスペクトしながら、ゆっくりと。 

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