第三章3 ずっと隣にあったもの

「あ、おかえりー! 気分転換できた?」


 練習場所に戻ると、ミーナは笑顔で迎えてくれた。

 そんな彼女に、ルナはさっそく切り出す。


「ミーナ。聞いてほしいことがあるんだけど」


 ミーナは少し驚いた顔をした後、「うん。何?」と穏やかに微笑んだ。

 その優しい表情に、ルナは安心して話を始めた。



「……っていうのが、私が最近モヤモヤしてたこと」


 一気に語り終え、ルナはチラリとミーナを窺う。

 怒ってたり、悲しんでたりしないか……と不安に思っていたルナだったが、彼女の表情を見て困惑した。


 ミーナが、不思議そうに口を半開きにしていたから。


「え、何その顔!? 私、何か変なこと言った?」


 思わず大きい声で問いかけると、ミーナはビクッとなる。


「わっ、ごめんごめん。……いや、予想外すぎて」

「え、そんなに? 私とあの人が上手くいってないの、ミーナだってわかってたんじゃないの?」

「いや、それはツンデレだと思ってた」

「なんで!?」


 いったいどこにデレる要素があったと言うのか。

 あまりにも見解が違いすぎる。


 だが、続いたミーナの台詞が衝撃的すぎて、ルナの思考は吹っ飛んだ。


「だってルナ、あのピアノ大事にしてるじゃん。てっきり、お父さんからもらった物だからそうなんだと思ってたんだけど」

「ちょっ……っと待って。待って」


 完全に混乱状態のまま、ルナは辛うじてそれだけ言った。


 今、何かとんでもない事実を告げられた気がする。


「えっと、待って? あのピアノが……何?」

「だから、お父さんにもらったんでしょ?」

「……それは、お金を出してもらったって意味で?」

「いやいや、そのまんまの意味で。お父さんがプレゼントしてくれたんでしょ?」


 何度聞いても、ミーナは同じ内容を言っていた。

 あの電子ピアノは、フィーバスがルナに贈ってくれたものだ、と。


「え、まさか覚えてないの?」


 ミーナが驚くが、ルナだって驚いている。


 いや、あれの出処はどうなっているのか考えれば、当然親に買ってもらったということになるだろう。

 しかしミーナの口ぶりだと、どうやらただ買い与えたというだけではない。


「や、私もステラさんから聞いただけだけどね? ルナが小さいころ『歌手になりたい』って言いだしたら、次の日にお父さんがいきなり買ってきたんだって。……本当に覚えてなかったんだ」


 あまりにも驚いているルナを見て、ミーナは最後にそう付け足した。

 コクリ、と糸が切れたように頷くルナ。


 だとしたら……だとしたら。


「……ごめん、ミーナ。私、行かなきゃ」


 立ち上がったルナに、ミーナは一瞬だけ驚いた後、ニッコリ笑った。


「うん。行ってらっしゃい」


 今度は顎を強く引いて頷くと、ルナは駆け出した。

 心の急かすままに、目一杯に脚を動かして。


****************


 物心がついた時から、あのピアノはルナの隣にあった。


 楽譜の読み方は母から教わり、いろんな曲を弾いては歌った。

 どんなに嫌なことがあった日だって、歌があれば幸せな気持ちになれた。


 そんな記憶でいっぱいで。そんな記憶しか思い出さなくて。

 今ようやく、ルナの頭は過去へと記憶を遡り始めた。

 あのピアノがルナの元へやって来た、その日へと。


 あれはそう、ルナがまだ4歳だった時の話だ。

 ルナたちは一家揃って、とあるアーティストの弾き語りライブを観に行った。


 それを観て、ルナはすっかり虜になってしまったのだった。

 家に帰るまでの間、ずっとうろ覚えの歌を歌い続けるくらいに。


「私も、あんな風にピアノ弾いて歌いたい!」


 そんな風に浮かれて帰った、その翌日。


「えぇー、普通いきなり買ってくるぅ?」


 ステラが呆れ返った声でそう言った。

 それに対し、フィーバスは至って真面目に返答する。


「好奇心は何よりも大事だ。この子が好きだと思ったことなら、思いっきりやらせてやるべきだろう」


 フィーバスはなんと、すぐに電子ピアノを買ってきてしまったのだ。

 幼いルナは目を輝かせ、鍵盤を押して音が鳴るといちいち喜んでいた。


「でも、すぐ飽きちゃうかもよ?」

「それならそれでいい。また別の好きなものを見つければ」

「もー、甘いんだから」


 仕方ないなぁと笑うステラ。

 フィーバスはルナのほうを向くと、やはり真面目に話し始めた。


「いいかルナ。好きだというその気持ちを大事にしろ。その気持ちこそが、迷ったときに自分を導く道標になる。

 たとえどんな暗闇に迷い込んだとしても、きっと自分を照らす光になってくれるはずだ」


 今も昔も、フィーバスはきっと不器用だった。

 小さな娘にこんなことを言っても、理解できないに違いないのに。

 不器用で、けれど真っ直ぐだった。


「だから俺たちは、それを全力で応援する。何があっても、俺たちはいつだってルナの味方だ」


 そして、首を傾げるルナに向かってこう言った。


「俺たちにとっては、ルナこそが光だからな」


****************


 駆け戻った仮住まいの部屋。

 切れ切れの記憶をステラに補完してもらって、ルナはすべてを思い出した。


「私……なんでこんな大事なこと、ずっと忘れてたんだろう」


 かき乱れた心に呆然としたまま、ルナは静かに呟く。


「まぁ、小さかったし。それに……」


 ステラはちょっと笑って、穏やかに目を細めた。


「当たり前なことほど、忘れちゃうものなのかもね」


 いつも隣にあった電子ピアノ。

 それがどれだけ大事なものだったのか。

 どうして大事だったのか。


 そして――


「それじゃあ……あの人は……お父さんは、私のこと……」

「だから、何回も言ってるでしょ。お父さんは、ちゃんとルナのこと愛してるよ」


 当たり前に注がれていた、愛情も。

 きっとこれ以外にも、ルナの気づかないところで、それはずっと続いていたんだろう。


「……そっか」


 涙が一滴ひとしずくだけ零れた。

 それは喜びの涙か、後悔の涙か。

 どっちにしても、ルナがやるべきことは一つだった。


「お母さん。私、お父さんにもう一回電話する」

「……うん。そうだね」


 優しく微笑んだ母に手渡された端末を、迷いなく操作する。

 父の連絡先を選び、発信ボタンを押して。







 ――ひどい砂嵐のような音に、鼓膜を引っかかれた。


「わっ!?」


 思わず端末を取り落としたルナ。


「どうしたの?」

「わかんない、何かザザッって変な音が――」


 話を聞いたステラが端末を拾って、それを確認する。


「……本当だ」

「何なの、これ……?」


 二人は、不安そうな顔を見合わせるしかなかった。

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