第2話 8

 夜の森よりなお深い、濃密な闇色をしたもや――瘴気が辺りを埋め尽くし、濃密な香の匂いにむせそうになる。


「――あっ!?」


 木の根に脚を取られて、わたしの身体が宙を泳いだ。


 わずかな浮遊感のあと、衝撃と共に激痛。


「――美琴みことっ!」


 すぐ前を走っていた隆成くんが、わたしの腕を取って引き起こしてくれる。


 その間も、北の方から木々が薙ぎ倒される轟音と、地面を割り砕いて進む衝撃は続いていて。


 わたし達は先を行く仲間達の後を追って、再び夜の森を駆け出す。


「クソっ! なんなんだアレ!」


 隆成りゅうせいくんがうめく。


 ……アレに最初に気づいたのは、斥候のわたしだった。


 森の中に立ち込める香のかおりを不思議に思って、匂いの元を辿ると、木々の間に黒いもやが立ち込めていて。


 みんなを呼んでしまったのは、完全にわたしのミスだと思う。


 すぐに逃げるべきだったんだ。


 まるで宙から湧き出すようなそのもやに、隊長の東郷くんが手を伸ばした瞬間に変化が起きた。


 硝子が割れるような音と共に、景色がヒビ割れて。


 空間に空いた亀裂の向こうに黒と赤の渦が見えた。


 ――局地侵災。


 そう気づいた時には、もう止められなかった。


 鈍色をした甲殻が見えて、東郷くんが逃げろと叫んだ。


 まるで溢れるように、弾けるように、黒いもやが噴き出して。


 魔道器官が軋んだから、それが瘴気なんだと本能的に悟った。


 そして、それを発生させるモノは、ひとつしかない。


「……魔物なんて……どうしたら」


 侵災と共に発生し、生き物を殺す事に、異様な執着を見せる存在。


 粘液状の瘴気でできた身体を鈍色の甲殻で覆ったソレは、出現した土地によって、多様な姿を持っているそうだけど、今、わたし達を追っているのは、巨大なクモのように見えた。


 木々の間に立ち込める瘴気。


 その向こうに爛々らんらんと輝く、十の紅い光。


 歪に並んだそれは、魔物の眼だ。


 まるで探るように蠢いていたそれが、一斉にこちらを見る。


「――見つかった!」


 隆成くんが叫んだのと、木々を縫って濃密な瘴気を浴びせかけられたのは同時。


「――――ッ!?」


 胸の辺りで紫電が弾けたと思った瞬間、目の前が真っ白に染まって。


 気づいた時には、わたしも隆成くんも倒れ込んでいた。


 魔道器官が悲鳴をあげている。


 身体がまるで動かない。


 そんな中、まるでわたし達の恐怖を煽るように、魔物はゆっくりとこちらに近づいてくる。


 濃い瘴気に隠れて、その全容を見えない。


 ギチギチと不快な音を立てる頭部は、巨大な牙が並んでいて、その背後にそびえる腹部に歪に並ぶ紅い眼が、わたし達を見下ろしていた。


 その深紅の眼に見据えられて。


 わたしの心臓は竦み上がった。


「……み、美琴、逃げろ……」


 隆成くんが、身をよじって立ち上がろうとしている。


 ――魔物は。


 まるでそれを嘲笑うように、十本ある巨大な節足のひとつを振り上げ。


「――隆成くんっ!」


「――ギャアァァ――ッ!!」


 闇に閉ざされた森に、悲鳴が響き渡り、熱いモノがわたしの顔に降り注いだ。


 ギチギチという魔物の歯鳴りな耳朶を打つ。


 それはまるで魔物の哄笑のようで。


「ア――ッ! アッ、ア――ッ!」


 右太腿を後ろから貫かれた隆成くんは、身をよじって叫んだ。


 そのたびに鮮血が飛び散り、わたしの顔を濡らす。


「……いやぁ……」


 涙で揺れる視界の向こうで、深紅の光がわたしを捉える。


 魔物の脚が振り上げられて。


「――誰かっ!」


 わたしは目を閉じて、両手で身を庇って叫んだ。


 その瞬間だった。


 ――弦を掻き鳴らしたような、高く心地よい音色。


 途端、木板をぶつけ合ったような、甲高い炸裂音が響いて。


「――ハっ、ハッ、ハッ……」


 自分の荒い呼吸と、鼓動で目眩がしそうだ。


 気づくと、わたしの目の前には、虹色にきらめく多面結界が張られていて。


 わたしは迷わず、両手に付けた魔道器の腕輪を見た。


「……物部さん……」


 思わず彼女の名を呟く。


 漆黒をした腕輪の表面に刻まれた刻印が、強く青の輝きを放っている。


 あの事故で腕を悪くしたわたしのために、彼女が作ってくれた魔道器だ。


 周りの目もあったからか、直接渡されたわけじゃない。


 ある日の朝、教室の机に入れられていた、この腕輪のおかげで。


 わたしは防央校さきおうこうを辞めずに――転科だけで済んだんだ。


 それだけじゃなく。


 この腕輪は、今もこうして、わたしを守ってくれている。


「――ありがとう……」


 小さく呟き、わたしは身を起こす。


 警戒したように魔物が背後に跳んだ。


 わたしはふらつきながら、隆成くんの元に歩み寄って。


 ……ああ、出血がひどい。


 スマホを取り出して、癒術を使おうにも、画面は反応しなくて。


 隆成くんは、痛みに意識を失っているようだった。


 その間にも、ジリジリと近づいて来て。


 狂ったように、その脚で結界を叩き始める。


「……せっかく物部さんが助けてくれたのに……」


 このままで終わりたくない。


 生き延びて、今度こそ物部さんに、お詫びと感謝を伝えたい。


 あの時の事は、わたしの自業自得で。


 物部さんが気に病む事なんてないんだって、そう伝えたいんだ。


 わたしは結界の向こうの深紅の眼を睨む。


 ――死にたくない。


 今更のように、わたしは腰の後ろから小太刀を引き抜いて。


 隆成くんを背後に庇って、わたしは構える。


 ――だけど、わたしは防人だ。


 そうなりたいと決めたのも、わたし自身。


 情けなくうずくまったまま、ただ無意味に死ぬくらいなら、誰かを守って逝きたい。


「……覚悟は決まったよ」


 言葉に出せば、自然と心は落ち着いた。


 ここをわたしの死に場所としよう。


「わたしを守って。物部さん!」


 叫んで。


 四肢に渾身の力を込めて、駆け出そうとした瞬間――


「あ……」


 日の光だろうか。


 瘴気に覆われた森の中に一筋の光が差し込んだ。


 弾かれたように、魔物の眼が頭上に向けられて。


 ――直後。


 日の光を受けて、白銀のたてがみを茜色に燃やしたそれは、笛の音に似た音を響かせて、わたしの前に降り立つ。


『――目覚めてもたらせ。<穢レノ御主けがれのみぬし>……』


 紡がれた喚起詞で、強固なステージが結ばれて。


 あれほど濃密に立ち込めていた、魔物の瘴気が洗い流されていく。


 漆黒の外装をしたその甲冑は、手にした鳴刀を魔物に向けた。


『――ここからは僕が相手だ。

 防央校二年ん組、三山 悟――』


 ――『ん組』は物部さんの組だ。


 そして、目の前の甲冑が、物部さんが再生させたものだというのは、この一週間で全クラスの生徒が知っている。


「……ああ、物部さん……」


 思わず涙がこぼれ落ちる。


 身体から力が抜け落ちそうになった。


『――<禍津日マガツヒ>、いざ参る!』


 漆黒の甲冑が、風を巻いて魔物に斬りかかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る