第2話・妹とエプロン
「ただいま〜」
玄関の扉を開けて、ギョッとした。
「おかえりなさいませ、お兄さま」
エプロン姿の妹が、三つ指をついて頭を軽く下げていたからだ。少し顔を上げた妹は、恥ずかしそうな、くすぐったそうな表情でこちらを見上げている。
え、何、何。
「あの。冗談にそれほど戸惑われると、困ってしまうのですが」
照れた表情はそのままに、柊は立ち上がった。ようやく見慣れた姿勢になって、フリーズした思考回路が戻ってくる。
「あ、あ〜〜、冗談ね、冗談」
随分、笑えない冗談をかましてくるものだ。我が妹ながらセンスがない。兄の僕も、これには十分気をつけたほうが良いだろう。
いや、僕と柊は、名前以外まるで似ていないけれど。
立花柊。年齢は僕の一つ下で、中学3年生。
艶やかに伸びた真っ直ぐな黒髪は、腰にまで到達していて、ぱっと見、今時珍しい大和撫子といった風貌だ。それでいて、平均以上の高身長も、切長の大きな瞳も、はっきりとした目鼻立ちも、どこか日本人離れした雰囲気を感じる整ったもので、モデル事務所から名刺をもらったことも、一度や二度ではなかった。
容姿だけでもこれほど差があるのに、脳みその出来も僕とは雲泥の差だ。
近所の私立になんとか滑り込めた僕とは違い、柊の内申点はいつも満点近く、全国模試でも上位層に位置している。
いるのだが……。
「……なんで制服の上にエプロンなんだ?」
素朴な疑問が浮かぶ。制服は基本、夏服と冬服で一着ずつしか手持ちがなく、すなわち、この制服が汚れてしまえばお終いである。
今日は金曜日だから、なんとか滑り込みでクリーニングに出し、月曜日に受け取るということも不可能ではないが、そんな行いはリスキーすぎる。賢い妹のやることとは思えない。
すると、妹はどこか微かに得意そうな表情で、その場でくるりと一回転してみせた。
ふわりとスカートの裾と、長い黒髪が揺れる。
「どうです? この格好、きっと兄さんの好みだろうと思ったのですが」
「え?」
言われて、まじまじと柊の格好を見返す。彼女の通う中学校のセーラー服は、公立校にしては凝ったもので、近隣中学から憧れの声が出るような可愛らしいものだ。
スカーフの学年色は王道の赤。その赤に合わせるかのようにして、身につけたエプロンの色はピンクだった。
確かに、良い。
学問を修めるべく身につける学生服の上に、家庭の象徴とも言えるエプロン。なんというか、ギャップがいい。
うちの高校はブレザーだから、流石にそれは脱いで、東海堂さんの栗色の髪には、上品なベージュのエプロンとか似合いそうだなぁ。セミロングの髪も、ポニーテールにまとめちゃったりして。
うう、手料理食べたかった、有本めェ……。
妄想から帰ると、柊はプクッと頬を膨らませて、僕を下から睨みつけていた。
「なんだか、他の女の事を考えている気配がします」
そんなふうに不機嫌そうな表情は、珍しい。柊はいつもどこか泰然としているというか、柳のようというか、表情の高低差が小さいところがあるのに。
「ごめんごめん」
そうだよな、自分の服装について聞いたのに、他の子のことを考えるのは失礼か。
「うん、可愛い可愛い。でもさ、これから料理するんだろ? 制服汚れたら困るだろうから、着替えて来いよ」
言うと、不機嫌そうな表情を引っ込め、いつもの無表情に近い微表情に戻った柊は、どこか不審そうな眼差しをこちらに向けてきた。
「兄さんが、気遣い……? 何だかこちらも、他の女の匂いがします」
さっきから何だ他の女って。どうやったらその気配や匂いを感じられるんだ。
でも確かに、制服の上からエプロンでは汚れてしまうという発想が出てくるのは、先日の調理実習の影響が大きいだろう。
皆で材料を持ち寄ってポークジンジャーソテーを作る日だったのだが、離れた席の東海堂さんを見つめていたら、そんな会話が聞こえてきたのだ(そういえば、あの日が制服にエプロン姿だった。貸出のパッとしないエプロンだったが、確かに可愛くてドキドキした)。
「まあ良いです。確かに兄さんの言うことにしては一理ありますね。着替えてきます」
どこか棘のあるセリフを言い残し、柊は階段を上がっていく。自室で着替えてくるのだろう。僕もエプロンは持っていないが、汚れても良い服にさっさと着替えて、彼女を手伝うべきだろう。
階段を登る。柊の姿はすでになく、扉が閉まる音がした。2階には3部屋あり、僕と柊それぞれの部屋、そして物置部屋だ。
椿の飾りがつけられた、赤いプレートのかかった扉を開ける。床に鞄を置いて、制服を脱いだ。
ワンポイント入りのスウェットの上下に着替え、部屋を出てリビングに降りる。
妹の姿はまだなかった。
ただぼうっと待っているのも何なので、軽く家を見回ってみた。どこも掃除したてのようにピカピカで、洗濯物はたたみ終わっていて、それぞれ後は自分が運ぶだけ、と言ういつもの状態になっていた。
妹が全部やってしまったのだろう。それほど遅く帰ったつもりはないが、完全に出遅れたわけだ。
僕は自分の分の洗濯物を持って、お風呂場に下着を置き、洋服を持って再び階段を上がった。クローゼットに戻して廊下に出ると、ちょうど柊の扉も開くところだった。
「あ、兄さん」
どこか嬉しそうな表情になった彼女の服装は、なぜか他所ゆきのワンピースだった。
「なんでだよ!」
思わず大声で突っ込んでしまうと、微表情はすんと消え、いつもの無表情に戻る。
「何故と言われましても……。この服が一番、エプロンに似合ってしっくりくるかと思いましたので」
改めて服装全体を見回すと、確かに、選ばれたよそゆきの黒いワンピースは程よいフリルが施してあり、薄いピンクのエプロンと良くマッチしており、まるでメイド服のようにも見える。見えるが……。
「いや、汚れるから着替えて来いって言ったよな……?」
「言いました。確かに制服は汚れると困るので、着替えました。この服なら黒で汚れも目立ちにくいですし、クリーニングに一週間かかっても問題ないかと存じますが、お兄さま?」
どうやら柊もメイドを意識しているようで、丁寧な敬語でそう言った。理知的で賢い妹に、淡々と言い返されると、自分が間違っているような気分になるから不思議だ。
え、僕間違ってる?
脳が混乱したまま、「まあまあお兄さま」と背中を押されて、階段を降りる。後ろから押されつつ階段を降りるのはちょっと怖かったが、何とか階下にたどり着く。そのまま背中を押された先は、キッチンだった。
「さあ、晩御飯を作りましょう」
気づくと、時計はもう17時半を指していた。もうそんな時間か。
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