兎-- 投稿作品

@ALBUM-38

雪影

連日の吹雪で道路はすっかり埋もれ、私は米屋に灯油を買いに行かねばならなかった。一刻も休まることのない大自然の慟哭が頭蓋に反響し続け、思考の種火は全て吹き飛ばされんばかりだった。


このような日には亡くなった父の姿が思い起こされる。


「うにゃーん。」


ササミをくくりつけた割り箸を右に左に寝転がりながら動かす父は猫の挙動に夢中で、今にも彼の背中を毛玉だらけのパジャマ越しに焼かんとする電気ストーブの悪辣さに気がつかない。


対する猫、ステラと言った、は父の顔とササミとを交互に見比べ、さも気まずそうに右前足だけで獲物を捕捉しようとする。ステラがこの擬似野生ゲームに飽きていることは父を除いて誰の目にも明らかだった。「そうれ」と父がササミを空中に引き揚げると僅かの葛藤の後に跳躍までしてみせた。このように惻隠の情を持った哺乳類を指してエゴイストだと罵る者はいないだろう。


熱風を受け止める父の背中はあの日の頼もしさを失ってはいないが、また一段と白髪が増えた。退職してからは髪を染めることをやめて一気に老け込んだ。そうか親父、もうそんなに長くないのか。


ピ。ぼうううう、どん。……


見かねた私が電気ストーブを消すと物が散らかった居間には線を張ったような静寂が訪れ、窓外の吹雪がやたらと鮮明に聞こえるようになった。この場に居合わせた三者はしばらく沈黙してそれを聞いた。


「ステラ、おとちゃん疲れちゃったからまた後でね。」


父は私とは目を合わさずに、一言も声をかけずに、電気を消して部屋を後にした。床の軋みが遠くなってゆく。やがて風が窓を強く殴り始めたが、私は決して居間の方を振り返らず自らの部屋に戻っていった。



雪原は大きなマットレス、夏が寝静まったベッドを彷徨う小人。一帯はかつて稲田いなだとして機能していたため、畦道あぜみちだった地面を遠くの山々と自分との距離を頼りに探しながら歩かねばならない。そうして白の世界に独創性のない足跡だけがとり残される。このように雪原を歩くものは自由を許されず、芸術家にもなれない。窓から恋しそうに外を眺めるステラは知ることもない。


芸術家の才。


父がお前を温かな世界に監禁した。お前が画筆を持つのならば自然を称える絵を描き、言葉を持つのならば誰かを誹謗して富を稼ぐのもいい。そうすれば雪の降らない街で、この先も温かな世界にいることができる。誰もがきっとそれを望んでいるはずだ。



期せずして最も古い建築となってしまった米屋。ガラス扉の向こうに錆びついた精米機の横顔がモアイのように佇む。かつての新車のような輝きは年相応の幽寂へと沈み、あの日の父のように目を瞑り、ただ黙して窓外の吹雪を聴いている。あれはいつ頃だったか。化け屋敷だと噂が立ち始めてから軒下で自販機が立ちんぼを始めてしまい、モアイをすっかり隠してしまった。


真紅の自動販売機は何やら吹雪のなかで独り言を呟くのであった。何を言っているのかわからなかったが、それを聞くと朦朧としていた意識を取り戻すことができた。肺に忍び込んだ冷気をもう一度力強く飲み込み、そのままの勢いで米屋の扉を開ける。


外の雪燈ゆきあかりが陳列棚に輪郭を与えているがそこに何も置かれてはいない。がらがらと開けた扉の音が今ゆっくりと木の板に染み入っている。早く次の音を立てなければ自分までもがここに永遠に囚われてしまいそうで、思いきり息を吸うと鼻の奥で干し藁の匂いが暴れた。右頬に貼り付く精米機の視線に気がつかない振りをしながら進むと、今度は真正面の古時計と目が合う。


灯油タンクを拾い上げ、皿に三百円を置き、私は俯いたままに米屋を後にした。

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