プロローグ2 意識の狭間で
砂埃の塵っぽく乾燥した空気が鼻先をかすめる。
どれくらいの時間が経ったのか、はじめに得た感覚はそんな些細とも言える情報だった。
数秒なのか、数時間なのか、或いはもう何年もずっとそうしていたのか。
意識がはっきりしない。
「砂埃……」
俺は確か自室でただ前方をクリックするだけの作業を数百時間延々とこなしていたはずだ。
しばらく呆然としていた。
雲が流れ、空の高いところを飛ぶ鳥を眺める。
多分今も体の方は黙々と作業を続けているのだろう。
ぼんやりとした頭の隅になんとなくそんな感覚がある。
しかしここは見渡す限りの荒野だ。
赤茶けた岩肌以外に何も見えやしなくて、その先につながっているのは青い空――つまり地平線のことごとくが岩と土だった。
そこに一点、わずかに見える緑の塊を目指して俺は進んでいる。
近づくに連れて段々とそれが単なる点ではなく様々な要素の集合だということがわかるようになってきた。
色ものっぺりした単色ではなくいろいろな色が混ざった緑だ。
それからしばらく、ようやくの思いで俺は下草の生える森の裾野にたどり着いた。
どうやらこの森はジャングルのようなエキゾチックなものではなく、足元には下草とふわふわした苔、頭上には密にならない間隔で細い幹の広葉樹が生える上品な感じの森らしい。
今のところ見かけるのは足元を跳ねる羽虫とそれを追うトカゲやカエルくらいで、木々の間を澄んだ風が通るのが心地良い。
不思議な体験だった。
読書――とくに小説なんかを読んでいて、集中しきってすっかり物語の世界に入り込んでしまうということがある。
思考が加速して、書かれていない風景までも脳内で補完して世界が広がっていく感覚。そして気がつけば何時間も経っていたりする。
そんな感覚に似ている。
「空腹と睡眠不足で頭がどうにかなったのか?」
状況を訝しみながら俺は更に体感にして半日ほどその森を彷徨った。
一際広い葉を広げるシダをかき分けた先でようやっと食べられそうな木の実を見つけることができたのは日が傾きかけた頃だ。
いい加減限界を迎えていた空腹。
心身が歓喜する。
「……空腹?」
どうしてゲーム内の、妄想の中の自分が空腹を感じるんだろう。
現実世界の感覚が反映されているとでも言うのか。
いや、実際その通りなのだろう。
だとすればここで何か食べたところで腹がふくれることはない。
「それでも……」
走って木の下に駆け寄り、ジャンプして食べられそうなものをもぎ取る。
掌くらいの赤い実だ。
見た目はスモモのように見えるが、果たして食べられるのだろうか。
嗅いだだけで喉が鳴るような何とも言えない濃厚な香りを漂わせているが、毒でも入っていてはたまらない。
とは言え最早選択の余地はない。
それに考えてみればおおよその毒はパッシブスキルの効果でレジストできるはずだ、などと慣れ親しんだゲームの感覚が補足する。
それに目立つ色の実は動物に発見されやすくするためで種を遠くへ運んでもらう目的があると聞いたことがある。
「ええい、迷っていても仕方ない…!」
思い切って一口かじると、ほのかな酸味とさっぱりした甘み、それから何と言っても乾ききった口の中を満たす溢れ出る澄み切った水のような果汁。
次の瞬間には毒のことなど忘れ、俺はしばらく夢中で実をとっては食べていた。
「ンゴンゴゴ、ンゴッ」
口いっぱいに果実を詰め込みながら思った、もうこの際これで死んだとしても悔いはない、と。
そんな至福の感覚の中ふと意識を向けると、頭のどこか冷静な部分では体力ゲージの回復を確認している。
「俺が極上の味に補完した果物も実際には画面上のステータスバーの僅かな増減にすぎないってことか…」
たらふく実を食べてあまりの満足感に木の根元に転がってしばらく休んでいた。
なんというか、とても幸せな気分だった。
幸い時間がたっても体に変調を来すこともなく、どうやら毒はなかったらしい。
「やれやれ」
数日ぶりに、ようやく人心地着いたと言うものだ。
やがて立ち上がった俺は今後のために実を少しばかり失敬して再び歩き始める。
よくよく観察してみると足元のあちこちに小さな澄んだ小川が流れている。
苔むした泉の湿地。そんなイメージだろうか。
沼のような状態になっていないのは水はけの良い土壌なのだろう。めくってみると苔の下の地面は土と言うより軽石の砂利のようだった。のっぺりした地面だと思っていたが、現実なら当然そこにも生態系があるというわけか。
調べるべきものもないような見通しのいい森なので暇にかまけて苔をめくって見たり、岩の陰を覗き込んだり形の良いものは拾ったりしてみる。
一応ボーナスステージのようなものだろうし、なにげないアイテムでも持って帰って露天に並べればいい稼ぎになるかも知れないという打算もあった。
なんといってもまだ誰もたどり着いたことのない未踏破エリア。さすがの俺も感慨深いものがある。
この高揚感はそういう理由で生じているのだろうか。
時折珍しげなものも見かける。
光る綿毛のような植物や、微振動する小石など見たことのないアイテムがある。
「もしかするとここは次期アップデート用のゲーム内βオブジェクトストレージのようなものなのだろうか?そこで無理難題をクリアしてたどり着いた極少数人に事実上のクローズドβテストを行うつもりなのでは……」
開発者は適当にアイテムを設置して勝手にプレイヤーが現れるのを待つだけで、プレイヤーは未実装のアイテムを先行入手できるというわけだ。
「企画としては面白いし、無くはないかもしれないな」
とりあえず目についたものを拾いつつ歩を進める。
もし持ち帰れればこの情報と合わせてRMTで一儲けできるぞ、などとこの時はまだのんきにゲスな事も考えていた。
そのまましばらく行くと前方に大きな影が見えてくる。
近づくとそれは土色の塊になり、はっきり確認できる距離にまで近づいたところ、どうやら何かの遺跡の残骸のようだ。
神秘的な雰囲気、いかにも古代ダンジョンという趣。
膝までくらいの深さの泉に周囲を覆われている。
俺はさっそく透き通った水の池を渡って遺跡へ向かう。
この深さになると小魚のようなものが時々横切っていくのが見えた。
「おっと、ついでに水ももらっておくか」
ウィンドウを呼び出してイベントリ数%分の水を確保する。
水ならあればあるだけ良いというものだ。
汲み取った水のステータス表示は”淋水”。
やはりこれも今までに発見されていないアイテム。
おそらくこれを使って作ったアイテムには製造時にボーナスが期待できるといったところだろうか。
中程あたりで腰まで浸かりながら当面の水を確保して真ん中の島に上がると、ソレはやはり遺跡のようだった。
絡まった太い蔓が歴史を物語っている。
辺りを確認するが何の気配もない。
どうやら少なくとも中に入らないかぎりは安全な場所らしい。
周囲を一通り歩き回ってみたところ、端の方に瓦礫に埋まった階段が見つかった。
「なんとか間を通って降りられそうだが……」
他はあらかた調査したのでここを放置するわけにはいかないのだが、いかんせん危なげなバランスで瓦礫が積み重なっている。
「よりによってこのタイミングで崩れるということもなかろうが…」
演出のための単なる環境オブジェクトであることを祈りつつ意を決して階段を降りる。
しかし。案の定ともいうべきか、しばらく進み階段から踊り場のような場所にたどり着いたところで、「ガッゴーンッ!」と入り口の方で盛大な崩落音が聞こえる。
「あ、やっぱり……?怪しいとは思ってたけどやっぱりそういう展開か!そうりゃあこれだけのユニーククエストならそれくらいのイベントはあって当たり前だよな。まさかノーセーブで、リログしないと復帰できないとかじゃないだろうな……」
不本意だが退路は絶たれた。
さすがに万が一死亡したとしてもこのクエストに再びトライしようとはさすがの俺も到底思えない。
やむなく独り言をこぼしながら歩を進める。
脱出用ポータルをいくつか持ってはいるけど、崩落の影響か使用不能になっている。これもお決まりといったところだろう。
幸い古代の技術なのか通路は真っ暗闇ではない。どうも側壁に使われている石材が微発光しているらしい。
薄ぼんやりとした青白い光の一本道進む。
自分の足音だけが響くというのがなんだか余計に心細い。
暫く行くと通路の脇に甲冑の残骸を見つけた。何人か分の折り重なった遺骸はとうに朽ちて白骨化している。
明らかに何かと交戦してやられたという有様だ。
退路が閉ざされた以上進むしかないが何かがいることは間違いないらしい。
といってもこれに関しては間違いなく単なる装飾オブジェクトでしかないわけだが。
それから幾ばくも進まない内に前方に動く影が。
瓦礫の後ろから様子をうかがうと、外に生えていた木ほどの太さもあろうかという大蛇がズルズルと蠕動しながらとぐろを捲いている。
見たことのないモンスターだ。
情報がない上にこの空間では様子見もままならない。
あまり気は進まないが仕方がないのでぶっつけ本番だ。
慎重に現在の愛用武器を構える。
”ルーンバラスト Lv.7”
真紅の宝石が象嵌された柄に黄緑色の燐光を纏う刀身。
身の丈程もある持つ
こいつを強化するのにいったいいくらつぎ込んだことか。
幸いこちらはまだ見つかっていない。
「それなら…!」
先手必勝とばかりに全速力で一気に距離を詰め、通り抜けざまに剣を振り下ろす。同時に武器固有スキル"グラヴエッジ"が発動、重力を伴った斬撃を大蛇の横っ腹に撃ち落とす。
突然の攻撃に怒り狂った大蛇が闇雲に巨体を振るう。
「だめだ、仕留めきれない!」
さすがに一撃というわけにはいかないようだ。
もう何年もやって癖になっている動作で指がショートカットキーの位置に動き、いつでも回復アイテムを使える体制に。
これが小物細工か何かなら職人の域に達していそうな熟練の業だ。
しかし結果的に回復アイテムを使うには至らなかった。
敵の初撃に焦って一回無駄押ししてしまったが、アイテムを使うほどのダメージではない。しばらく応戦すると思いの外行動パターンも少なく、その後は意外とあったり倒せてしまった。
それからも進むごとにいくらかの魔物に遭遇した。
牛ほどもあろうかというトカゲや、通路を完全に塞いでしまうほどの蜘蛛、広いスペースに出れば巨大コウモリと、とにかくスケールが大きいのだが、いかんせん今の俺にとってはそう強くはない。
せいぜい中位の一番下くらいの迷宮という感じだ。
なぜ今更こんな低レベルなダンジョンをと少し不思議なくらいだが、そもそもレベル制限のある区域ではないので誰もやらなかっただけで、内容としては中版にクリアできる設定のダンジョンだったのかもしれない。
ネトゲにおける中盤の言うのはメインのシナリオが終わった当たりなので、必要アイテムからもだいたい妥当に思える。
感覚としては棒きれで野良犬を追い払っているようなもので、大きな苦労もなく最奥と思しき広間にたどり着いた。
強いて言うなら最後の棘だらけのイカツイのは大型犬くらいには怖かった。
広間には中央に祭壇のようなものが設けられており、敷布の敷かれた台座の上に一振りの剣と堅牢そうな拳大の小箱が置かれていた。
その向こうにはこんもりと財宝が小山のように積まれているのが見える。
「今のところ財宝は使い道がないんだけどな」
などと呟きながらももちろんひとつ残らずイベントリに回収する。
ちなみに財宝はゲーム内の貴金属、現実で言う金に当たるような素材の”デグラスカ銀”と呼ばれる素材でできているのだが、コレ自体には固有の有用性はなく貨幣に準ずる通貨のような扱いだ。
主に通常売買できないアイテムの取引の際、便宜上の物々交換を成立させるためによく使われる。
あらかた遺跡の盗掘を終えた俺は、中央に戻り祭壇に置かれた剣に手を添える。
けして派手ではない実用的な装飾が施された柄を持ち、鞘を払うと漆黒の刀身が姿を表した。
”叡剣ラウダビリス”
《宵を纏いし廻天の刃は万物の理を断ち持ち主を導く》
金属の刀身が重い青の光を纏っている。
直視するのも躊躇われるような宝剣だ。
「今の俺のステータスでも装備不可か……どうやら一番の報酬アイテムはコレだな」
刀身を仕舞い、他の宝物と一緒にイベントリに格納する。
財宝も含めこれだけあるとさすがに一仕事だ。一応大雑把に項目別に整理したものの、さすがに完全に分類するのは時間がかかりすぎる。
後日時間のある時にやればいいだろう。なにせ時間だけはいくらでもあるのだから。
空腹と眠気でいよいよ思考力が低下しているのか、それでも都合1時間位は整理に費やしてしまった。
「ようやく片付いたな」
いい加減寝食を成さねばいよいよ本気でぶっ倒れてしまいそうだ。
「っと、そういえば剣の横に置かれていた小箱のことを忘れていた」
ぱっと見て明らかに異物だ。
この台座は剣を置くために設えられたもので、こんなよくわからん箱が乗っているのはいかにも全体の調和を乱している。
なんだかむず痒い気持ちになりながら箱を手に取り調べる。
材質はデグラスカ銀のように見える。
金属の堅牢なフレームに特定の操作をしないと開けられないたぐいのギミックが仕掛けられているようだ。
当然のようにステータススキャンも受け付けない。
とてもではないが今解くのは無理だろう。
とりあえず仕舞っておこうと持ち替えた瞬間、ガコン、という聞いたことのない音。
続いてキュピンという聞き慣れたポップアップウィンドウの音。
《イベント発生通知》
→クエストアイテムを確認
→賢者の研鑽、聖なる土塊、原初なる魂を消費し、特殊クエスト【変革者の再臨】を開始します
「え、発生通知!?クリアじゃ――」
直後、ブツリ、という意識が消滅する感覚に襲われた。
多分俺の限界を超えた眠気と空腹はこれから新イベントに挑戦しなければならないという状況を全力で拒否したのだろう。
俺は知っている。
これは、寝落ちだ。
強烈な浮遊感とともに意識が暗転した。
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