◆4.『献身の夜』
物語の糸を巻き取るように、季節を一つ
それは冬のある一日のこと、雪もよの白い夜のことでございました。
その日、三人は街道を外れた森の中で終日を過ごす羽目に陥っておりました。
旅程を先に進めることはならず、かといって昨夜の宿を取った宿場へと引き返すことはこれもまた叶わぬ、そういったひどくままならない状況に彼らは置かれていたのです。
リエッキが、突然の
その朝、苦しげな
誰がどう見ても尋常を大きく逸した病体です。
ひとまず、ユカと踊り子の二人はリエッキの変身が完全に解けてしまう前に取り急ぎ町を脱することにしました。踊り子が荷物を抱え、ユカがリエッキを背に負ぶって。
そうしている間に変身が解けてしまえば、そのときはユカなんてひとたまりもなくぺしゃんこです。ですが、そんな危険の認識は彼の頭にはありません。
それほどまでにリエッキの状態はひどくて、それほどまでに親友を案じるユカの心は切迫していたのです。
そうした次第を経てどうにか森へと人目を逃れたあとには、しかし次なる問題がすぐさま
森という場所に慣れたユカが身を隠すのに適した空間を
なにしろ病気のドラゴン、しかも人間の姿をした病気のドラゴンなんて見たことも聞いたこともない二人です。なにをどう看病したものか
「困ったなぁ」とユカが独りごちて、
「困ったねぇ」と踊り子がそれに応じます。
そうこうしているうちに……ああっ! 弱り目に祟り目とはまさにこのこと、ついには雪まで降りはじめたではありませんか。
とにかく、行動は続けられます。
ユカは薬草という薬草を片っ端から採取してかき集め、ついでにリエッキの大好物を見つけ出して巣ごと丸ごと頂戴し(冬篭もり中のヤマミツバチたちには気の毒なことをしてしまいました)、あとは彼女に寄り添いながらずっとその傍に居続けます。
一方踊り子はといえば、彼女は有り金のすべてを持って町と森とを何度も往復して、必要なものから必要とは思えないものまで、片っ端から買いそろえて参ります(売れっ子芸人が二人もいたので、幸いお金は十分にありました)。
そうして半ば現実逃避にも似て忙しく動きながら、二人は手探りで看病を続けました。
けれど、やがて冬の早い夜がやってきても、リエッキの容態は一向に改善しません。
弱り切って、二人は折り重なる
ですが、灰色の厚い雪雲に覆われている空に星はありません。
ユカと踊り子は揃ってため息をつきました。
「……ねぇユカ君、あたし、もっかい町に行ってくるね。ほら、酒は百薬のなんとかみたいな言葉もあった気がするしさ。とにかくお酒、買ってくる。もちろん蜂蜜酒をね」
そう告げると、踊り子はランタンを片手に闇の森を町へと出発します。気をつけてね、ユカは遠ざかる背中に言葉をかけます。期待よりは気遣いをより多く声に宿して。藁にも迷信にも
踊り子を見送り一人になって、ユカはリエッキに目をやります。草の寝床で、踊り子が買ってきてくれた毛布に子供のようにくるまって震えている彼女に。
まだ、リエッキは人間の姿を保ったままです。しかしそれでも、身体のあちこちではさっきから鱗が出たり消えたりしています。薄く開かれたまぶたの向こうには、人間ではあり得ない青い
異様の極みにあるその様子を、ユカは少しも不気味だとは感じていませんでした。
彼はただ彼女の辛さと苦しさの度合いをそこに見て、こう思っただけです。
僕が代わってあげられたらいいのに。
梢の連なりを通過してきた雪のひとひらが、リエッキの赤い頬に落ちて溶けました。
力無く横たわる半身を少しだけもたげさせて、ユカはリエッキの後ろに我が身を滑り込ませました。
そして雪から、あるいは世の中のすべての苦しみから守ろうとするかのように、彼は彼女を背中からぎゅっと抱きしめます。
「君、随分熱いぞ」
少年は少女の竜に言いました。彼の腕の中、親友の体温は危険な水準に達しています。
ユカの中で心配と不安はいやまします。ですが、そんな内心は努めて表に出さないようにして、彼は
「ねぇ、だったらさ、こんなのはどうだろう? 君を苦しめているこの熱を取りだして、空気の層みたいにして僕たちのまわりに張り巡らせるんだ。見えない屋根とか、じゃなければ霊気の障壁みたいに。そしたら冷たい雪は僕と君に届かないし、君も熱が引けて苦しくなくなるだろ? ね、まさにこれって一石二鳥ってやつじゃないかな?」
どうかな? とユカはリエッキに意見を求めます。
けれど彼女は
「……さっき君、うわごとで僕の名前を呼んでたんだぞ。ユカ、ユカ、って。『さしものリエッキちゃんも病気のときはまっとうに素直なのね』って、お姉さんたらそう笑ってたよ。治ったらきっとすっごくからかわれるだろうから、覚悟しておきなよ」
リエッキは答えません。
それ以上はくっつけないほどぴったりとリエッキに身体を密着させて、両方の膝を立ててしっかりと抱え込んで、ユカは身体全体、自分の存在の全部で彼女を包み込みます。
このとき、ユカの意識のすべてはリエッキへと向いていて、だから彼は気付きません。
降りしきる雪が、さっきからただのひとひらも自分たちには落ちて来ていないことに。
雪は二人を円形に避けてその周囲にだけ積もっているのでした。円の範囲に入ったものについては彼らの頭上ですべて溶け消えていたのです。
まるで、見えない熱の障壁に触れでもしたかのように。
「僕が代わってあげられたらいいのに」
親友の
「……君の病気を、僕が肩代わりしてあげられたらいいのに。……うん、そうだよ、そしたら全部うまくいく、なんたって僕は人間だから堂々と人間のお医者に診てもらえる。 それに病気は人にうつすと治るって聞くしさ。ねぇリエッキ、そうしようよ?」
ほら、僕にうつしなってば――親友の肩越しに、彼は彼女の頬に自分の頬を重ねます。
ユカの全身を
暴力的なまでに強烈な悪寒が。
毛穴という毛穴から力が抜けていく感覚をユカは覚えます。
意思にそむいてまぶたがびくびくと
「な……なにこ――……ッふ」
なにこれ――そう発しようとした言葉は、暴走する鼓動と乱れた呼吸に圧されて潰えます。
全身が燃えるように熱くて、なのに氷のような寒気を身体の芯に感じます。
目が
と、そのとき。
「……ん……な、なんだ? ……わたし、どうなってたんだ……? なんだか死んじゃいそうに苦しくて、なのにそれが急に楽になって……」
すぐ間近で、さっきまで虫の息だった少女が不思議そうに言いました。
ジィィィィと鳴り続ける耳鳴りの向こうに少年はその声を聞いたのです。
戸惑いに満ちた声。
だけど病苦の影は完全に消え去った、元気になった親友の声を。
その一瞬、ユカはすべての苦しみから解放されて、笑顔さえ浮かべておりました。
安堵を胸に、少年はそのまま背後にぶっ倒れます。
二人の密着はほどけて、二つの身体が合わさっていた部分からは、二冊の本が気付かれることもなくこぼれ落ちました。
「……は? え……ええええええ ユカ、なんであんたがこんなんなって……と、とにかくしっかりして、おいしっかりしろってば! わっ、うわっ、すごい熱が出てる!
おい、ユカ、ユカってば――!」
ユカの記憶にあるのはここまでです。
ここから先の事情は、すべてあとになって踊り子から教えてもらったことになります。
たとえば彼女が戻ってきたとき、涙目のリエッキが
朝方とは反対に、今度はリエッキがユカを背負って医者に駆け込んだとか。
蜂蜜酒の入った水差しを見たユカが、意識を失いかけていたにもかかわらず「僕はお酒よりも飴が欲しいなぁ」と注文をつけたとか(これもユカにはまったく覚えのないことです)。
それらを、彼は丸二日が経ったあとの病床で聞きました。
好物の飴玉を載せたお皿と一緒に、枕元には二冊の本が重ねて置かれていました。
立派な革張りの表紙には、それぞれ『ほとぼりを手繰る見えない手の物語』と『献身の夜の物語』という表題が記されています。
言われなければ板と見まごうほどに薄いその二冊は、どちらも森での夜にユカが発現させた彼の新しい魔法でした。
『ほとぼりを手繰る見えない手』は熱を操る魔法、そして『献身の夜』は他人の怪我や病気を自分に移してしまう魔法です。
この二冊目の効果によってユカはリエッキの
「どこまでもびっくりさせてくれるなぁ、君って子は。いっぺんに二つも魔法を生み出しちゃうなんてさ。愛の力ってつくづく偉大だなぁ」
踊り子がうんうん肯きながらそう言い、それに反応してリエッキがしどろもどろになって……と、こんなところでこの一件はおしまいです。
一件落着してめでたしめでたし、終わりよければすべてよし、
言えたでしょう。
ここできちんと終わっていたならば。
残念ながら、物事には往々にしてつかなくてもいい後日談がついてくるものです。
そしてまた往々にして、全体を俯瞰したときにはその後日談のほうが本題よりも大きな比重を占めるものでございます。
読者よ。
最初にお断りしたように、この物語の主人公はどこまでも平凡な少年です。
リエッキという友達がいたればこそ数々の幸運に恵まれ魔法使いとしても覚醒した彼ですが、しかし世の冒険譚に語られる英雄たちとは比べるのも情けない主人公です。
では、勇者でも賢者でもなかった彼は、はたして何者だったのか?
もちろん、物語師です。
それも、時にはた迷惑なほどの、筋金の入った語り部です。
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