■9/了.語り手と聴き手
図書館。百年後の図書館。
友を
理想の図書館の、その残骸。
在りし日の
記憶と存在の袋小路。
その時間と空間の中を、人の姿をした一頭の竜は
さながら幽鬼の足取りであった。書架と書架の狭間を、リエッキは確たる意思も持たぬまま歩み続ける。
寂しさが胸を満たしていた。
悲しみが心を刺していた。
もう親友に会えないことが死にたいほどに寂しく、時間に置き去りにされたこの身が呪わしいほどに悲しかった。
どうしてわたしは竜なのだろう、と彼女は思う。
どうしてわたしは人として死ねなかったのだろう。
宝を貯め込むドラゴンの習性、その理由の一説に『死を求めるが故に』というものがある。
定命を持たず、しかしその気高さ故に自ら命を絶つこともできぬドラゴンは、自分を殺してくれる存在をおびき寄せるために宝を
いま、リエッキにはその奇説が理解できる。
「……寂しいよ」
無音の闇の中に呟きの火が灯る。
涙の声だった。
「あんたに会えないのが、寂しいよ。あんたがもういないのが、悲しいよ──ユカ」
そして彼女は立ち止まる。
書物の宇宙のただ中で、リエッキはもう一歩も歩けない。
牛頭と赤子が図書館にやってきてからもうすぐ季節が一巡する。
騒々しい日々の中で、リエッキは悲しみを忘れかけていた。
最初は強引に巻き込まれていただけの子育てに今では渋々を装いながらも自ら参加して、牛頭の子育て講釈に聞き入っている自分に気付きはっとすることもある。
そうして赤子の世話に追われるうちに、彼女は夢見ることから遠ざかっていた。
しかし今日、悲しみは覚醒の
どうして、と、彼女は声に出さずに叫んでいる。
どうしてわたしは人間じゃなかったんだ。
そして、どうしてあんたは竜じゃなかったんだ。
彼女の親友は人の身としては十分に長く生きた。そしてその長い人生の中で、彼は一人の人間が生涯に成し得る限界を超えて多くのことを成し遂げた。
最強の魔法使い、深きの森の司書王、その名は人の世の伝説として永久に語られ続けることだろう。
だけど、それがなんだというのだ?
親友がこの世を去ってからしばらくして、どうやってその死を聞きつけたものか、どこぞのやんごとなき一団が訪ねてきた。
人間世界の代表を気取ったそいつらは一人取り残されたリエッキに言ったのだった。
司書王の死は人の世全体の損失です、と。
彼らの
しかしそれでもそのとき、彼女は我を忘れるほどに怒り狂った。
『司書王がどうした! そんなやつ知ったことか! いいか、わたしはユカを喪ったんだぞ!』
竜の本性を剥きだしにし、今にも炎を吐きそうな剣幕で彼女はそう吼えた。
偉大なる司書王。最強の魔法使い。そんな肩書きはリエッキにはどうでもいいことだった。
いくら人間たちがそれを重視しようとも、彼女にとって親友はただ彼でしか──ユカでしかなかった。
彼が子供の頃からずっと。彼が年老いてからもずっと。
そして、彼が死んでからも。
人の世に語られるのは司書王の伝説だ。それは、ユカという個人に焦点をあてた物語ではない。
だから、そんなものがなんだというのだ。
弔問団を追い返した出来事が原因だったというわけでもないのだろうが、ともかくそれ以降、図書館を訪れる客はぷっつりと途絶えた。
時折やってくる、司書王の遺産狙いの盗賊どもを例外としては。
それら悪意を持った侵入者たちに、リエッキはその都度一応の警告を与え、それが無駄だとわかるや皆殺しにして書物の
血に酔ったあとにはひどく虚しい気分だけが残された。
しかし、それでも彼女は図書館を守り続けた。
司書と読者は失われて、享受する者を失った静寂はただ無意味な沈黙へと堕して、それでも彼女は番人であることをやめなかった。
この図書館が番人のためにこそ用意された場所であると知っていたから。
「でももう、
百年のあいだに幾度繰り返したかわからぬ呟きを、彼女はいま一度口にした。
あいつがもしも竜だったなら。一緒に無限の時を生きてくれたなら。
いいや、たとえもう二度と会えなくても、どこかに生きていてくれたなら、それだけでわたしは──。
「……さみしいよう……かなしいよう……ユカ……ユカぁ……」
図書館の床に背中を丸めて蹲り、子供のように泣きはじめる。
いまの彼女と恐ろしき暴力の化身たるドラゴンを結びつけて考えられる者が、はたして一人としているだろうか。
華奢な肩は小刻みに震え、啜り泣きの声は
その様はあまりにも頼りなく儚かった。
再度、リエッキは呟く。
わたしはわたしをやめてしまいたい。
と、彼女がそう口にしたのとほとんど同時に、すぐ近くでなにかが落ちる音がした。
ひとりでに本棚から落ちた一冊の本が、開かれた書面を下にしてそこに転がっていた。
なにかに誘われるように、リエッキはそれに手を伸ばした。
伏せた状態で開かれていたページに指を入れて持ちあげ、そのまま開いた状態で膝の上に置いた。
不思議な本だった。
外観は普通の本と同程度の厚みで、たとえば数千ページからなる百科図鑑のような分厚さはない。
にも
物語。
そう、それは物語だった。
しかし、そうとわかることがまた一つの不思議だった。
なぜならその本は読まれることを拒否していたのだから。
書かれている内容のすべてが記号めいていて、判読を
まるで、本自体が意思を持って読み手を選んでいるかのように。
開かれていたのは一番はじめのページだった。
読めない本に、リエッキは自分でもどうしてそうしているのかわからぬまま視線を走らせる。
そして、記号の羅列の中に、たった一ヶ所だけ読み取れる箇所があるのを発見する。
まるでその部分だけが光を放っているかのような印象を彼女は抱く。
視界を曇らせる涙をぬぐい去り、リエッキはそれを読み取る。
『読まれる限り、物語は不滅です。読み手のある限り、物語は死にません』
瞬間、流れ続けていた涙が凍り付いた気がした。
無数の記号に埋もれるようにしてそこにある一節を、彼女はただ失語して凝視する。
これが普段であれば、きっと変哲のない言葉として気にも留めなかったに違いない。
けれどこのときの彼女にとって、それは天啓にも等しい一節だった。
「読まれる限り、物語は死なない……」
リエッキはその部分を声に出してみる。
「だったら、あんたも不滅なのか? 読まれる限り……いや、別に本じゃなくてもいいんだ。たとえば誰かが語って、誰かがそれを聞く限り……あんたも死なないのか?」
ユカ──親友の名前を呼んで、手にしていた本を胸に抱きしめる。
彼女は声をあげて泣きはじめる。しかし、今度のそれは悲しいだけの涙ではなかった。
彼女はすでになにかを感得していた。
このとき、リエッキはいくつかのことに気付いていなかった。
たとえば抱きしめているその本と自分が、百年の昔に一度だけ出会ったことのある事実に。
そして、記号めいて判読を拒むその内容。なぜそれが読み解けないのか、彼女はその謎に思い至らない。
書物の意思に気付かない。
本棚に目をやると、すぐに一冊分の空きが見つかった。リエッキは手にした本をそこに戻し、愛撫するように背表紙をなぞった。
なぜだか愛おしさを覚えるその本を。
彼女は深く瞑目する。
自分がなにをすればいいのか、彼女はそのことを思う。
やがて目を開けたとき、本棚に戻したはずの本は忽然と消えている。指がなぞっていた背表紙はまったく別の、それこそなんの変哲もない一冊に変わってしまっている。
リエッキはその不思議に
彼女は涙を拭う。服の袖で乱暴に顔を拭いて、清々しくすらある笑顔を浮かべる。
それから、もういない親友に語りかける。
「……寂しくて、悲しいよ。だけどさ、最近のわたしは、どうやら孤独ではないらしいんだ。……なぁ、ユカ」
※
言いたいこと、問いたいことは、きっと山ほどあっただろう。
しかし牛頭は戻ってきたリエッキになにも言わなかった
。彼はいつもの穏やかな口調で、「おかえりなさい」とだけ言った。
牛頭の優しさはリエッキにも通じていた。
だから彼女もただ普通に「ただいま」と応じた。
そのあとで、彼女は嘘のない笑顔で嘘をついた。
「昔の荷物を漁りに行ってたんだ。懐かしいものがたくさんあってびっくりしたよ」
「なるほど、そうでしたか」と牛頭は肯く。「なにか面白いものはありましたか?」
深くは追求せずに話を合わせてくれた牛頭に心の中で感謝し、リエッキは携えてきたものを机の上に置いた。
「楽器、ですか?」
「踊り子と旅をしてたってさっき言ったろ?」
得意半分、照れくささ半分の笑顔でリエッキは答えた。
「町から街へ、酒場から酒場へ……わたしたちは小さな一座みたいなものだった。それで、ある日あの女が言ったんだ。踊り手と語り部がいて、これで弾き手がいれば完璧だ、なんてさ。それからはまぁしつこかったよ。演奏に合わせて踊ってみたいって毎日毎晩……それで、ついに根負けしたんだ」
語りながらリエッキはそれを抱え直す。
現在の主流となっているものとはかなり形状の違う、奇妙な形の弦楽器。
不滅の老賢者により考案された神話を持つ民族楽器だ。
白い指が弦を爪弾く。調弦は狂っておらず、音階は正しく刻まれる。
時の彼方からやってきたその音色に、リエッキは満足そうに肯く。
「そういえば、戻ったらお前に言おうと思ってたことがあるんだ」
「はい、なんです?」
「ありがとよ」
唐突に礼を言われて、牛頭がきょとんとした顔をする。
「いったい、どうしたんです? それにそれ、いったいなにに対するお礼なんです?」
「さぁな、自分でもよくわからないんだ」
リエッキは応じる。
「ただ……うん、たぶんこういうことなんじゃないかと思う。語り部は聴衆に感謝を示すものだ、って」
ほら、あんたにもありがとうだ。彼女は牛頭に抱かれている赤子に指を握らせる。
そして彼女は演奏をはじめる。
曲調は指が覚えていた。
かつて一番多く弾いた曲。地味な曲だったが、それでいいのだ。
なにしろこれは背景楽なのだから。
「それじゃあ」
彼女は言う。照れを払うように一度だけ咳払いをする。
そのあとで、かつて何百回、何千回と耳にしてきた口上を幾分ぎこちなく模倣して、告げた。
「説話を司る神の忘れられた御名において、はじめよう。こいつは、最も幸福な竜の思い出話だ」
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