■8.リエッキと乳飲み子、牙を剥く思い出

 図書館。百年後の図書館。

 友を失ってから、百年後の。


 書物の呼吸する沈黙が図書館には満ちている。在りし日の弥終いやはてたるその場所で、彼女はこの昼下がりもまた思い出に浸っていた。

 過ぎ去った時間に心を遊ばせていた。


 だが、眠ってはいない。

 この日の追憶は、夢の中に求められたものではなかった。


「次の日は朝から一日中街で過ごしたんだ。市場ってのはなにしろすごかったよ。目と鼻の先に都があるからかそれとも祭りが近かったからか、まぁとにかく、立錐りっすいの余地もないってのはこういうのを言うんだろうなって感じたのをよく覚えてる。あいつは平気な顔してたけど、あの混雑一つとったってわたしにはちょっとした見せ物だった」


 リエッキは語っていた。

 椅子に腰掛けた我が身を、ゆらゆらとと揺すりながら。


「肉、魚、果物……甘いのも辛いのも、美味しいのもあまり美味しくないのも、とにかく片っ端から屋台をまわったよ。そうそう美味しくないのと言えば、あいつの好物だった黒い飴、あれはひどかったなぁ。臭くて甘くてしょっぱくて、およそ食べ物とは思えないんだ。あいつの母親も同じのが好物だって聞いたときには、魔法使いってのはやっぱりどこか普通じゃないって本気でそう感じたよ」


 彼女は語る。そして、語られるからには聴衆がいる。

 だあうう、と喃語なんごの発声があった。

 リエッキの腕に抱かれていた赤子が、なにかを欲しがるように宙に手を伸ばした。

 小さな手に、リエッキは自分の人差し指を握らせてやる。こうしてやるとこの子は機嫌が良いのだと、彼女はそのことをよく知っていた。


 これが聞き手だった。満一歳に満たない赤子にリエッキは語っていたのだ。


「日が落ちるまで遊び歩いて、それで夜になったら、いよいよ酒場に繰り出した。あいつの仕事ぶりを見物する為に。……すごかったな。まだまだ駆けだしだったけど、あいつのかたりが進むにつれて酔っぱらいどもが静かになっていくんだ。……嬉しかったなぁ。みんながあいつの才能を認めてくれてる気がして、嬉しくて、誇らしかった」


 語り部はただ一人の聴衆に向けて微笑みを浮かべる。

 もちろん、乳飲み子は言葉など一つも理解しない。そのことは百も承知の上で、それでもリエッキは語り続ける。


 そうすることで、彼女は夢を見ずとも大切な誰かに再会することができた。


「それに、髪飾りも買ってもらったんだ。人間の美意識なんてわからないから、あいつに選んでもらってさ。で、唖然とした。あいつの感性はわたしよりずっとひどいんだ」


 語りは続く。赤子の機嫌はすこぶる良い。また、不思議なまでに大人しくしている。

 まるで、語り部と物語に敬意を示しているかのように。



   ※



「実のところ、リエッキさんのなさりようは大いに正しかったのですよ」


 その日の晩、腕に抱いた赤子をあやしながら牛頭が力説した。


「赤ちゃんは周囲の言葉に耳を澄ませています。まわりの大人たちの会話を聞いているんですよ。彼らはそうやって言葉を獲得しようとしているんですね。そしてそれは、必ずしも会話である必要はないんです。どんな形にせよ言葉を聞かせることが赤ちゃんの言語の発達には有効なんですよ。たとえば熱心に話しかけるとか、それに、あなたがしていたようにお話を語り聞かせてあげるとか」


 賞賛の言葉を並べる牛頭に、ああそうかよ、とリエッキはぶっきらぼうに応じる。

 どんな顔をして聞いていればいいのかわからなかったのだ。


「実は少しだけ心配していたのです」


 そう牛頭は続けた。


「なにしろこの図書館には、あなたと私の他に大人はいませんからね。吸収するべき言葉はあまりにも不足しています。私も可能な限り話しかけるよう心がけてはおりましたが、しかし内心、この子はきちんと口を利けるようになるのかと不安もあったのですよ。しかしどうです? 私の見るところ、この子は既に喃語なんご期の終わりにさしかかっています。私たち二人がこの図書館に身を寄せてから八ヶ月、大きく見積もってもこの子はまだ生後十ヶ月といったところでしょう。言葉の発達は、遅れているどころか進んでいるほどなんですよ。いや、これもすべてリエッキさんのおかげですよ」

「わ、わたしは──」


 気恥ずかしさに負けて反論が口をついた。

 しかし勢いそのままに発した言葉は二の句を失い、リエッキはそのまま少しのあいだ黙り込んでしまう。


「……わたしは、別に、そんな風にきちんとした考えがあったわけじゃないし……」

「ですが結果はこのように必ずついてくるものですよ」


 赤子に高い高いをしてやりながら、牛頭はきっぱりとそう言い切った。


「あなたがいてくださって、本当によかった。もちろん私にとっても。ですがそれ以上に、なによりもこの子にとって」


 机に頬杖をついたままリエッキはそっぽを向く。視界の外から赤子のはしゃいだ声が追いすがってくる。

 牛頭が微笑みを深くしたのが、見えてはいなくても気配でわかった。


 二人から隠した顔を彼女は赤らめている。

 ああちきしょう、むずがゆい。


「そういえば、今日は髪飾りをつけているのですね」


 まるで自分で突き落とした溺者に自分で助け船を出すように、牛頭が話題を変えた。


「かなり古い物みたいですね。それにその……なんというか、前衛的な意匠ですね」

「ああ、前衛的だとも。それも百年と半世紀以上も前からずっと前衛的だ」


 言いながらリエッキは牛頭へと向かいなおる。


「というかだ、前衛的なんて遠回しな言い方しないではっきり言えよ。『ひどい』って」


 いやぁ、と頭を掻きながら牛頭は曖昧に誤魔化そうとする。どうやら図星らしい。

 リエッキが、ふっと視線を和らげる。


「……ほんと、侮りがたいほどにひどいな。……でも、このひどさがわたしには特別なんだ」


 外した髪飾りを手の中で弄びながら彼女は言った。

 胸の裡に湧きだしてくるものがあった。


「……そういや、あとで再会したときにあの女にも言われたっけ。花だか魚だか虫だかちっともわからない形だって。まったく、人の持ち物に平気でケチをつけやがってさ」

「あの女?」

「流しの踊り子だよ。魔法使いだったんだ」


 リエッキは答え、いつになく饒舌になっている自分を意識しながらもさらに続けた。


「これを買ってもらった前の晩に出会って、それから二ヶ月くらいしてまた再会したんだ。あいつの魔法の師匠でもあった女さ。わたしたちに、色々と教えてくれた」


 司書王の師匠ですか、と肯きながら牛頭が言う。

 適切な相槌だ、とリエッキは感じた。語り手の言葉に興味を持っていると示し、そしてその表現に少しも嘘偽りを感じさせない、語りを促す相槌。

 牛頭への感謝が心中ひそかに芽生える。


「別れたのとは別の酒場でまた出会ったときには、あいつもあの女も大はしゃぎで喜んでた。だけど……正直に言うと、わたしは少しだけ複雑だったな」

「嫌いだったのですか、その女性が」

「いいや、嫌いじゃなかったさ」


 迷いなく、ほとんど即答で応じた。嫌いでなんてなかった。それだけは間違いない。


「でも……うん、苦手なところはあったかな。だってこのわたしのことをちゃん付けで呼んでくるやつなんて、あとにも先にもあの女だけだったんだ。それに──」


 リエッキはそこで言葉を途切れさせる。


『あなた、愛されてるのね』


 あの晩の醜態に最後のとどめを刺してくれた囁きが耳元に蘇っていた。

 あれから百年と半世紀が過ぎて、それでもなおあの瞬間の羞恥しゅうちは彼女の中で有効だった。


「──と、とにかく、嫌いじゃなかったよ」


 大きく頭を振って雑念を振り払い、どうにか気を取り直して続ける。


「そうだな……うん、『天敵』って喩えるのが一番近いかもしれないな。うまい表現かどうかはわからないけど、仲の良いたかと小鳥だって、たまにはいてもいいだろ?」

「あなたに小鳥の比喩を当てさせる女性とは、怖いもの見たさが刺激されますね」


 やかましい、とリエッキは笑って言う。自然で朗らかな笑みだった。

 牛頭は和やかに肩を竦める。


 どこか遠くに失われた情景を見た気がした。その気分に駆られて、さらに続けた。


「再会した夜から、わたしたちはしばらく一緒に旅したんだ。踊り子と語り部、あいつら二人はどこの酒場でも大歓迎されたよ。芸のないわたしは二人の仕事ぶりを見ながら蜂蜜酒を飲んでるだけ。でも、一人で飲む酒の味気なさを知ったのもその頃だった」


 物語は語られる。語り手は語り続ける。聴衆はただ耳を傾けている。

 気持ちは溢れそうになっている。


「結局そのうちに、あいつらが戻ってくるまではわたしもジョッキに手をつけないようになってた。そんなわたしに、一仕事終えて席に帰ってきたあいつらは声を揃えて言ったもんさ、『なんだ、先に飲っててくれてよかったのに』って。でもそういうとき、二人ともすごく嬉しそうな顔してた。三人で乾杯できるのが、三人とも嬉しかったんだ」


 楽しかったな、とリエッキは思う。

 嬉しかったな、と彼女は思う。

 嬉しくて、楽しかったな。


 ──思い出は、その瞬間に牙を剥いた。


 リエッキの胸で、追憶が嵐となって暴威を振るう。

 彼女の親友が、彼女の嫌いではなかった女が……大好きだった二人が、脳裏で彼女に笑いかける。


 そして次の一刹那に、その二人共もうこの地上のどこにもいないのだという事実が襲いかかってくる。


 二人だけではなかった。

 たとえばあの物静かな膚絵師はだえしが、優しかった親友の母が、それにあのまじない使いたちが──彼女と親友に関わった無数の人々の像が、代わる代わるに現れては消える。

 そのうちの誰一人として今では存在していないのだという事実を、烙印らくいんのように焼き付けて。


 時という悪意が彼女にのしかかる。

 思い出というのろいが彼女を責めさいなむ。


 荒く息をつき、悲鳴さえあげそうになりながら、衝動的にリエッキは念じている。


 ──わたしはわたしをやめてしまいたい。


 そのとき、赤子の泣き声が耳に届いた。


「――エッキさん? リエッキさんってば!」


 呼びかける声にリエッキははっと我を取り戻した。

 過去の情景が消え去り、現実が戻ってくる。

 さっきまでは機嫌よくしていたはずの赤子が、けたたましい声をあげて泣いていた。


「……だいじょうぶですか?」


 目の前には友人の顔があった。

 滅多に微笑みを絶やさない悪魔が、深刻に案じる表情となって彼女を覗き込んでいた。


「……牛頭?」


 呆然と友の名を呼ぶ。


「お前、生きてるのか? 今、この現実に……?」

「……? 見ての通りですよ?」


 不思議そうな顔で応じたあとで、牛頭は安堵の息をつきながら「心配しましたよ」と言った。

 声音にはいたわりが満ちていた。彼は泣いている赤子をあやしはじめる。


「ほら、この子も安心したと言ってます。あまりびっくりさせないであげてください」


 牛頭の腕の中で泣き声は次第に小さくなり、やがて完全に静まる。

 その様を見つめながら、リエッキも少しずつ正体を取り戻していく。

 彼女は牛頭を見つめる。いま、確かにこの場に存在してくれている彼を。


「あ──」


 ありがとうという言葉が、無意識に口から出そうになる。

 でもそれがなにに対するありがとうなのか、リエッキにはわからない。


「……少しだけ、図書館の奥に行ってくる」


 それだけ言い残してリエッキは立ちあがる。

 呼び止めようとした牛頭が言葉を飲み込んだのがわかった。なにも言わずに、彼はただ黙って見送ってくれた。

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