■7.心が、言葉が、そして涙が

「ねぇ女給さん。つかぬことをお聞きするけど……あなた、厨房とここを何往復くらいした?」

「え? は、はぁ、たぶん十五か十六か……もしかしたら十七往復はしたかも……」


 十六か十七か、あるいは十八杯目の蜂蜜酒を手に現れた女給の答えに、踊り子の微笑みに淡く苦みが混じる。

 ひとまずおかわりは持って帰ってもらい、踊り子はユカに小声で問いかけた。


「あのさ語り部くん。竜退治の物語に、竜を酔いつぶれさせる展開ってあるわよね?」

「うん、定番だね。お酒はドラゴンの数少ない弱点の一つだって言われてるから」

「……今のリエッキちゃんが相手なら、見習い騎士でも英雄譚の主役になれちゃうわね」


 なんだか悪い予感がするわ。そう呟いた踊り子に、ユカも肯いて同意を示した。


「やれやれ。もう少しだけお話してたかったけど、今日はもうおひらきにしましょうか」


 と、踊り子がそう提案したのとほぼ同時のことだった。

 二人のすぐ傍らで派手な音がした。

 見れば、さっきの女給が前のめりに倒れている。


「うぅ……な、なに? なにか、変なものにつまずいて……」


 べそをかきながら立ちあがり、女給は足下に視線をやる。ユカと踊り子もそれに倣う。

 そして、一同はそこに目撃したのだった。リ

 エッキの衣服の裾からはみ出して、いましも板張りの床をびたんと一打ちした大蛇のようなものを。

 ……彼女の酒癖の悪い尻尾を。


 次の瞬間、女給の甲高い悲鳴が酔客どものだみ声を圧して酒場に響き渡った。


「ほんと、君たちってどこまでも面白いわねぇ」


 出来した事態の剣呑さに反して、そう言った踊り子は純粋なまでに楽しげだった。


「どうしよう。もう一度僕が例の物語をかたってみようか?」

「やめときなさいな。自分の魔法の効果とか特性とか、ユカ君まだ把握できてないでしょう? 迂闊に使って万が一リエッキちゃんの変身が解除されたりしたら、それこそ大騒ぎになるわよ?」

「でも、変身が解かれるのも大騒ぎになるのも時間の問題って気がするけど」


 周囲の様子とリエッキとを見比べながらユカが苦笑する。

 いまや店内の視線のすべてが彼ら三人に集中していた。

 それにリエッキ。彼女の瞳はさっきから竜と人間のあいだを行ったり来たりしている状態だ。

 白目が消えて虹彩が青い光を放ち、かと思えばまた白目に戻るという具合に。


「うーん、もはや一刻の猶予ゆうよもなさそうね」


 踊り子が言ったそのとき、ついに黒目までが金色に反転した。


「……よし! ここは先輩魔法使いが一肌脱いじゃおう!」


 出し抜けにそう宣言するが早いか、踊り子は軽やかに跳躍して円卓へと飛び乗った。

 こちらに集まっていた視線が、今度は踊り子一人に集中する。

 一段高い卓上の舞台より酔客たちに秋波しゅうはを送り、彼女は颯爽さっそうと羊皮紙を構える。

 それから、ユカとリエッキを横目に見て、二人に告げた。


「今夜の飲み代は払っておいたげるわ! だから二人共、きっとまた会おうね!」


 羊皮紙が紐解かれ右手から左手へと泳ぐ、その最初の挙動までが観衆の眼を虜にする。

 そして、無双の一番ははじまった。


 酒と蛮声の真夜中に忽然ともたらされた、それは名実共に魔法の演舞であった。

 旋回する半身、卓上を滑り跳ね上げられるしなやかな美脚、ある種の扇や振り袖が舞うように宙を踊る羊皮紙……。

 狭い足場の上で繰り広げられるのは曲芸じみた離れ業の連続で、しかしそうであるにも拘らず、踊り子の目元には涼しげな余裕だけがある。


 一つ一つの挙動が、一つ一つの要素が、余さず観衆の琴線に響く。

 一瞬と一瞬の連なりの中に、あたかも無限の恍惚が内包されている。


 そしてやがて、演目は次の段階へと進む。これにより、彼女は酒場という舞台を完全に掌握する。

 まず登場したのは二振りの短刀だった。どこからともなく取り出したそれを、踊り子は酒場の天井近くまで高々と放り投げる。落下してきた短刀は床にぶつかるかと見えた瞬間、切っ先を下にして空中に制止し、踊り子の演舞に合わせて自律して踊りだす。

 踊る短刀につられるようにして店の備品である杯たちが、さらには客の持ち物であろう長剣や杖までもが舞踏に飛び入り、羊鈴と弦楽器はひとりでに音楽を奏ではじめる。


 それが世に邪悪とされている魔法であることに、聴衆の誰も頓着していない。

 酒場に居合わせた人数にちょうど倍する数の瞳が、ただ歓喜と恍惚だけを湛えて瞠られている。



 このまま観衆の一人になってしまいたいという欲求になんとか抗いながら、ユカはリエッキの肩を支えて酒場を後にした。

 去ってゆく二人に気付いた者は、踊り子の他には一人もいなかった。


 誰にも見とがめられることなく町を脱した二人の耳に、既に遠くなった酒場から熱狂的な歓声が夜風に乗って届けられた。

 夜を貫く喝采。ひたすら好意的な声の熱波。


 緩む頬を引き締めもせず、ユカはリエッキを担いで川沿いを歩き進んだ。

 そして、十分に町から離れたと判断してから、星を映す水面に彼女を突き落とした。


 水から顔をあげたリエッキはドラゴンの姿に戻っていた。


「まったく、文字通り尻尾を出しちゃってさ。どう? 少しは酔いが覚めた?」

「……なにも川に落とすことはないだろ。人間のままだったら風邪ひいちまうとこだ」


 リエッキが水の中から恨みがましい視線を送ると、ユカは少しも迷いや躊躇いを見せずに、自分もまた川へと飛び込んだ。

 寒空の下、ざぶんと大きく水音があがる。


「これでおあいこだ」


 ずぶぬれになった笑顔で彼は彼女に言った。


「ほんとに話を聞かないやつだな。風邪をひいちまうって言ったばかりだろ」

「あとで君が火を焚いてくれるだろう? そしたらすぐに乾いちゃうよ」


 腰まで水に浸かったまま、ユカは竜へと戻ったリエッキに背中を預けてくる。


「最後は見事にオチがついたね」

「つかなくてもいいオチがな」


 リエッキは無愛想に応じた。しかし自分に寄りかかる親友を、彼女ははねのけない。


 冬の先触れが夜を清めていた。不純のない大気の向こうで、夜空は満天の星に彩られている。

 あの夜と同じだ、とリエッキは感じていた。

 夜通し語り合った、出会った山でのあの夜と。

 あのとき夏だった季節は今では冬へと変わろうとしている。


 だけど、今夜はあの夜と同じだ。


「楽しかった」不意にユカが言った。「すごく楽しかった」

「うん」とリエッキは短く応じる。「楽しかった」


「楽しくて、嬉しかった」


 ユカはさらに言った。


「まるで、夢みたいに──」


 言葉はそこで途切れた。


 背中を向けられていて顔は見えないが、親友の肩が震えていることにリエッキは気付いている。

 気付いていて、しかしその涙を茶化すことが彼女にはできない。


 なぜなら、泣いているのは彼女も同じだったからだ。


 晩秋の夜、川の水は刺すように冷たい。

 しかし涙をごまかせるのは有り難かった。


 楽しかったのはこっちも同じだ、とリエッキは思う。

 そして、嬉しかった気持ちはこっちのほうがずっと大きいんだ、と。


 ユカの言葉が嬉しかった。

 ユカの心が嬉しかった。

 そして、ユカの涙が嬉しかった。


 それが無上の願望であるかのように彼女と過ごす時間を語ってくれた言葉の数々が。

 それを魔法という形で実現させてしまった想いの強さが。

 そして、夢にも等しかった時間の余韻に打ち震えながら流されている、いまこの瞬間の涙が──リエッキにはたまらなく嬉しかった。


 冷たい流れの中で互いの体温を感じながら、二人は背中を向け合ったまま静かに涙を流す。

 互いに相手が泣いていることに気付きながら、互いに気付かぬふりをして。


 この夜、彼と彼女はすべてを共有していた。

 深まる夜に抗って語り合った、あの夏の日のように。


「ねぇリエッキ。僕、魔法使いになっちゃったってさ」

「そうかよ。でもわたしなんか人間に化けるようになったんだ。こっちの勝ちだな」

「違うね。君の変身は僕がいなきゃできないんだから、やっぱり僕の勝ちだよ」


 ユカは勝ち誇るような口調でそう言う。リエッキは鼻をならしてそれに応じる。はん。

 なにも変わらないのだ、と彼女は思う。

 ユカが魔法使いになったところで、わたしが人間の姿になったところで、結局それでなにが変わるわけでもないのだ。

 『嬉しかった気持ちはこっちのほうが大きいんだぞ』、もしわたしが口に出してそう言ったとしたら、きっとユカも譲らないだろう。いいや、僕のほうが嬉しかった、こいつはそう言って張り合うに違いない。

 だけどわたしだって、それについては譲るつもりはない。違う、わたしのほうが嬉しかった。いいや、僕のほうが。違う違う、わたしのほうが──。


 そんな風にして、わたしたちの関係はずっと、ずっと変わらないんだ。

 やっぱりわたしは空回りしていたらしい。案じることなんて、なにもなかったんだ。


「おい、ユカ」


 そう呼ぶと、親友は背中をこちらに預けたまま頭だけで振り返った。

 視線と視線が出会った途端に言い表せない気恥ずかしさが襲ってきて、リエッキはぷいっと顔を背ける。

 そっぽを向いたままで彼女は言った。


「わたしは、まだ市場とやらを案内してもらってないぞ。お祭り見物もまだだし、髪飾りも買ってもらってない。それに、あんたが語り部の仕事をしてるところも見てない」


 だから、とリエッキは続けた。


「だから、それはまた明日でいい。……明日、また連れてってくれよ」


 ありったけの素直さを集めたつもりの言葉は、その実ちっとも素直でなんかなかった。

 しかし親友はすべてを汲み取った表情となり、嬉しさがこぼれる笑顔を彼女に返した。


「うん! 行こう! 明日も、明後日も、それから先も──ずっと、ずっと一緒に!」

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