■4.ゆりかごの午後

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 そして図書館は二人の新たな住人を迎え入れた。

 牛頭と、彼の手によって暴君たる父の狂気から救い出された乳飲み子を。


 それは、望月すら欺くばかりに愛らしい女の子だった。


「小さな子供というのはお世話をさせる天才です」


 泣き続ける赤子をあやしながら牛頭が言った。


「彼らは無力さと無垢さを武器に大人たちを籠絡し、あらゆる面倒を見させ、最終的にすべてを許させてしまう。ことに赤ちゃんはその最たる能力者といえます」


 頬杖をついて眺めるリエッキの前で、牛頭は熱心にいないいないばぁを繰り返す。

 ほとんどすべての時間を赤子の世話に追われながら、しかし牛頭は不満など欠片も感じていないらしい。世の母親たちがときに金切り声をあげる面倒ごとの数々を、この悪魔は面倒だとは少しも感じていないのだ。

 どころか、それらすべてを健やかな発達の証拠と喜んで微笑みを絶やさない。

 赤子を見つめる眼差しは慈愛に満ちており、それは昼夜を問わぬぐずり泣きまで余さず愛するかのように温かかった。

 あたかも日差しの眼差し、体温を持つ眼差しであった。


「やっぱりお前はまるっきり悪魔らしくない」


 リエッキが呆れたように言った。


「しかし、面倒を見させる天才、か……人間じゃないわたしには全然ピンと来ないな」

「私だって人間ではありませんよ?」

「お前は例外中の例外だって言ってるだろ。……にしても、全然泣きやまないな」


 立ち上がって牛頭のところまで行き、リエッキは彼の腕を覗き込む。

 泣き疲れたのか小さな目をさらに小さく細めながら、それでも赤子は断続的にぐずり声をあげている。


「いったいこの子はなにを訴えてぐずってるんだ? 飯か? それともおしめか?」

「いえ、お乳はあげたばかりでおしめも確認済みなのですが……どうちたのかなぁ?」


 牛頭が幼児語でそう問うと、赤子は火がついたように泣きだしてそれに応じた。


「……弱りましたね」

「ともかく、もう一度乳をやってみたらどうだ?」

「うーん、そうですねぇ。しかしあげようにも、あいにくいまはお乳をきらしてまして」

「なんだよ、それじゃどうするんだ? 町まで買い出しにいかないといけないのか?」

「いえ、それには及びませんよ。実は森に住む精霊山羊と仲良くなりましてね。雌たちにお乳をもらえるよう話はつけてあるんです。どれ、ちょっと行って参りますかね」


 そう言うと、それがさも当然の流れであるという風に牛頭は赤子を差しだした。


「……いや、なんだよそれ?」

「なにって、赤ちゃん抱いたまま乳搾りはできないでしょう? だから、はい」

「『はい』じゃない。なら出掛けてるあいだは揺りかごに戻しとけよ。なんでわたしが」


 むっつりと言葉を返すリエッキ。赤子を抱いたままの牛頭が、やれやれと肩を竦める。


「わかってませんねぇ。いいですか? 赤ちゃんは抱かれることで保護者のぬくもりを感じて安心するんです。いま揺りかごに戻したりしたら、ぐずりは収まるどころかさらにひどくなるのが明らか、なによりこの子の小さな胸は不安に張り裂けてしまいます」


 ああ、そんなのは悲劇です! 演技なのか本気なのか、牛頭は悲しげな声で嘆じた。


「悲劇だかなんだか知らないけどな」


 リエッキも負けじと言葉を返した。


「いいか? ここに住むのは承知したけど、わたしは子育てに参加するつもりはないんだからな」


 両者、少しも譲らない。

 ふたりの目がしばし真っ向からぶつかり合う。


 それから不意に、片方のそれ、牛頭の視線がふっと和らいだ。


「ねぇリエッキさん、砂漠の民は、古来からこのような言い回しを所有しています。『我らの未来は子供らの笑顔の中にある』と。実に素敵な言葉です。しかし、ここには字義に収まらぬ深遠な真理も隠されているのです。その秘密、あなたにわかりますか?」


 謎かけは唐突だった。

 しかし生来が生真面目なリエッキは問われるままに考え込む。

 そしてしばし黙考したあとで、苦々しげに「……わからない」と降参を告げた。


 牛頭の笑みにひそんでいるたくらみの影がにわかに色を濃くする。

 彼は言った。


「その答えはこの重さの中にあります。さ、この子の体重を感じてみて。軽くて重い命のそれを。さすれば、あなたはたちどころに私の問いかけの答えを得るでしょう」


 再度差しだされた赤子を、今度はリエッキも促されるままに抱き受ける。


「どうです?」

「……思ったより重い。それに体温が高い」素直に感想を述べるリエッキ。腕に抱いた命の重みは知らずのうちに彼女を慎重にさせる。「で、謎かけの答えはなんだよ?」

「わかりませんか? では一つ助言をあげます。いいですか、ちょうど肘を曲げたあたりに頭が来るように抱くんです。……そうそう、そうすると頭が安定しますから」

「うん、ええと、こうか? ……って、ああッ!?」


 顔をあげた彼女が見たのは、いましも通路に消えていく牛頭の姿だった。


「……いっぱいくわされた」


 追おうにも赤子が邪魔で立ち上がることすらままならず、リエッキは一人途方にくれた顔となる。

 腕の中の無垢な命だけが、小さな瞳を細めてその表情を見つめていた。


 リエッキは深々とため息をつく。

 それから、彼女はこの一週間のことに思いを馳せる。


 一週間。赤子と牛頭がこの図書館にやってきてから経過した時間がそれだった。

 まだ一週間なのか、それとももう一週間と捉えるべきなのか、彼女には判じることができない。

 図書館が新たな住人を得た後と前とでは、それほどまでに時間の質が違っていた。


 百年一昔、牛頭を相手に用いた表現をリエッキは思い出す。

 もちろんそれは旧友を前にしての強がりだった。この百年は彼女にとって千年にも万年にも等しかった。

 一昔などと言い表すには、その内にあった孤独と悲しみはあまりにも重く、烈しかった。


 だけど、と彼女は思う。

 だけどこの一週間は、ちょっとだけ違ったな。


 騒々しい一週間だった。

 無音の静寂はけたたましい泣き声により一掃され、百年ぶりに火を飲んだランプが夜にも闇を追い立てた。

 

 図書館はまったく様変わりしてしまった。

 しかし、リエッキには不思議とそれが不快ではなかった。

 昼夜を弁えぬ泣き声も、彼女はうるさいとは思わなかった。


 もしもこの一週間が百年続いたら、それは本当に一昔になるかもしれないな。

 物思いに耽るリエッキの腕の中で、赤子が少しだけ身をよじった。


 牛頭がなにをしてもやまなかったぐずりは、いつの間にか完全におさまっている。


「牛頭のやつ、無駄足だったな」


 苦笑混じりにそう呟いて、リエッキは赤子の顔を覗き込む。

 細められていたまぶたは一つにくっついており、唇の隙間からは小さな寝息がゆるゆるとこぼれだしている。

 赤子を揺りかごに戻すためにリエッキは立ちあがる。

 しかし少しだけ考えたあとで、結局そのまま元の椅子へと腰掛けなおした。


 揺りかごは冷たいだろうなと、彼女はそんなことを思っていたのだ。


「……なるほど、たしかにあんたは天才だ」


 負けを認めるように呟き、愛らしい林檎色の頬をそっとつつく。

 それから、彼女は牛頭がそうしていたのを思い出しながら、ゆっくりと自分という揺りかごを揺すりはじめた。



   ※



 牛頭が帰ってきたのはそれからほどなくのことだった。

 山羊の乳が入った水差しを机に置いたあとで、彼はリエッキに抱かれたままの赤子が寝息を立てているのに気付いて、小さく歓声をあげた。


「いやぁ大したもんです」感心しきりといった様子の牛頭。「この子は完全にあなたに心を許してる。まるっきり安心しきってる。どうやってこんなに仲良しに?」


 賞賛と感嘆を綯い交ぜにして唸る牛頭に、リエッキは「さぁな」とだけ応じた。


「それよりもお前、よくもわたしをペテンにかけてくれたな」

「はは、詐術と口車。どうです? 私にもきちんと悪魔らしい面はあったでしょう?」


 そう嘯く牛頭に、今回のは貸しにしておくからなとリエッキが言う。

 牛頭はなおも軽口でそれに応じる。それは弱りました、なにしろ我々悪魔は契約とか貸し借りには律儀な性分ですからね。


 それから、二人は笑い合う。

 赤子を起こさぬように声は出さず、笑みだけを交わす。


「……リエッキさんが今でも人の姿でいてくれたことは、僥倖としか言いようがありません。育児というのはなにしろ大変な事業ですからね。そこにこれほど強力な助力を得られるとは、思ってもみなかった」

「だから、わたしは子育てに参加するつもりはないっていうんだ。妙な期待を持つな」


 リエッキの反論を牛頭は微笑みで受け流す。

 受け流して、彼はさらに言った。


「魔法が消えた世界で、あなたは未だ人の姿を失っていない。それは、確か司書王の最初の魔法でしたね? 彼の魔法の源泉となった感情、その揺るがぬ強さを見せつけられる思いですよ」


 最強の魔法使いを覚醒に導いた一念とはなんだったのでしょうね、と牛頭。

 知るもんか、そう無愛想にはぐらかして、リエッキは鼻をならした。はん。

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