■3.竜と蜂蜜酒
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「……なんだよユカ? なんでそんなにじろじろ見てるんだよ。気持ち悪いな」
「……リエッキ?」
※
「わああ! な、なんだこれ! ユカ、あんたいったいわたしになにをしたんだよ!」
「し、知らないよ! してないよ! 僕はなにもしてないってば!」
目の前には困惑を全身で表現している親友の顔があった。
本当に、文字通り目の前に。
自分の目線とほとんど同じ高さとなったユカの顔を、彼女は上目遣いに覗き込んだ。
見下ろす視点は失われていた。かつてないほどに地面が近く、世界のすべてが少しだけ大きくなっていた。
まるで、その分だけ自分が縮んでしまったかのように。
いや、ようにではないのだ。
おそるおそる、リエッキは自分の手に視線をやる。そしてそこに鱗のないつるつるの肌を見、五本の指を見た。
それから、その手を動かして身体のあちこちに触れてもみる。
長い髪を撫で梳き、いつのまにか
「……鏡が欲しいなんてはじめて思った……いったい、わたしはどうなってるんだ?」
「あ、うん。僕の感想としては、可愛いというより綺麗って言葉が見合うすごい美人に」
「そういうこと聞いてるんじゃない!」
思わず声を荒らげるリエッキ。
それから、気を取り直して再度問うた。
「あ……いや、美人って、そうだそれだ。つまりあんたの目から見ても、わたしはいま、人間の姿になっちまってるってことだよな?」
間違いようもなく、とこっくり肯いて応じるユカ。
彼女の困惑はそれで決定的なものになった。
「なんだよこれ……こんなの、あんたの与太話そのまんまじゃないか……」
「与太話って言いぐさはひどいなぁ。……あ、そういえば、こんなのがあったんだけど」
言いながら、ユカは一冊の薄い本を彼女に差しだしてきた。
「……なんだよ、それ?」
「わかんないけど、中身は君がいう与太話。僕の空想そのまま、竜が人間になる物語」
受け取った本をリエッキはぱらぱらと
もちろん、リエッキに読書の経験などはない。しかし竜の
だから、たとえはじめて目にするのだとしても、竜であるリエッキは人の記した書物を難なく読み解ける……はずだった。
しかしユカから受け取った本の内容を、彼女は一行たりとも読み下すことができなかった。
個々の文字に目を凝らせば個別の一字として判読することは可能だった。しかし文字列を文章として捉えようとすると、たちまち記号めいて意味をなさなくなる。
まるで、本自体が読まれることを拒んでいるかのように。
「これ、君が人間になっちゃったことと関係あると思う?」
「そんなこと聞かれたってわかるもんか。けど、関係ないと思う方が不自然な気がする」
そう力無く答えて、リエッキは肩を落とした。
「なぁ、これからどうする? わたし、どうすればいいんだろ?」
柄にもない口調になる。
親友が綺麗だと評してくれた横顔には不安が濃く兆していた。
彼女の問いかけに、ユカはすぐには応じなかった。彼はなにやら熟考に
耐え難い緊張を覚えながら、リエッキはとにかく親友の言葉を待った。
黙考の末、ユカがようやく視線をあげた。彼は真剣な目でリエッキを見据える。
「何度考えてみても、やっぱり結論はこれしかない」
真剣さを極めた声音で切り出した。
「うん。やっぱり、まずは蜂蜜酒からだ」
※
はじめて足を踏み入れたそこは、夜も遅いというのに今なお蛮声じみた賑わいと人いきれに満ちていた。
店内中央には小規模ながらも芸人用の舞台が設えてあり、いましも一仕事終えてそこを去ろうとしている踊り子に対して、男たちが歓声と口笛、それにおひねりを雨のように降らせている。
人間の町の、人間の酔いどれが集まる酒場。
リエッキはいまその中に紛れ込んでいる。
陽気な喧噪の中、踊り子の退場した舞台から視線を外した男たちが、今度は店内を進むリエッキに注目していた。
彼らの瞳をリエッキは肌で感じている。鱗のない肌で。
「リエッキ! ほら、こっちこっち!」
極限に達しつつある彼女の緊張を知ってか知らずか、止まり木に二人分の席を確保したユカは憎いほどの笑顔でこちらに手を振っていた。
リエッキは促されるままに隣に腰掛けながら、懸念を顔中に貼り付けて小声で問う。
「……なぁユカ、わたし、本当に大丈夫かな? さっきからわたしを見ているやつがいっぱいいるんだけど……もしかして、人間じゃないのがばれてるんじゃないか?」
「あのね、君みたいな美人が急にあらわれたら、誰だってつい見ちゃうもんだよ」
ユカは心底楽しそうに笑いながら、店主から木製のジョッキを二つ受け取る。
中身は蜂蜜酒だった。
いつのまに注文してたんだ……リエッキは呆れた顔で親友を見つめた。
「……あんたにはお手上げだよ。こんなときまで自分の調子を崩さないんだから」
「慌ててどうにかなる場合ってのはまず滅多にないからね」
ため息混じりに皮肉を口にした彼女にユカは笑顔で応じた。
「それにさ、この本に書かれてるのは人間になった竜が友達と町に行くって物語なんだ。だったら、とりあえずその筋書きに従ってみるのもいいんじゃない?」
そう
「でもこれ、本当になんなんだろう?」
「いつの間にか忽然と手元にあって、書かれているのはあんたの頭の中にあった空想で、しかもそれはあんたにしか読めなくて……」
列挙するようにリエッキは言う。
「で、その空想が現実になって……おかげでわたしはこの蜂蜜酒にありつけてるってわけだ」
有り難くって涙が出るね。
そう力無く言って、自棄気味にジョッキを呷った。
「あ……おいし……」
一息に飲み干したそれは、こんな状況にも拘らず舌が蕩けるほど甘くて美味かった。
もっと味わって飲めば良かった。皮肉な表現でなく、今度は本当に泣きたくなった。
「すみません、これ、もう一杯お願いします。今度は大ジョッキで」
悲しみの瞳を空のジョッキに注ぐリエッキの耳に、隣の席からの声が届いた。
止まり木の向こうの店主に追加の蜂蜜酒を注文して、ユカはリエッキに笑いかけた。
「人間の味覚は随分お気に召したみたいだね。涙が出るくらい」
「な、涙なんか出ちゃいない! 変な言いがかりはやめろよな!」
顔を赤くして反論するリエッキ。
ユカはけらけらと笑いながら、店主から受け取ったおかわりのジョッキを彼女の前に差しだした。
そのあとで、彼は陽気な笑顔の中に不意に真面目な色合いを覗かせた。
「泣きたいのは僕のほうだ」
彼は言った。
「原因はわからないけど、こうして君と蜂蜜酒を飲むっていう僕の夢は叶ったんだ。それがなんだか、僕には泣きたいほど嬉しい」
リエッキの頬にさす朱色が増した。酔いが回ったせいではなかった。
気恥ずかしさを誤魔化すように、彼女はいつものようにそっぽを向いて鼻を鳴らす。
はん。
「あっ、そういえば」
しんみりとした調子から一転、再び陽気さを取り戻してユカが言った。
「この本、ほんとに僕しか読めないのかな。君は竜だから読めなかったとかじゃなくて」
「さあな」まだ照れたままのリエッキが無愛想を装って答える。「知るもんか」
「よし、ちょっと確かめてこよう!」
「……は?」
リエッキが慌てて呼び止めようとしたとき、既にユカの姿は隣になかった。
彼は近くの席から一つずつ順番に訪ねて、酔客たちに例の本を見せて回っていた。
「あ、あいつ……! どうしてああ迂闊な真似を……!」
そう口走ってリエッキは自分もまた席を立った。
が、不慣れな二足の歩行に加えて人間の小さな身体は酒の回りも早いものらしく、彼女はもつれる足に思わぬ苦労を強いられることとなった。
リエッキがどうにかユカに追いついたとき、彼は既に四つの卓を回ったあとだった。
「おい、ユカ!」
そう怒鳴りつけてリエッキはユカの肩を後ろから掴む。
「あ、リエッキ」
彼女の剣幕とは対照的に、ユカは暢気な笑顔をリエッキに向けた。
「『あ、リエッキ』じゃない! そんな得体の知れない本、どんな面倒を呼び込むかわかったもんじゃないってのに……あんた、自分がどんな軽はずみをしてるかわかってんのか!」
「ああ、うん。誰か僕以外にこれを読める人がいないかなって思って、お客さんたちに見てもらってるんだ。でもダメだね。もう五人に見せたんだけどやっぱり誰も読めないんだ。で、いま見てもらってるこのお姉さんが六人目で──」
「違う! 断じて違う! わたしは『なにをやってるのか』を質問したわけじゃない!」
噛み合わない会話に力も抜けきり、リエッキは近くにあった空席にへたり込む。
この場に居合わせたもう一人の人物が言葉を発したのは、そのときだった。
「──ねぇ少年」
そうユカを呼んだのは、さっき舞台上で男たちの歓声を集めていた踊り子だった。
「誰に見せても無駄よ。これはね、あなたの他にはこの世の誰にも読めない本なの」
問題の本をユカに返しながら、踊り子はリエッキのほうも見て、にっこりと笑った。
「だって魔法使いの魔法は、本人以外にはなんの意味も持たないものなのだから」
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