◆7.愛情の魔法

 にゃあう、と寂しそうに一声鳴いて、毛深い妹が少女に頬ずりしてきたのです。

 母猫譲りのざらつく舌で姉の涙を舐め取って、妹はふわふわの毛皮で少女を包み込みます。


 はたと我に返って、少女は獣たちを見渡します。

 すると、どうでしょう。妹だけでなく家族の全員が、心から案じる顔つきでこちらを窺っているではありませんか。


 少女の心を支配しようとしていた黒いものが、陽を浴びた雪のように溶けてゆきます。

 そして代わりに、彼女が眠らせていた資質が、このとき大きく花開いたのです。

 人と獣、産みの親と育ての親、二つの母性により培われ家族により養われてきたもの。


 比類のない、絶大な愛情が。


 妹を支えにして立ち上がると、少女は鯨の頭骨にそっと身を寄せて、生きていた鯨にしていたのと同じように骨へと口づけをします。

 そのあとで、残された家族たちに「もう大丈夫」という風に笑いかけます。


 それから静かに、しかし揺るぎのない口ぶりで、言葉を紡ぎます。


「私は、安住の地が欲しい。それは、もしかしたらこの世のどこにもないのかもしれない。欲しがってもはかないだけなのかも、虚しいだけなのかもしれない。だけど、それでも私はそれが欲しい。愛する者を二度と喪わないように。馬鹿げた者の馬鹿げた欲に、二度と奪われないように。暫定ざんていではない、仮初めではない、永遠の安寧が約束された場所が。誰も悲しまないように。誰も虐げられないように。行き場をなくしたすべての者が、あらゆる不安や怯えから解放されて、ただ安らぎを享受できる場所が、私は──」


 それは、祈りでした。

 本能と六感のすべてを解きはなった、精神と魂のすべてを願いに染めた、あまりにも純粋な祈りでした。

 静かな涙を流しながら、さながら祝詞のりとの結びを唱えるように、最後に少女は家族に告げます。


 愛してる、と。


 ──その瞬間、奇跡は現象したのです。


 少女が家族に愛情を伝えたそのとき、海岸線からはすべての音が消え、すべての色彩が溶け落ち、時間と空間が凍り付いて動きを止めます。

 飛ぶ鳥は羽ばたきもせずに空に釘付けとなり、海の波は凝固したかのように形を保ったまま停止します。

 その止まった世界の中で、身動きを許されているのは少女とその家族だけでした。


 そして、最後に混沌の奔流がやってきます。


 原色と極彩色ごくさいしきが濁流となってすべてを飲み込み、それから、縮尺された宇宙の創造にも等しい凄まじい情景が家族の目の前で展開されます。

 精神の許容を超える霊威れいいの疾走に、全員が意識を失ってその場に倒れ込みました。


 昏倒から目覚めたとき、はたして、家族は様変わりした世界をそこに目撃することとなりました。

 無数の靴跡や放棄された銛など、浜辺に残されていたはずの狼藉の痕跡は、一切が跡形もなく消え去っています。もとからなにもなかったかのように。


 ですが、いま家族の前にある光景に比べれば、そんなのは変化のうちにも入りません。


 世界が、見渡す限りの世界が一新されていたのです。大地が引き延ばされでもしたかのように、それまで存在しなかったはずの広大な土地が生まれて、さっきまではもっと近くに眺められたはずの山々を遥かな遠景へと押しやっているのです。

 新たな領域を縁取って隔離するようにそこにあったのは、鬱蒼うっそうと繁る原生森です。

 忽然とあらわれた森林が、あたかも秘密の土地を覆って隠すように存在しています。


 この展開に、家族全員驚愕にとらわれて言葉もありません。

 状況を飲み込めず、各々が狼狽もあらわに視線をそちこちに彷徨さまよわせています。

 好奇心を爆発させた妹は止める間もなく探検に出発してしまい、母猫が慌てた様子でそれを追いかけます。


 場を支配する混乱の中、少女だけが、不思議なほど落ち着いた心地でいます。


 自分の中でなにかが目覚めたのだという自覚が彼女にはありました。

 そしてそれがこの状況を生み出したのだということも、彼女ははっきりと直観して認識しています。


 ふとした思いにとらわれて、彼女は傍らにあった鯨の頭骨に手を伸ばしました。

 奇跡そのものであった変容の刹那せつなが過ぎ去ったこのとき、うち捨てられた鯨の頭骨からはこびりついていた汚れが綺麗さっぱり消え去って、まるで洗い磨かれたように真っ白に輝いています。


 瞬間、彼女は理解します。

 理解して、たくさんの涙をぽろぽろと零します。


「これは、あなたの贈り物なのね?」


 もういない家族に少女は語りかけます。

 そして、あの親しい笑い声を伴った返事を、確かに耳に聞いたのでした。




   ※



 彼女はそのときまだ知りません。ですが、やがて少しずつ知りはじめます。

 たとえば広大な土地を内部に抱いているはずの森は、外から見た場合には中の広さの百分の一の大きさにも満たない普通の森であることを。

 森の外観からは、その内側に秘匿された小世界の存在など予想することもできないのだということを。


 そして邪な心を抱いた者は、けっしてその森を通過することができぬのだと。


 いかにも、それは少女が欲してやまなかった安住の地にほかならなかったのです。


 のちに骨の魔法使いと呼ばれることになる少女の、これがその最初の魔法でした。

 以前にもご説明した通り、魔法使いとは純粋さや強い感情を資質に目覚める人種です。

 言うまでもなく、骨の魔法使いの場合のそれは愛情でした。

 純粋で強大な愛が彼女を魔法使いとして目覚めさせ、その能力を形作ったのです。


 やがて『鯨の頭骨の魔法』により創りだされた聖域には行き場のない獣たちが集まるようになります。

 骨の魔法使いはそうした獣たちを例外なく受け入れてやりました。

 そんな彼女を、獣たちは地母とも女神とも崇めて、肉体が滅びたあとも末永く彼女に仕えようとしました。


 骨の魔法使いの魔法は動物の頭骨です。

 それは、彼女を慕った動物たちの死してなお消えぬ感謝と愛の形。

 頭骨に秘められた魔法を呼び起こすとき、彼女はそれを優しく撫でてやるのでした。

 頭骨の持ち主たちが生きていた頃にそうしてやっていたように。


 森に捨てられていた赤子が彼女の妹により拾われてきたのは、『鯨の頭骨の魔法』による聖域が生まれてから七年後、骨の魔法使いが二十歳のときでした。


 さて、長くなってしまいましたが、本筋を補足するための挿話はここまでです。

 読者よ、物語の焦点を絞りなおしましょう。


 我々のふたりの主人公、ユカとリエッキへと。

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