◆6.私はまた喪った。私はまた奪われた。

 それは、陸の幻想生物たる竜と双璧をなす、海の幻想生物──クジラでございました。

 海流の関係上、少女たちが住み着いた海蝕洞が岸辺を接する海は、その鯨の休憩場所だったのです。

 つまりそこは家族の安息地であったと同時に、鯨にとっての安息地でもあったのです。


 さて、最初こそその巨体に度肝を抜かれた家族でしたが、しかしそこは元々が寄せ集めの集団です。

 早くも一晩のうちに全員がこの海からの訪問者にすっかり打ち解け、いつの間にやら新たな仲間として受け入れるに至ります。

 そして鯨のほうもまた、少女や獣たちのことを「陸にはまれな気の良い連中」と認めてくれて、いつしか彼は本当に家族の一員となっていたのでした。


 新たな家族を迎えて、隠れ家の生活はいよいよ賑やかさと愉快さを極めてまいります。

 長生きの鯨は霊智れいちの域に達した博識ものしりで、家族の中では長老のような役目を担って頼りにされました。

 長老、などというとなにやら厳めしい印象がありますが、この鯨には案外ひょうきんなところもありまして、みんなのおじいちゃんとして大いに親しまれて愛されたものです。


 沈む夕陽に目を細めながら、家族は海の底の様子を鯨に教えてもらいました。夜には遠い異国の物語を語ってもらいました。

 一緒に泳いだこともありましたし、一度などは背に乗せてもらってぷかぷかと沖合を遊覧したこともありました。

 そのお返しに家族が陸の話をしてあげると、鯨はいつでも興味深げにそれを聞いてくれました。


 そして少女は、誰にもできないたぐいの打ち明け話を鯨に聞いてもらうことで、その心を随分救われます。

 彼女の頑張りを、表にはけっして出さなかった無理や疲れを、鯨は繊細な理解で包み込んでくれました。

 理解して、よくやったと彼女を褒めてくれました。


 鯨を迎えたことにより、家族はある種の完全さを手に入れていたのかもしれません。




 ですが、運命とはどこまでも非情なものです。




 一月ほど海蝕洞に滞在すると、鯨はその後の一月は海の旅へと戻ります。

 獣たちの多くは鯨との別れを惜しみ一日でも長く引き留めようとしたものですが、しかし少女だけはいつでも笑って彼を送りだしました。

 きっと帰ると鯨は約束して旅立ち、そしてそれはいつだって必ず守られたのです。

 彼女たちを自分の家族だと言ってくれた鯨を心から信じて、少女は再会を喜ぶ準備とおかえりなさいの言葉だけを用意して彼の帰還を待っていました。


 最初の旅から、鯨は約束の日を一日と違えずに帰還しました。

 二回目と三回目は期日より一日早く。四回目は逆に一日遅れましたが、それでも彼は帰ってきてくれました。


 ですが、五回目の旅からは帰りません。

 約束の日から二日経ち、三日が経っても。


 予定された帰還の日から四日が過ぎたその朝、海蝕洞の面々はついにいてもたってもいられなくなります。

 大切な家族の一大事、もはや座して待ってなどいられない、全員が異口同音にそう言いました。

 そして、ともかくできるだけ見晴らしの良い場所で鯨を待とうということで意見は一致して、みんなで揃って岬の断崖を登っていったのです。


 そこで、海岸の砂浜に遺棄された、変わり果てた姿となった鯨を発見したのです。


 事情はこうでした。

 家族の住み着いた洞窟を含む一帯は代々仁君と誉れも高い貴族に治められて来たのですが、しかしさかのぼること三年前に家督かとくを継承した八代目の領主、これがいけませんでした。

 彼は当主の座に納まったと同時に大いに権力に溺れ、隠居した父親を屋敷から追放して贅沢の極みを尽くし……ああなんともはや、財産という財産は二年を待たずに底をついてしまいました。

 奢侈しゃしのつけは領民の生活に年貢という形でのしかかり、しかしそれでもまだまだ経済を立て直すには到底足りぬというきわまり方。


 そのような折、最近になって雇い入れた呪使いが、そっとこのバカ殿に囁いたのです。


「民の噂では、領主様。なんでも北の岬には何十年も前から鯨が姿を見せるとか」


 鯨とは竜と並ぶ幻想の生き物です。その身体からは肉や脂をはじめとした諸々の資源が大量に回収されて、捨てる部分は筋一本、ヒゲの一本に至るまで一切皆無です。

 一頭分の身体の価値は一つの国の年間の予算に匹敵するほどで、座礁して死んだ鯨の死体は古来より有り難く用いられてきました。

 また、こうして獲得できる資源の中には竜涎香りゅうぜんこうをはじめとする結晶物も多量に含まれており、これらは呪使いにとっては喉から手を二本も三本も伸ばしたくなるようなくしびの品々でもありました。


 こうして、呪使いにうまうまとたぶらかされた領主は兵士と土地の漁師たちを動員。つきとめた回遊の経路に待ち伏せて鯨に襲いかかり、浜辺へと追い立てて次から次に銛を打ち、そして見事、この巨大な生きる資源を討ち果たして手中に収めたのです。

 浜は祭りのような有り様となり、領主も呪使いも、それに年貢ねんぐから解放される領民たちも、手に手を取っての大喜びです。


 その裏側に涙が流されることなど、誰も知りもせず、考えもせずに。


 家族は砂浜へと直行しました。

 鯨の遺体はその場で解体されて運びだされたものとみえ、一個の巨大な頭蓋骨以外はほとんど骨すら残されてはおりませんでした。

 打ち捨てられた頭骨の前に、少女はへなへなとへたり込みます。家族たちは一様に鯨の死を悼んで涙を流していますが、その声すらも少女の耳には遠く聞こえます。


 慟哭どうこくの絶叫が、海と空とをつんざきました。


 獣たちがすくみあがり、妹が怯えて後じさるほどの凄まじい声をあげたのは、他ならぬ少女でした。

 血のように熱い涙を流して、言葉にならぬ言葉を吐いて、彼女は叫びます。


「……安寧あんねいなんて、結局どこにもないんだ。安住の地なんて、そんなのは、どこにも」


 悲しんでも悲しみきれぬ絶望の直視が、彼女の心をたちまちのうちに黒く染めてゆきます。慟哭は海よりも深く、絶叫は空よりも高く響き渡ります。つ

 かの間涙すら忘れさせるほどの戸惑いを家族に与えながら、しかし少女はそのことに気付いてもいません。


 私はまたうしなったのだと彼女は泣きました。

 私はまた奪われたのだと彼女は叫びました。


 怒りが、憎悪が、失意に彩られた黒い感情の数々が、少女が本来持つ明るさや優しさを追い立て、駆逐してゆきます。


 私は喪った。私は奪われた。

 私は──私は、守れなかった。


 黒い感情は膨れあがります。

 怒りが、憎悪が、殺意が。灼々ぐらぐらと煮えて、沸々ふつふつと滾って──。


 と、そのときです。


「……にゃあう」


 寂しそうに一声鳴いて、毛深い妹が少女に頬ずりしてきたのです。

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