◆4.百獣の姫君

 貴族の娘から一転、こうして少女は放浪の身の上となったのです。

 よわいにすればまだ七つ、あまりにも年若すぎる旅人の誕生。

 そしてもちろん、それは気楽な旅などでは断じてありません。


 ですが、二度にわたる母の喪失は、なんとか免れたのです。

 ですから、彼女は己を不幸とは全然考えておりません。

 うしなわずに済んだと、奪われずに済んだと、あるのはそんな思いだけです。


 荒野から荒野へ、蛮野ばんやから蛮野へ、人ならぬ母と相伴って少女の彷徨は始まります。

 さすらいの日々の中、彼女は急速に荒野に適応してゆきました。

 野生する様々な植物を採集して口にし、母の狩って来てくれた獲物の肉も火を通して、あるいは火を通さずにそのまま喰らいます。

 そういう無理な食性に腹を壊してはその都度立ち直り、そうして内からも外からも己を鍛え続けます。


 身につけるのは獣のしなやかさ、はぐくまれるのは四つ足の気高さです。


 ある夜、山辺の村で自然の産物を元手にした物々交換を行った帰り道のこと。

 おぼろな月に照らされた道の上で、少女はその一帯を根城とする山賊の一党に取り囲まれてしまいます(いつの世、どこの土地にもこうした連中はいるものです)。


 少女の手を乱暴にひねりあげ、人買い稼業にも手を染めるクズどもは下卑げびた笑顔を浮かべます。

 が、次の瞬間、目の色変えて飛びだしたのは山猫の母。怒り心頭となった母の爪にかかり、ろくでなしどもは一人残らず八つ裂きにされてこの世を去りました。


 四肢と首とが散らばる酸鼻さんびの現場で、少女はあっけらとした調子で危機を救ってくれた母に礼を言い、それからおもむろに死体の懐をまさぐりはじめます。

 そして、死体と同数の財布を回収して、ほくほく顔でうんうんと肯いたではありませんか。


 いったい、長く荒野に暮らすうちに彼女は人の心を失ってしまったのでしょうか?

 いえいえ、そうではないのです。そんなことは全然ありません。

 それが証拠に、たとえばその夜の自分と同じように盗賊やら山賊やらに襲われている人を見かけた場合になど、彼女は山猫の背にまたがって狼藉ろうぜきの場面へと躍り込み、賊どもを一網打尽に滅ぼし、そして、意味不明のうちに窮地きゅうちを脱した被害者たちには「もう大丈夫だよ」とにっこり微笑んでやるのが常でした。


 このように、理不尽に他者を虐げる者に対しては冷酷そのものに振る舞う彼女でしたが、虐げられる側には慈悲の心を見せずにはおりませんでした。

 人と獣、二つの母性により培われた大きな愛情が、少女をそのように規定きていしたのです。


 救われた人々を発信の源に噂は口から口へと手渡され、いつしか伝説となります。

 荒野の地母は娘御の姿をしている──そんな物語は、それから数十年をかけて民間の信仰にまで昇華されてゆくのですが、これはまた別のお話です。


 ところで、少女のこの優しさ、慈愛の心の対象は、人間だけに限られていたのか?

 もちろん、そうではありません。


 生まれ育った屋敷を発ってから五年、少女は十二歳となっていました。

 未だ続くさすらい生活の中でしなやかにも美しく成長した彼女の家族は、もはや母である山猫だけではありませんでした。

 まずは黒く長い体毛に覆われた毛玉の塊がいます。これはその外見のせいで不吉の象徴とみなされ忌み嫌われている悪霊兎あくりょううさぎで、人間たちにいじめられて瀕死の状態となっていたところを少女に保護された経緯の持ち主です。

 それに、ほら、ほかにも。

 まずは珍かな有角の馬がいます。それに、毒もないのに毒々しい色彩を有した臆病なヘビがいます。雪のように真っ白な羽を持った、黒くないカラスがいます。


 人間の欲や迷信など、彼らはそれぞれの理由から逐われて居場所をなくした、言うなれば少女と似た境遇の者たちです。

 流浪の旅の中で出逢った彼らに少女は慈悲と慰めの手を伸ばしてやり、そんな彼女のことを獣たちもまた大いに慕って信頼しました。

 そうして気付けば、少女を紐帯ちゅうたいとした寄せ集めの家族は形成されていたのです。


 獣と言葉を交わす能力を持った少女のもと、彼女の仲間は種族を超えて統率されて仲違いなどは皆無。

 むしろ、それまで孤独のうちに縮こまって生きてきたものばかりが集まったこの集団において、はじめて味わう団結はあまりにも喜びに満ちておりました。

 尋常の獣の群れを、あるいは人間社会のそれをも超えて、彼らの仲間意識は強固に結びついて剣でも切れません。


 しかしこの頃、少女の胸にはそれまでになかった一つの望みが生まれています。

 最近、彼女は自分たちが人間の噂となっていることを知っていました。

『百獣の姫君とそれに率いられる異形の獣たち』、なんとも大仰なその名を、人々は好意とは反対の感情を込めて囁くのです。どころか、中には彼女たちの討伐を叫ぶ者もいるような始末。

 それに、仲間の中に一部で珍重される獣がいたことも問題でした。敵意より厄介な人の欲にもまた警戒しなければならないのですから。


 私は私の家族を守りたい、と少女は思います。喪うのはいやだ、奪われるのはいやだ。

 安住の地が欲しい、それが彼女の願いでした。

 私たちだけの、心安らかに暮らせる場所が。


 ……と、午後の丘で思索に耽る彼女の元に、まっすぐ駆けてきたものがありました。


 彼女に飛びついて、押し倒して下敷きにして、そのまま加減も忘れて目一杯にじゃれついてくるのはおおきな山猫です。

 ですがそれは、彼女の母親ではありませんでした。


 これは一年前に母が一頭だけ産んだ子猫で、つまり少女の妹なのでした。

 実の子を得ても母の愛は分け隔てなく人間の長女にも注がれ、また、少女も毛深い妹をたいそう可愛がりました。

 すると妹も妹で、この毛皮のない姉を自然と母以上に慕うようになり、そうして築かれた二者の絆はまるっきり真物の姉妹のそれ。

 この関係はむくむく成長した妹が姉の数倍の大きさになった今でも全然変わってはいないのでした。


 物陰で休んでいた仲間たちがやれやれと姿を現し、姉の顔をぺろぺろ舐めている子山猫をどうにか少女から引き離します。顔をべたべたにした彼女が「あんたは猫よりも犬みたいねぇ」と苦笑します。

 そんな大好きな姉と仲間たちに対して、毛深い妹は手柄顔で告げたのでした。


 あった、おうち、あったよ、と。

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