◆3.幼獣

 ある朝少女が目を覚ますと、山猫の姿はどこにもありませんでした。

 いつもは目覚めるとすぐに目やにを舐めてくれる優しい母が、その朝は彼女の傍にいなかったのです。


 不吉な予感に襲われて、少女は寝室を飛びだします。

 屋敷の二階を駆け抜け、扉という扉を乱暴に開けてして母を捜して、しかし求める姿はやはり見つかりません。


 焦燥は深まります。予感は膨れあがります。

 悪い、悪い、悪い予感が。


 甲高い声で母を呼びながら、ほとんど飛び降りるような勢いで階段を駆け下ります。

 ああ、そして。

 目の前に開け放たれた玄関の先に、ようやく母の姿は発見されます。


 ですが、求めていた存在は、求めていたのとはかけ離れた状況に置かれておりました。

 山猫は捕らわれていたのです。

 鉄製の檻の中、少女の母はぐったりと倒れています。


 そしてその隣に立つのは、満悦の表情で山猫を見下ろしている、狂った呪使いです。


「おお、娘よ!」


 そこにいる少女に気付いた呪使いが……少女の父親が、振り向いて彼女に呼びかけます。

 心疚こころやましさなど微塵みじんも感じてはおらぬ、晴れ晴れしい声で。


「昨夜、吾輩はとんでもない閃きを得たのだ。歴史を変える、歴史に残る、いや、ここから歴史を創りだすほどの神秘の閃きだ。呪使いは、ついに魔法使いを超越するぞ!


 ああ、それでな──」


 興奮した口調でそこまで語ると、彼は檻の中の山猫を再び見て、言いました。


「それで、その為にこの猛獣の心臓が急遽必要になったと、そういうわけだ」


 数ヶ月ぶりにまともに口を利いた父のいびつさ極まる様子に、少女は言葉を失います。

 呆然として、ほとんど途方に暮れて──それから、不意に認識が現実に追いつきます。


「かっ、返せ!」


 気付いたときには叫びが迸っていました。

 子供のそれとは思えぬほどの鬼気迫る剣幕で、「返せ、母さん、返せ!」と少女は繰り返します。

 実の父に対し、その瞬間にはそれが父であることなど皆目忘れて、


「返せ! 返せ! 返せえぇぇぇぇぇ!」

「なにを言っておるのだ?」


 そんな娘の剣幕もどこ吹く風、呪使いは和やかに笑って言いました。


「お前の母はとうに死んだではないか? 死んで、その身を我と我が研究に捧げてくれたのだ。いや、あれこそは天晴れな殉死であったよ。……はは、頑是無がんぜないなぁお前は。未だ死んだ母が恋しいのか?」

 この一瞬に、少女に残されていた理性のすべては蒸発します。

 獣じみた威嚇いかくの声に喉を鳴らしながら、彼女は目の前の男に襲いかかります。


 低い身長を活かして相手の足に体重全部をかけて組み付き、転倒したとみるや即座にこの父の権威と狂気の象徴であった杖を奪い取り、股ぐらの柔らかい部分を二度、三度と打ち据えます。

 股間を庇うように丸くなる父にまたがると、彼女は幼い指先を尖らせて相手の眼窩に爪を突き立てます。


 躊躇いとも人間的な紆余うよとも無縁の、最短で目的を果たす為の、獣の行動でした。


 悶絶する父から鍵束を奪い取って檻を開け放つと、少女は己もまた檻へと飛び込んで母を揺すり起こします。

 必死の呼びかけが功を奏したものか山猫が起きあがると、再会の喜びもそこそこ、まだふらつく母を促して一緒に檻の外に出ます。


 こうしてどうにか母を窮地きゅうちから救いだしたあとでようやく、少女は自分の置かれている状況に思い至ったのでした。


 ああ……ほかなりません。みじめな声をあげてのたうつ目の前の男は、何度目をこすって確かめても、彼女の父親にほかなりません。

 それに、父の片眼から流れ出す涙と血とその他なにかの混ざり合った体液。それは、少女がその手で振るった暴力の結果にほかならないのです。


 自分が行った暴力と、それが招くであろう事態、理解と予見が少女をふるえさせます。


 そのとき、傍らから「ぐぅう」と声がしました。

 みれば、未だ昏睡こんすいの余煙を色濃く引きずったままの山猫が、それでもどうにか起きあがり少女を見ています。


 愛する娘を安心させるようにごしごしと鼻面を押しつけてきたあとで、獣の母は急に真剣な面差しとなって少女に告げたのでした。


 お前はもうここにはいられないよ、と。


 短い逡巡しゅんじゅんの間がありました。

 そのあとで、少女はまなじりをけっして母にうなずきます。


 いましがた凶器に用いた杖を拾い上げると、彼女は目一杯の力を込めて呪使いの──それはかつて少女の父であった男で、そして、この瞬間にはすでにその関係性を娘の側から否定されている男です──後頭部を打ち据えます。

 それから、使用人の一人としておらぬ屋敷の中に引き返し、戸棚という戸棚を漁りはじめます。


 そうして必要な万端を手早く調えると、母と揃って永久に屋敷を後にしたのでした。

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