◆2.母と娘

 それから、屋敷での生活は変わります。

 山猫はは少女むすめの毎日の暮らしは。


 山猫の毛皮に抱きついて、しがみついて、少女は屈託なくそこに安らぎを求めます。

 遠慮なんて少しも必要なくて、畏れなんてまるっきり不要です。

 少女は山猫の愛を無条件に信じていて、だから拒絶されるかもという不安だってありません。


 一方山猫のほうもまた、そんな可愛い我が子から四六時中離れようとはしません。

 午睡ごすい微睡まどろむ少女を縞々しましまの尻尾であやして、毛のないすべすべの肌に毛繕いなど施してやって、ああ、これぞ無くしたはずの母の至福。

 もはや薬を与えられずとも凶暴な性質はすっかり放棄して、遊びまわる娘を見守る眼はただただ慈しみに満ち満ちています。


 この二者の関係に、血のつながった少女の父は待ったを唱えなかったのでしょうか?

 唱えなかったのです。

 いいえそれどころか、七人を喰い殺した猛獣をおそれず手懐けてしまった娘の様子に膝を打って大喜びし、「流石は我が娘! あれは将来、女だてらのどえらい呪使いになるに相違ない!」と、それまで顧みることのなかった娘に対してにわかに世継ぎの期待などかけはじめたほどです。


 かくして少女と山猫の関係に横やりは入らず、母子は幸せな数年間を過ごします。


 ところで、いま申し上げたような身勝手な父の期待に、少女は応えたのでしょうか?


 答えは半々です。

 半分は大いに応えて、半分はまったく裏切ったのです。


 世継ぎとしての呪使いの道に、少女はつゆほどの関心も示しませんでした。

 どころか、偏執に取り憑かれ母を──おぼろげな記憶の中にある人間の母を──死に追いやった父を筆頭とする呪使いという人種そのものに、彼女は強い嫌悪を抱いていたのです。

 しかしそうであるにもかかわらず、少女に培われた資質のほう、こちらは父親の大きな期待を遥かに上回る、大輪の花を咲かせていたのです。


 さながら幼子が言葉を覚えるように、四つ足の母と心を通わせた少女は、いつしか人ならぬ獣と言葉を交わす能力を、ごく自然のものとして体得していたのです。

 熟練の猟師が犬たちと通じたりとか、または熊回しが熊を意のままに操ったりとか、それはそうした次元とは比較にならぬ異能。


 小鳥のさえずりが、野良猫の喧嘩の声が、少女の耳には人の声も同様に届きます。

 また、彼女の言葉は獣という獣に正しく意図を伝えます。


 天下の呪使いが欲してまず、しかし指先すら届かせられぬ破格の才能。彼女の父が追い求めたような神秘の資質。

 その能力を、彼女はそれと知らぬまま獲得したのです。


 望むならば、少女は稀代の呪使いとして世に名を残すことも可能であったでしょう。

 ですがそのような大望とは無縁のまま、彼女はただ目の前にたゆたう揺籃の季節を、大切に、大切に満喫しておりました。

 愛する母に寄り添って、寄り添われて。



 そうした平穏の日々に、しかし暗雲は前触れもなくたれ込めたのです。

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