第二章 誰かが語り、誰かがそれを聞く限り。
獣の少女の挿話
◆1.山猫と幼女
もちろん、その少女にも名前はありました。
ですが、彼女の姓名は記さずにおきましょう。
なぜならこの挿話が結末を迎えるとき、彼女は生来の名よりもずっと重要な意味を持つ二つ名を与えられることになるのですから。
だから読者よ。そのときまで、彼女のことはただ『少女』とだけ呼びましょう。
その少女はとある貴族の一人娘としてこの世に生を受けました。
とはいえそれは、領主として代々土地を統めてきたというようなまっとうな家柄の貴族ではありません。
彼女の父は、もともと相談役として有力な地方貴族に仕えていた
さて、これは呪使いという人種にはありがちなことでしたが、この父は己に対し、自信や自負を超えた選民意識を抱いておりました。
俺は特別だ、との。
そしてその想いは、個人的な地位と権力を与えられたことによって、狂気すら含んだ確信を得るまでに至ったのです。
俺は神なる存在に祝福されている――にわか貴族の呪使いは歓喜のうちにそんな結論へと辿り着き、賜(たまわ)り物たる屋敷の一室で、ほくそ笑みながら鏡の中の自分に
論理とも呼べぬ
父親の狂った自意識、その第一の被害者となったのは、誰だったのでしょう?
彼の仕えた主君でしょうか?
いいえ、違います。
少女の父は呪使いである己に大変な
では、彼が治世に関与した、主君の統治する地方の領民でしょうか?
これも違います。
領地の平和、民の生活の安定に尽くすこともまた彼のお役目の
逆に以前にも増して領内の万事に気を配り人々の暮らしの為に心を砕くようになったようで、害を被るどころか領民たちはその働きぶりに感謝することしきり。呪使い様、呪使い様と少女の父を慕うこと
では、狂気の被害者は……まさか、家族?
ええ、ええ。まさにその通りだったのでございます。
暴君のように妻や子に当たり散らしたりは、彼はしません。むしろその程度であったならばどれほど良かったことか。多少気むずかしいところはあったにせよ、
しかしその思考が呪使いの本願である神秘の究明へと傾いたとき、彼の言動はにわかに狂気を帯びるのでした。
彼は言いました。使用人たちに、妻に、そして時には血を分けた娘にまでも。
簡単な用事を頼む口調で、くれよ、くれよと。髪を、血を、
己が狂っているとは、彼はけっして思いません。神秘の追求を至上の命題と信じ、その為にはあらゆる犠牲は払われて当然であると、
少女が三歳のときに、最後の使用人が屋敷から逃げだします。生まれたばかりの我が子の眼球を「片方だけでいいからさ」と
そしてそれから一年と待たずに、今度は少女の母親が倒れます。
己が盾となり
そして遺体となってのちは、血の一滴、髪の毛の一本までも無駄にはされずに暗い研究の
こうして、呪われた家庭にはまだ幼い娘と狂った父親だけが残されたのでした。
新たな使用人を
彼にとって、それらはあまりにも
あるいはかつて確かに愛した妻の死も、それに
さて、母の死から半年が経ち、少女が四歳になったばかりの冬のある午後のこと。
その日、屋敷に新たな住人がやってまいりました。
新しい住人は、しかし人間ではありません。
それは
数日にわたる戦いの末にようやく捕らえられたこの獣を、少女の父は主君に頼み込んで生きたまま貰い受けたのです。
「七人も喰らった化け物猫。どのような
期待に満ちた声で呪使いがひとりごち、そうして山猫の飼育ははじまったのです。
その猛獣は
危険への対処はとても万全とは言えぬものでしたが、しかし狂った呪使いには確信があったのです。
俺は襲われない。なぜなら祝福されているから、との。
娘や使用人が襲われることを案じる考えは、もちろんそこにはありません。
では、実際のところはどうだったのでしょうか?
彼の娘、この挿話の主人公である少女は、山猫の爪と牙に八つ裂かれてしまったのでしょうか?
いいえ、答えは
豪族の軍勢との戦いの
一方先にも申しました通り、少女はまだ幼いにもかかわらず母親と死に別れ、こちらもまた本能的に母という存在を求めておりました。
この二者が出逢った。
読者よ。これが運命でなく、いったいなにが運命でしょうか?
彼女が山猫の毛皮に小さな手で触れたそのとき、山猫の中で、打ちひしがれていた母性が歓喜の叫びをあげました。
これに対して山猫が返礼とばかりにざらつく舌で
この瞬間、二者は人と獣の垣根を無効にし、
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