■7.快哉


「出たぁ! 出たぞ! 山の神だ! 逃げなければ殺されるぞ! 炎に焼かれるぞぉ!」


 その叫びの出所も、またその叫びが誰のものなのかも、そうした一切を気にするゆとりはもはや一同に残されていない。

 ただ叫びの内容だけが良質のまきのように恐怖の火をさらに大きくした。


 人間たちはそれが仲間の声ではなかったことに気づきもしなかった。


 平素には農作業に精を出すような田舎兵士のこと、矛を構えて竜へと挑むような猛者もさは皆無であった。また、呪使いの中にも術を頼みに事態を解決せんとする者はなかった。

 彼らは押し合いへし合いつ見苦しく逃げまどう。

 呪使いは権柄尽けんぺいづくくで兵士たちに足止めを命じ、対する兵士たちは呪使いの責を叫ぶ。

 こうした状況下で、権威や権力への遠慮のかせは既に機能していない。


「偉そうにふんぞり返ってばかりでクソの役にもたちゃしねえ! てめぇらにも意地があんなら自慢のご祈祷きとうでどうにかしてみやがれってんだよ!」


 たまりにたまった不満がせきを切った。兵士たちは口々に呪使いに罵声ばせいを投げつけた。


 そうした醜態のただ中に、混乱への最後の追い打ちは加えられる。

 長い首を誇示するようにゆっくりとのけぞらせて、竜が大きく空気を吸い込んだ。

 沛然はいぜんと降りしきる雨に濡れた竜鱗りゅうりん灼熱しゃくねつし、雨滴を蒸発させて煙をあげた。


 その直後――開かれたあぎとから業火ごうかが溢れ、火弾となって放たれた。


 幸いにも、火炎の礫は逃げまどう者を誰一人として傷つけなかった。

 代わりに、彼らの背後で火弾の直撃を受けた天幕が燃え上がり、跡形もなく地上から葬り去られた。


 目の当たりにした紅蓮の猛威に、いっとき、叫喚きょうかんのすべてがぴたりと停止する。


 己の威を誇るように、山の神が咆吼する。

 呪使いの一人が失禁しつつ腰を抜かしたが、助け起こそうとする者はいなかった。誰も彼もが自分のことで手一杯で、他人にかまっている余裕などない。

 

 人間たちは絶望と後悔に打ちのめされている。しかしそれは遅きに失している。

 山の神はついに突撃を開始する。熾烈しれつな勢いで地を踏みしめ、普請ふしんされた山道を爪で掘り返しながら、怒れる竜は猛然と突進する。


 竜の行く手で、ある者はへたり込み、またある者は慈悲を叫んでいる。そんな同輩たちを置き去りにして一目散に逃げ出した、これが最も賢明な者たちだった。

 もちろん、慈悲乞いの叫びは竜へは届かない。竜は止まらず、むしろ加速を得てさらに勢いを増す。そして人間たちの絶望は深まる。


 そんな混乱のただ中にあって一人、あの呪使いの少年だけが冷静さを保っている。

 実際に目にした竜の姿にはもちろん彼も度肝を抜かれたし、事実、強い恐怖を覚えてもいた。しかし大人たちの見苦しい様は、彼の心を急速に冷却してあまりあった。

 場違いな平静を得て、半ば俯瞰ふかんする心で彼が状況を見つめていた、そのときだった。


 山道脇の茂みから何者かが飛びだし、両手を広げて竜の前に立ちはだかったのだ。


「おお、山の神よ! 静まりたまえ! 静まり、そして、どうか愚かな二つ足どもに慈悲をたまわりたまえ!」


 ほとんどの兵士たちがはっとするのを、呪使いの少年は気配で察した。

 事態への闖入者ちんにゅうしゃの姿を兵士たちは覚えていた。

 一同を守るように竜とのあいだに立ったのは、兵士たちに警告を託した張本人、山の神の使いを名乗ったあの子供だった。


 あいつか、と呪使いの少年は呟く。

 そうか、奴がそうか。


「神よ! もう十分でありましょう!」


 山の神の使いは叫んだ。


「見れば、この者たちはいままさに山を降ろうとしている最中! もはや深追いする理由はありますまい!」

「ならぬ!」


 使いの呼びかけに、山の神たる竜は地鳴りのような恐ろしき声で応じた。


「……し、喋ったぞ。口を利いたぞ。やはり、やはり本当に神なのだ……!」


 そう絶望を囁いたのは呪使いの一人だった。

 もはや隠しもせずに舌を打ち、呪使いの少年は怒りと軽蔑の視線をその男に向ける。

 幻想生物の王たる竜は人語を解し、またそれを発する。彼はそれを知識として知っていた。

 彼にとって先達のいまの発言は、自分の勉強不足を棚上げにして新たな迷信を生みだしたに等しいものだった。


 貴様のような者がいるから、呪使いは堕落の一途を歩み続けてきたのだ。

 少年がままならぬ怒りに切歯したとき、竜が再び人語を発した。


「こやつらはよこしまな心で山を乱し、あまつさえこの我を欲望の矛にかけようとした! もはや悔悛かいしゅんの時は過ぎた! もはや許容にはしかず! 告解をうたうは遅い!」


 再び恐ろしき咆吼が山狩りの陣営を骨からすくませる。

 それに対し、山の神の使いがもう一度人間たちへの擁護ようごを叫んだ。


「神よ! お怒りまことにごもっとも! ですが、愚かな二つ足、人間もまたよろずの獣の一つではありませんか! ならばここは一度だけ、ただ一度だけ容赦を!」


 そう呼びかけるやいなや、山の神の使いは竜へと駆け寄る。

 そしてあろうことか、その身を投げだして竜の巨体に組み付いたのだった。


「さぁ皆様! わたくしがこうしているこの隙に! く疾く、お逃げなさい!」

「おっ、おおっ!」


 放心していた呪使いの長、神童の少年の父親が、突き動かされたように立ちあがった。


「ありがたや! これぞ天の助け、神のご加護の顕現けんげんに他ならぬ!」


 左手に握った杖を大仰に振りかざして彼は叫んだ。


「山入り前に捧げた祈祷の功徳くどくが、いまになって利益りやくを呼んだとみえるわ!」

「ああもう! そんなことよりさっさと逃げなってば!」


 山の神の使いがいささか苛立った調子で叱りとばす。


「あなたの神はどうだか知らないけど、ほら、目の前の神は見ての通りなんだから!」

「お、おお、そうじゃ! 皆の衆! この好機を逃がすな! 立て! 走れ!」


 気を取り直して叫ぶ呪使いの長。

 しかし彼の号令を待つまでもなく、既にほとんどの者が撤退を開始している。中には律儀にも山の神の使いに礼を告げていく兵士もいた。

 

 最後まで逃げずに残っていたのは呪使いの少年だった。

 恐怖で動けないのではなく、意思をもって彼はそこにとどまっている。

 留まり、そして、山の神の使いに苛烈な視線を注いでいる。


 自分と同年代の姿を持つ相手に。

 自分と同年代の、その敵に。


 しかしやがては彼もまた身を翻し、そのまま逃げ去る面々の一員となった。


「いいですか、二つ足の皆様!」


 最後に、山の神の使いは人間たちの背に向けて叫んだ。


「今日の恐怖をゆめゆめお忘れなく! 次はありません、二度と妄(みだ)りに山をおかさぬよう!」


 誰も返事はしなかった。しかし彼の言葉はきつい戒めとして人間たちに届いた。


 かくして、よからぬ企みを持った人間たちは残らず山を去った。

 最後尾を行っていた少年も山道の彼方に消えて、山狩りの陣営は、ようやく二人の視界から消えた。


 それから、念のための数十秒が待たれた。緊張と予感に満ちた数十秒が。

 そのあとで、一人と一頭は満を持して快哉かいさいを叫んだ。

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