■8.きっと、はじめてこいつに名前を呼ばれたときから。

 その晩、月はいよいよ器を満たしてまるかった。彼方かなたまで、細部まで、満月は遺漏いろうなく蒼穹そうきゅうを照らしている。

 星々は限界を超えて夏を彩り、雲はそのすべてが雨となって流れてしまったものか、絹雲きぬぐも一縷いちるとも無縁の夜空はどこまでも蒼く深い。


 まったき月が照らす、まったき夜がそこにあった。


 彼と彼女はその夜の中心にいた。

 この夜は自分たちのものなのだと、どちらも言葉にはしないまでも、その気持ちを共に抱いている。


 ふたりの夜を完全にしているものの余韻に気分よく浸りながら、リエッキとユカはなにも言わずに寄り添っている。

 すでにひとしきり言葉は尽くしていた。ひとしきり喜びは喜び合っていた。

 だからいま、ふたりはただ沈黙を楽しんでいる。


 一日の終わり。あまりにも特別な一日の。

 リエッキは寂しさすら感じながら過ぎゆく時に身をゆだねている。

 不思議だ、と彼女は思う。

 彼女にとって、昨日までの毎日はひたすら同じ日々の繰り返しだった。だから、一日一日を惜しむなんてことは、その発想すらなかった。

 なのにいま、彼女は今日という一日が終わってしまうことが、たまらなく寂しい。


 自分が新しくなり続けた一日だったとリエッキは振り返る。だから、昨日までの自分を遠く距離を隔てた他者のように感じるこの心理は、間違ってはいないのだろう。

 今まで、わたしのなかにはまっさらな空白だけがあった。けれど今日、そこには最初の一筆が描き入れられたのだ。

 そしてそれに続く二の筆、三の筆……いいや、数えあげればきりがない。

 そうだ、数え切れないほど多くのものをわたしはこの一日で獲得したのだ。だから、昨日までのわたしは、もういない。


 リエッキは語り部を見つめる。彼女という竜に点睛てんせいを加えた、まだ年若い語り部を。

 いま、彼は彼女に寄りかかって星を眺めている。

 この夜に負けぬほど澄みわたった瞳で。


「おいユカ」とリエッキは話しかける。

「なに?」とユカは答える。


 そして、会話はそこで途切れる。わたしはなにを言おうとしたのだろう、と彼女は考える。

 考えて、そして唐突に答えは去来する。

 わたしはただ、こいつに話しかけたかっただけなのだ。


 話しかけて、そしていらえは得られた。

 当然のようにそれは返された。


 ちきしょう、と彼女は思う。

 ちきしょう、どうしてこんなにも気分がいいんだ。


「……今回のこれは」

 

 と、努めて低い声を作ってリエッキはユカに言った。


「今回のこれは、全部あんたがやったんだ。わたしはほとんどなにもしてない。だから、この勝利はあんたのもんだ」


 なにが言いたいのか、自分でも全然わかっていなかった。

 しかし返答は即座に、間をおかずに返された。


「違うね。あの物語は君を中心に成り立ってたんだ。だからあくまでも主役は君だよ」

「口答えすんなよな。あんたはわたしの使いなんだろ? だいたい失礼な奴だよあんたは。逃げなければ殺されるぞ焼かれるぞって、わたしはそんなに凶暴じゃないっての」

「そうかな? そのあとの君の迫力と来たら、その台詞を体現してあまりあったと思うけど? 山道を畑のうねみたいにしちゃってさ。あそこまでしろなんて僕は言ってないぞ、山の神」

「だから口答えするなっていうんだ。愚かな二つ足め」


 言葉は鍛冶場かじばの音響にも似て打てば響いた。和やかな言い合いをふたりは重ねる。

 それから語り部が、ユカが笑う。こらえきれなくなったというように彼は吹き出す。


「違うよリエッキ、僕らはふたりとも間違ってる。僕らはどちらが主役でもない」


 本当は君だってわかってるんだろう? と彼は彼女に笑いかける。そして続けた。


「僕らはふたりだからできたんだ。ふたりだから成し遂げられたんだ。だから、今日の勝利はどちらか一人のものじゃない。この夜は、僕たちふたりのものだ」


 ユカはもう一度リエッキに体重をあずける。

 温かい重みが彼女に寄りかかる。


 ちきしょう――リエッキは思う。

 ちきしょう、どうして、どうしてこんなにも。


 感情というものの威力を、彼女は己の中にまざまざと感じ取る。

 胸の奥にある炎よりも熱いなにか、暴れ狂って心を締め付けるなにか……そのすべては昨日まではなかったものだ。

 すべてがこの一日につちかわれたものだった。

 だからそれらの一つ一つを、リエッキはいまだ名付けることすら出来ないでいる。

 彼女は感情という厄介な代物をまったく持て余し、その暴威ぼういにひどく振り回され、そして、数々の感情それらに一つ残らずかけがえのない価値を見いだしている。


 今日という一日が終わってしまうのが寂しかった。

 深まる夜が切なかった。

 なのにその寂しさや切なさまでが心地よかった。


 戸惑いは尽きずに、しかしどこをどう探しても不快さはない。


「……ちきしょう」


 彼女はとうとう声に出して言う。そして語り部を睨み付けて、続ける。


「こいつは、全部あんたが原因だ。全部、全部あんたのせいだ!」


 すねた子供のように彼女はぷいっと顔を背ける。

 そんなリエッキを、ユカは瞳に透明な温度を湛えて見つめている。


「ねぇリエッキ。僕たち、もっと色々話そうよ。僕はもっと君のことを知りたい。僕のことも知って欲しい。だってさ、僕らは一緒に一つのことをやり遂げた、最高の親友同士なんだもん」


 今日という日はまだ終わらないと、少年の二つの瞳が、雄弁に彼女に語りかけていた。

 そうして、リエッキの中で、また一つ感情が脈打ちはじめる。

 わたしはいつからわたしになったのだろう?

 彼女は自問する。

 そして、親友と言ってくれた男の子を見つめながら、自答する。


 きっと、はじめてこいつに名前を呼ばれたときからだ。



   ※



 リエッキとユカは語り合った。深まる夜に、終わりゆく一日に抗うように。

 歓談の場には前日にはなかったたき火が焚かれた。それに蜂蜜と蜂蜜菓子、蜂蜜酒が所狭しと並べられた。

 ユカが蜂飼いの家族から与えられた餞別せんべつはこの一夜に余さず開放され、そして残らず消化された。

 この夜、リエッキははじめて水以外の食べ物や飲み物を口にし、そしてその味わいに取り憑かれたように魅了された。

 以降、蜂蜜は生涯にわたる彼女の大好物となった。


 酒に酔い、疲れにつぶれ、二人はいつしか眠りについている。

 彼と彼女が目覚めたとき、ふたりが共に一つのことを成し遂げた記念碑的な一日は既に終わっている。

 しかしもちろん、ふたりの友情は継続している。


 翌日もユカとリエッキは共に過ごした。揃って目を覚まし、また眠るまで、ずっと。

 彼と彼女はあらゆる時間を共有した。

 その内側に特筆すべきことはなにもなくて、なのにすべてが特別だった。一緒にやること、一緒にいること、なにもかもが喜びと楽しさに満ちて輝いていた。


 ユカと過ごした数日に自分が得たものを、リエッキは数えあげることができない。

 彼女はもう己の内面に空虚くうきょを感じない。

 充実に次ぐ充実に、自分がまったき隅々まで満たされていることを彼女は自覚して実感している。

 リエッキはもう、自分を現象とは思わない。

 わたしはわたしなのだと、彼女は世界に胸を張れた。


 その翌日も、そのまた翌日も、ふたりは同じようにして過ごす。

 蜂の巣を求めて山中を駆けずりまわり、ようやく見つけたそれに中身の蜂の子ごとかぶりついた。

 通行の再開した山道を眺めては自分たちの成し遂げたことを確認して、くつくつと勝利を笑み交わした。

 夜の数だけ物語が語られた。


 ふたりは友情を確かめ合わない。確かめるまでもなく確固としてそれはあったからだ。


 そして、五日目に別れは訪れた。

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