■6.呪使いの少年

 天幕がびりびりと震えるほどの、凄まじい咆吼ほうこうだった。

 それが竜の発したものであることを疑う者は、一人としていない。

 山狩り陣営の面々は葬列を思わせる表情で押し黙っている。


 その少年はまさにそこにいた。

 ユカではない。年齢は彼と同じくらいで、しかしユカとは対照的に甘えのない顔つきをした男子である。


 大人たちの情けない様子、特に呪使いたちの無様な有り様を、少年は厳しい批判の目で睨み付ける。

 撤収を決断したこの場の呪使いの長、少年はその息子であった。高位の呪使いを父に持ち、自身もまた将来を大いに嘱望しょくぼうされている神童、それが彼だった。


 父をはじめとする呪使いたちの狼狽ぶりを少年は唾棄だきしていた。

 なにをいまさら、と彼は思っている。最初から我らは竜を捕らえんとしてこの山に入ったのではなかったか。

 それが山の神だとかなんとか言い出した途端に、いったいどうした体たらくだ。

 竜はただ竜でしかないではないか。


 ……ああ、これこそが呪使いの弱点だ。少年は心中にそう嘆じている。

 神秘の担い手を自負しすぎるあまり、その神秘に振り回される。

 なんという本末転倒か。なんという無様か。


「……私はそうはならない。私は、断じて使うべきものに使われたりはしない」


 深すぎる嘆きが口の端にこぼれた。

 どうしたせがれよ、と呟きを聞き止めた父がこちらを向いたが、少年は完璧に取り繕った笑顔で、いえ、なにも申してはおりませんよ、とこれをかわした。

 そして納得した父が再びあっちを向いた瞬間、その笑みをさっきより強いさげすみで塗りつぶした。


 この山狩りには四人の呪使いが参加しており、最年少がこの少年だった。

 一番の年若でも彼より十も年上の先達たちは、しかし全員が揃って山の神の威に畏れをなしている。

 不甲斐ない年長者たちに代わって、少年はこの一件を冷静な視点から考察する。

 竜はただ竜でしかない、さっき心に生じたその考えを彼は今一度繰り返してみる。

 それから思考をさらに一段掘り下げ、報告された山の神についても考えてみる。


 二つの考えが少年の中で結びついた。己にしか聞こえぬ小声で彼は呟きを発した。


「竜はただ竜でしかない……ならば、人もまた人でしかない」


 竜に味方をしている人間がいる、彼はそう確信していた。しかも兵士たちの証言が事実であるとすれば、それは自分と同年配の子供というではないか。

 つまり父たちは……我々呪使いは、そんな子供に翻弄ほんろうされているということになる。


 情けない、あまりにも情けない。

 整った顔容かんばせが羞恥と歯がゆさに歪んだ。


 なにが山の神か、なにが怒りの雨か。

 明察な観察眼を持つ者ならば天気を見抜くこともできよう。

 そもそも我ら呪使いの行ってきた雨乞いとて、その本質は雨の気配を察しその時宜を掴むところにあったのだ。きたる雨に合わせて祈祷を行い自らの手柄とする、昨今では卑賤ひせんと蔑まれる術。

 敵はただそれと同じことをしているだけではないのか。

 どうして当の呪使いがそれに気付かない。それに騙される。


 己の幼さを少年は呪う。彼はようやく見習いとして杖を授けられたばかりだった(それとて年齢を思えばかなりの速さではあったが)。

 先達に意見することはおろか、その考えに反する意思を示すことすら許されない。目下めしたの者は目上に対し、肯定的に笑んでいるより他にない。

 実際を無視した阿諛追従あゆついしょう、それがまかり通る呪使いの社会もまた少年の憎悪の対象であった。


 ――いつか私が変える。腐った呪使いに、いつか必ず変革をもたらす。この私が。


 少年がひそかに決意したそのとき、再び咆吼が天幕を震わせた。

 今度のはかなり近い。


 見張りに立たせていた兵士が、慌てた様子で駆け込んできた。

 その兵士はただ一語のみを繰り返し叫んだ。

 完全に錯乱してしどろもどろになりながら、繰り返し、繰り返し、「赤い! 赤い! 赤いんです!」とだけ。


 彼の言わんとすることを理解できた者は一人もいなかった。それが兵士の狼狽を加速させたようだった。

 どうしてみんなわかってくれないんだとばかりに、彼は子供のように地団駄じだんだを踏みはじめる。


 とそこに、この兵士の相棒らしい別の兵士が遅れて駆け込んできた。


「ド、ドラゴンです! 赤い鱗の、だからつまり、火竜です! 現れたんです!」


 こちらの彼も落ち着いていたとは言い難かった。が、しかしそれでも報告は十分に意味をなした。


 もたらされたしらせがその場を恐怖の坩堝るつぼへと変えた。

 全員が我先を争って天幕の出口へと殺到する。

 一人、呪使いの少年だけが慌てもせずに、最後にゆっくりと天幕を出た。


 そして、また咆吼。

 しかも今度のそれは、物理的な空気の振動となって一同の肌にぶつかった。


 予感に貫かれて、全員が音の波の来たほうを振り向く。

 そして、全員が揃って目撃する。


 いままさに木々を薙ぎ倒し山道へとおどり出た、怒れる火竜のその威容を。


 どこからともなく大音声だいおんじょうの悲鳴があがった。

 誰よりも速くそれは叫ばれた。


「出たぁ! 出たぞ! 山の神だ! 逃げなければ殺されるぞ! 炎に焼かれるぞぉ!」


 その叫びの出所も、またその叫びが誰のものなのかも、そうした一切を気にするゆとりはもはや一同に残されていない。ただ叫びの内容だけが良質のまきのように恐怖の火をさらに大きくした。


 人間たちはそれが仲間の声ではなかったことに気づきもしなかった。

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